身の振り方を決める前に
「あっはっは! 実は親方もね? さすがにドレス姿はどうかなと思ってた。まあ成果はあったんだから胸を張ればいいさ」
廊下に心地よく響くイケボで快活に笑って慰める幼女は、自らを親方と名乗っていた。
初めて聞いたときに役職じゃないの?と思わず突っ込んだ女性だったが、それで問題なく通っているから敬称無しで呼んでと言われてしまった。野暮な詮索をするつもりも無いしいいやと納得し、転移も含めて簡単に事情を説明して「菜乃花」と名乗ったところ、持ち物と服装が著しく解離しているのは転移のせいではないかと問われ、そこで初めて自身の服装を見下ろした。
日常からかけ離れた、まるでアイドルの様なドレスを。
この格好で通りを横断してのけたのかと赤面した菜乃花は、目を逸らされていたのは「キ」で始まる自由な人と誤解されていたからでは?と思い至るや表現の難しい呻き声を上げて踞ってしまった。そこにかけられたのが先の親方の言葉である。
「……親方の服も天使みたいなデザインじゃない」
自分だけあげつらわれるのは納得いかないと恨みがましく言ってみた菜乃花だったが、
「みたいじゃない。親方は天使なんだ」
「え。あ……え?」
「誉めてくれていいんだよ? 可愛いだろう?」
実に嬉しそうな幼女の笑みとイケボで堂々と返され、突っ込む所しかなくて脳が返事に困窮した結果、
「あ、はい」
と頷くしか出来ずにそっと目を剃らして、通ってきたばかりの床を見返した。
あの後なんだかんだで露店の手伝いをさせられた菜乃花は、ダーエという通貨単位と紙幣貨幣がありレートは円とほぼ変わらない事を知った。
ちらりと幼女を見上げる。
「?」
可愛らしく小首を傾げている幼女だけど商売のときは軽妙なトークと絶妙な威しを的確に使い分けていたなと思い出した菜乃花は、強引に手伝いをさせたのは実地でお金の扱いを学ばせたかったのでは?と好意的に考える事にした。なんとなく癖がありそうに感じはするものの悪い人物でないと思っているのだ。
大口の輸送契約を幾つか纏め、並べていた酒類の殆どを売って店仕舞いを宣言した後も、背後の大きな建物の扉を開けて自然に菜乃花を招き、2階の今の場所まで案内しながら不安を解きほぐそうとするかのごとく会話を続けてくれた。
(やることがイケメンなのよね。さて、と)
いつまでも踞っている訳にいかないと立ち上がると、親方が待っていたかのように扉を開けて中を示し、菜乃花は素直に従って中へと入る。
(さりげなくレディーファースト。ほんとイケメンね。幼女なのに)
心の中で自分に突っ込みながら室内を見渡した。
それほど広くは無い。小さなテーブルセットの他に壁と一体化したようなドレッサーがあり、テレビで見たことのある楽屋に似ている。隅にギターが立ててあることからも間違いなさそうだ。土間から一段上がった板張りの床ということは靴を脱いで上がる仕様なのだろうとブーツを脱ぐ。
「なるほど。名前の通り中身は日本人で間違いなさそうだね」
「中身?」
「説明されるより見た方が早いんじゃないかな?」
目線で鏡を促されて、菜乃花は言葉の意味を考えながらドレッサーに向かい、はたと気付いた。
正直、嫌な予感しかない。
あらためて意識してみれば、視界に入る自分の髪が黒ではないのだ。かといって身に覚えがないわけでもない、いやむしろ毎日見ている菫色。
これはそういう事なのかと覚悟を決めてドレッサーの前に立つ。
「……やっぱり。あたしのアバだった」
映し出されたのは菜乃花がSNSで使用しているアバターそのものだった。
菫色の髪を光が褪紅色と呼ばれる薄もも色に輝かせ、白い肌に柔らかな温度を与えている。僅かに上がった口角は慈愛に満ちた微笑みを形作っているのだが、それを差し置いてでも特筆すべきは親方が「魔眼」と称したローズピンクの瞳だろうか。色だけでも妖しげなのだが、白く複雑な紋様が刻まれていて、見る者次第で愛憎のどちらにも印象付けられる事だろう。
首から下は見ない。意識しなくともよく知っている、出歩くには少々恥ずかしいデザインのドレスなのだから。
ふっ、と鏡から視線を切って親方を見る。
「ありがと。あたし自身に起きたことは理解したと思う」
「それは良かった。じゃあ契約について――いや、先にこの世界の話をした方がいいかもしれないね。お茶を用意するから適当に座っててくれ」
そう言って出ていく親方を視線で見送り、菜乃花はテーブルの席に着いた。
(何も知らないから考えたって分かる事が無いのよね)
トートバッグをテーブルの上に置き、中身を並べていく。
カップ麺が2つ、高級レトルトカレーが2つ、食パン、卵(10個パック)、切り落としベーコン、酒粕、醤油、味噌。買ったものは以上。あとは家の鍵と財布、スマートフォンである。
(切らしそうなのを補充したかっただけだものね。転移なんてラノベ現象を予測できる筈もないし、仕方無いと言えばそうなんだけど)
ふうっとため息を吐いて、出したのと逆順でバッグに戻していき、食パンを掴んだところでピタリと動きを止めて、ゆっくりテーブルに突っ伏した。
そして、ふた呼吸おいてから呻く様に声を漏らす。
「くっ……せめて化粧水とシャンプーリンスは買っておくべきだったぁぁぁぁ」
「あははははっ。女の子だねぇ」
「――!?」
菜乃花は突然の快活な笑い声にガバッと身を起こして扉を見た。
「足りなくなった物の買い出し帰りに転移した、といった所かな? 女の子の1人暮らしだ。インスタントが2つずつと言うのは良い習慣だね」
大きめのトレイを運んできた親方は、テーブルに残った物を見てそんな事を言った。
菜乃花が慌てて片付ける。
「凄い、ひと目で気付いたのは親方だけよ。大抵は『同じ物だと飽きない?』なの」
同じ物を2つずつ買えば、普通は同居人の存在を連想する。その心理を利用したストーカー避けだと見抜く者は、これまで1人もいなかった。
「親方ですから」
独特の抑揚で答えてトレイを置き、にっこり笑う。おかしいぞ? なんだか慣れてきた。と内心で動揺した菜乃花だったがそれは隠し通せた様だ。
てきぱきと紅茶の準備をした親方が椅子に座る。あとは抽出を待つだけ。
そんなリラックスした状態で親方が切り出した。
「さて。簡単に例えるなら、ここは仮想の異世界なんだ。住人の殆どはNPCで構成されている。そして残りが親方の様なPCなのだけれど、外部から操作している訳ではない――とりあえずここまで。理解できるかい?」
菜乃花は立てた指を顎に添えて、おそらく誰もが考えるであろう答えを思い浮かべ、それを言ってみる。
「NPCとPC……つまりゲームの世界?」
「それなら菜乃花さんに説明は要らないだろうね。大事なことだけれど、PCは現実世界の記憶を1部引き継いだ存在なんだ。さっき親方は簡単に例えると、と言ったよね?」
菜乃花が困惑を浮かべて頷くと、親方も満足そうに頷いて続ける。
「ここはゲームなんかじゃない。本当に異世界なんだ。死はただただ死で、決して生き返る事は無い。そこに姿を変えたとはいえ生身の人間が来るのは非常に稀な事なんだよ」
ここまで理解できたかい?と首を傾げる親方を凝視しながら菜乃花は考えていた。
もしかしたら日本に帰れないのではないか、と。
つきん、とこめかみが痛む。
そして気付いた。
自分は目の前の人を知っているはずだという事に。
知っているはずなのに思い出せないという事に。
つばを飲み込み喉が鳴る。
直後。
――きゅううるるっ――
「あぁっ」
菜乃花のお腹が鳴り、思わず声を漏らして手で押さえる。
ガタッ
「?」
椅子を蹴って立ち上がったような音を耳にしてそちらを――親方を見る。
どうやら立ち上がったのは本当だったようだ。
「どうしたの親方? お腹が鳴っただけよ。そう言えばお夜食を買いに出て転移させられたんだった」
そう言ってバッグに入れたばかりのカップ麺を持ち上げて見せた。
「あーーー。ああそうだ、菜乃花さんは体感時間でどれくらい起きていた事になる?」
一瞬の焦りを覗かせたかに見えた親方だったが、すぐに表情を戻して尋ねた。菜乃花は視線をさ迷わせて記憶を辿る。
「うーん……転移が22時くらいだったから、元の時間で言えば今は翌日の2時ってとこかしらね」
「なるほど。うん、それなら1曲弾いてみようかな」
「はい?」
言われたことの意味が分からず首を傾げた菜乃花に構わず、ギターを左利き持ちにしてチューニングを始めた親方だったが、それもあっという間に済ませて菜乃花に向き直る。
「よく見れば少し疲れているみたいだしね。異世界ならではの回復術をかけてあげよう」
親方の左手が軽やかに舞い、右手は流れる様にフレットを高速移動する。
両手の指先が複雑に駆け回り、弦1本1本が意思ある生き物の様に歌いだした。
生み出されたのは黄金色の光を放つ柔らかな音のさざ波。
壁で跳ね返った音がギターに戻り、あらたな共鳴を生み出して室内を満たす。
(え? ギター1本でこんなにたくさんの音が出せるの? なんて複雑で繊細で――なのにまるで跳ねる様な、でも心地好くて……)
菜乃花は一瞬で黄金色の音の海に包まれた。
(うわぁ……才能ってこういう事なのかしら)
うっとりと目を閉じて聞き入る。体がフラッとしたが気付かない。
時折上等なガラスを弾いた様な透明感のある音が発せられ、そのたびに菜乃花の意識レベルが下がっていく。
やがて椅子の背もたれに身を預け、すぐに深く静かな呼吸が聞こえだした。
音の奔流が収束し、ラストの旋律を奏でて余韻を残し――室内に静寂が戻る。
「――ふうっ」
親方が大きく息を吐いてから菜乃花を見た。
「うん、寝落ちできたみたいだ。いやぁ、ごめん。親方、時差を忘れてました」
そう言って指をピッと二本立てると、
「お疲れ様だったね。――いい夢を」
立てた指先をスッと菜乃花に向ける。
「見るんだ」
その言葉を、菜乃花は夢の中で聞いていた。