数十年後
大学教授となった知也は知に幻滅していた。
「ああ、これまであらゆる学問を修めてきたが、私を満足させるものは一つもなかった。
科学、法学、文学、神学、哲学……果てには何かの役に立つこともあろうかと思いマンガ学なぞも修めてみたが、全くの無駄骨であった。
知とはなんと虚しく空疎なものであろうか。
人生を知に捧げてきたが、私は少しも知識を得ることができていない。
できたのは、昔の学者先生の著作に注釈を入れることくらいだ。それもいずれ土台から崩され、私の業績は忘れ去られるだろう。
いや、そんなことは構わないのだ。これらは知識ではない。単なる観念の集合体。集団妄想に過ぎない。
結局人間が得られるのは知恵に過ぎず、知識は無限に遠いのだ。私たちが知ったと思い込んでいるものは実際には知識の似姿――影に過ぎず、完全ではない。
どうしよう……このままじゃ、楽園に行けないよ。
トーマス助けて!」
「およびですかな」
ニュッと現る黒い影。
「お前はトーマスではない。控えよ、悪魔!」
「げっへっへ。ダンナ、そんなこと言わねぇでくだせぇ。ワタシゃそれなりに役立つ情報を持っているつもりですぜ」
手を揉み揉みする悪魔。
「お前のことだ。また何か対価を支払えと言うのであろう」
「察しが早くて助かりまさあ。当然、対価は必要でございます。今回は……そうですねぇ……死後の魂でいかがでしょ」
「ふざけるな。私は楽園に行くのだ。魂などくれてやるものか!」
「いえいえダンナ、話は最後まで聞くものですぜ。死後の魂をいただく、と申しましたが、それはアンタが楽園に到達することに失敗した場合の話ですぜ。楽園に行っちまえば、ワタシはもう手出しはできません。そうすると、ダンナの勝ち逃げとなりましょう」
「たしかにそうだ。私は楽園に行けなければ魂などどうなろうと構いはしない……分かった、支払おう」
「へっへっへ、毎度あり」
悪魔はニヤニヤと気色悪い笑みを浮かべながら知也の額に手を当てた。
「これで契約は成立しました。もし死後、楽園に行けなかった場合に魂を渡さなかったら、アナタの魂は消滅します」
知也は詳しく話を聞かなかったことをちょっとだけ後悔したが、今さら文句を言うのも恥ずかしかったので黙って頷いた。精一杯、威厳を見せるようにね。
「さて、情報の方ですがね」
ごくり、知也は固唾を飲んだ。
「知を得る方法を教えて差し上げましょう」
「本当か!」
知也は食い気味に、
「はやく、はやく教えてくれ!」
悪魔は、
「はいはい、焦んないでくださいよ。まったく、すぐボロが出るんだから……」
あ、カッコつけてたのバレてたんだ、とちょっと傷付いた知也は少しムッとして、
「いいから早く言え」
「ごほん、知を得る方法、それは……」
「それは?」
「それは……」
「……」
「それは……」
「いいから早く言え!」
ゴツン、とゲンコをくらった悪魔は何も殴ることないのに……とかブツブツ言って頭をさすると、ぶすっとした顔でイヤそうに言った。
「音楽を聴くことですよ」
「音楽を聴くことぉ?」
信じられない、という顔で悪魔を見つめる知也。
信じてないだろうな、という顔で知也を見つめる悪魔。
「信じてないでしょ」
「信じれないでしょ……」
当然の反応である。
知也からすれば人生の大部分を学問に捧げてきて、それでもなお、知識を得ることは不可能だったのだ。
音楽を聴くだけで良いとすれば私のこれまでの人生はなんだったのか、との考えから、知也は心のどこかで本当に音楽を聴くことで知識が得られる可能性があるかもしれないと考えながらも、悪魔の言葉を否定する。
「さては貴様、私を愚弄するつもりだな?」
知也は怒りをにじませて言った。でも同時にこうも思っていた。でも確かに音楽は習ってないしなあ。本当かも……。
「まさか! 私が今までダンナを裏切ったことがありましたか? ちゃんと約束は守ってきたハズですよ」
その通りだった。悪魔にとって不利になるような約束でも、必ず彼は守っていた。やる時はやる男、約束は守る男、仲間は絶対に裏切らない男、地元命、家族第一、バーベキューサイコー。
そんなマイルドヤンキーのような信念を体現するのがこの悪魔であった。
「たしかにそうだ。分かった、素直に聞くとしよう」
「そうしてくれると助かります」
(ああ、なんてめんどくさい教授センセーだ……)
と悪魔は心の中で思った。
「音楽を聴くと言ってもなんでもいいわけではありません。真理の音楽を聴かねばなりません」
「真理の音楽とはなんだ」
「まず、私たちの言葉は信用ならないものだと言うことは前にお話ししましたね。言葉は重要なものを取りこぼす。死んだ知識に対応するもの、それが言葉です。ですが私たちは言葉なしに知識に到達することができません。ではどうするか、言葉のない言葉を使えばいいのです。それが、真理の音楽です。真理の音楽はどんな言語よりも厳密で完全な文法を持っています。そしてそれは、事物を指し示す言葉の組み合わせでものを認識する言語とは違い、ものそれ自体へじかに到達することが可能なものなのです」
知也はなんのこっちゃ、わけわからんと思った。
「それで、どうすればいいんだ?」
知也は結論を急ぎました。説明が理解できなかったので、怒りを少し込めて言いました。
「結論を言ってしまえば、真理の音楽を作曲できる人間とそれを完璧に演奏できる人間を探すことが必要です」
「いるの、そんなひと?」
「います! たぶん……」
「たぶんって」
「いないなら、作りゃいいんですよ」
悪魔は悪魔の笑いをした。
「つ、作るって……まさか……」
「ええ、そうです。錬金術ですよ、錬金術! ホムンクルスを作るのです!」
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