月明かりで転移
「え? なにどゆこと?」
肩にかけたトートバッグの持ち手を握りしめ低めながらも綺麗なトーンを響かせて呟いた女性は、驚きを表情にしつつも瞬時に理解したのだろう、唇の端には喜びを浮かべていた。
そこそこ広い通り沿いに所狭しと並ぶ露店と行き交う人々。熱気はあるけれど気温が上がりきっていない空気感。取れたてだの新鮮だのと聞こえる売り子の声。
(これは朝市!? 日本人いないし異世界でしょこれ!? なん――あ、あれか。月の光だ)
女性は直前に月の写真を撮影していた。
これといって特別なことではない。小腹が空いたのと切らしかけた日用品の買い出しにトートバッグを掴んでドラッグストアまで行った帰り道。雲間から覗く満月が妙に綺麗でSNSに貼るかと数枚の画像を撮った。そのときに。
(なんか光った気がしたんだよね。気のせいかと思ったけど……)
考え事をするときの癖なのだろうか。女性は指を立てて顎に添えると改めて周囲を観察した。
人々の身なりは国籍問わず入り雑じった様な感じだが悪くない。埃っぽい空気ではあるものの地面は石畳で土埃が舞っているわけでもない。あの大きな丸い石畳はマンホールの蓋だろうか。人の隙間を遠く見通せば一定の間隔で見えるからそうなのだろう。
(……お約束と言うか。塀に囲まれているのね)
視線を上げれば遠くに城壁があった。左右に注意しながら通りを横断しつつ見通してみる。反対側の遠くには小高くなった土地に洋風の城が聳えていてその向こうまでは見えない。
(とことん広いのね。この感じだと水平線までの距離は地球と同じくらいかしら?)
およそ4kmが地球上で見通せる距離である。正確な体感があるわけではないのだが、なんとなくそう感じた。人通りの邪魔にならないよう露店の間に滑り込み、さてこれからどうするかと考えた。
幸いにも自分は落ち着いている。お約束ならここらでトラブルに巻き込まれて保護されたりするのだろうけれど、人が多過ぎるせいか誰も気に止める様子はない。むしろ他人など気にしていられるか!みたいな都会の無関心さがある。日本に帰られるならそうする所だけれど安全さえ確保されているならこの世界を楽しむのもあり――
「――じょうちゃん? おい、そこのお嬢ちゃんよ! あんただよあんた!」
ふと気が付けば誰かが声を張り上げていた。もしかして?と左斜め後ろを見る。
「あぁ、やっと気付いたな。てか、なんだ魔眼持ちかよ。道理で人が避けてくわけだ。いいかい? 落ち着いて聞いてくれ」
バリトンボイスのイケボで苦言を投げられて首を傾げる女性。それを見て声の主が通りを指差す。
「通りを見てみようか。嬢ちゃんがその魔眼で睨みを利かせてるから人が避けている。それは理解できるかい?」
魔眼てなに? 睨んでいたつもりはなかったのだけど? と通りを見ると何人かが目を逸らすのが確認出来た。店主の言うことは正しいのかも知れない。だが、返事をしようにも情報が多過ぎるのだ。何よりも、と店主を振り返る。
「不服そうだね? だが事実なんだ。場所を移動するか詫びに笑顔を振り撒くか選んでくれないか? 前者なら塩を撒くが、後者なら悪いようにはしない」
「可愛らしい幼女に嬢ちゃん呼びされるのは納得できないんだけど」
言いたいことは色々あるけれどと女性が指摘したのはイケボの店主の容姿であった。
あきらかに幼いのだ。触れただけで逮捕される曲を思い出すくらいに。
その当人は。
「最っ高の誉め言葉をありがとう。それで? どうするのかな?」
慣れているのだろう。ニヤリと愛らしく笑って言った。
その瞬間、なぜだかこめかみに僅かな痛みが走ったことに困惑しながら、女性は現状を素早く整理した。
物理的に住む世界の違う自分を安易に排斥しなかった店主だ。相当な場馴れがあるか元々の懐が深いと見ていいのではないか。店先に並ぶのは高そうなお酒にグラス、シェーカーや計量カップなどなどだがスペースの半分を占める『ゆりかごから墓石まで輸送承りマス(四角にスラッシュ)』と書いた看板が本業くさい。いや、酒を扱うならバーなどで情報を売っている可能性もある。この世界を知らなければ身動き出来ないし当面の生活拠点が必要だ。詫びにと言うより積極的に頼った方がいいのではないか。
「そうね、第3の選択肢を提案したいのだけれど。集客に成功したら住まいとお仕事を斡旋してくれるかしら」
「ほほう。綺麗な声だからもしやとは思ったけど歌かな?」
女性の自信を見抜いて幼女が言った。
その通りだと頷き、女性は通りへと向き直る。
「朝の爽やかな空気には合わない内容だけれど」
そう前置きして歌いだしたのは、素人でも1度聴けば激情の緩急と高音域のキレに度肝を抜かれるオペラの名曲。
「おおうこれは。まるで良質の管楽器みたいじゃないか。どうやらお互い良い出会いだったようだ」
感嘆する幼女は、早朝の空に高く響いた歌声に魅了された人々を見ながら、このドレスを着た女性とはまだ名乗り合ってなかったなと思い出していた。