澤菜凜と遠藤圭吾
「僕は、君の援護がしたいんだ!」
「…援助…!?」
「援助じゃない、決してない!やましい気持ちは、たぶんないんだ!」
「…たぶん…!?」
「僕は、君の援護がしたいんだ!」
「…援助…!?」
「援助じゃない、決してない!やましい気持ちは、たぶんないんだ!」
「…たぶん…!?」
第一話 澤菜凜と遠藤圭吾
高校一年の澤菜凜にとって、祖父の介護は実際負担だった。
祖父が老衰により筋力と精気を失ってほぼ寝たきりの状態になっても、
父の単身赴任は解けたりはせず 一人暮らしを始めたOLの姉は滅多に里帰りせず
母は夕方からのパートを手離さなかった。
それで次女の凜にも介護を受け持つ時間が出来た。
こうして澤菜家の介護は実質母紀子と次女凜の
ふたりきりのかわりばんこになってしまっていた。
凜はHRが終わると母がパートの出勤に間に合うよう直帰し
母を無事送り出すと、そこから祖父とふたりきりの時間が始まる。
元々口数の少ない祖父に、それでも最初は
「お爺ちゃん、調子どう?」など当たり障りなく話しかけていたのだが
「おう。」とか「んあ。」とか要領を得ない答えが返ってくるのみで
以降は沈黙が続く。
それで、元からそうだったし無理に変えることもないかと
そのままにしていたら、いよいよ会話がなくなってしまった。
介護の話が出たとき、凜は
「いいよ。」
とは確かに言った。部活にもそこまで未練は無かったし、
読書などで過ごす時間も元より多かった。要は母のパートの間の留守番だ。
介護といっても主な時間は見守りだ。
そのくらい受け持つのも家族なんだからあるべきだろう。
それに、パートにくらい出られなければ
母は義父と24時間一緒にいて世話をみねば
ならない。それでは母の息が詰まってしまうではないか。
だが、放課後の青春を百ゼロで失うのは、
思いのほか寂しかった。同級生や先輩との
気楽なやりとりのかけがえのなさを、凜は
高一で既に懐かしむ立場になった。これは切ない。
だが。真にきついのは、介護そのものだった。
辛うじてトイレ派の祖父は、トイレまで連れて行けさえすれば、
あとは個室内のことは自分で済ませてくれる。凜は祖父が出てくるまでに
おしぼりを用意して戸の前で待つ。そして
祖父が手を拭いたら行きと同様に祖父の足取りを肩を貸して支え、
ベッドから起こした際と同様に今度はベッドに横たわる作業を手伝う。
この往復の厳しさといったら!
それに鈴は脇腹が少々敏感で、支え方にも
位置が定まらずその都度四苦八苦する。別に
祖父に悪気も変な気も無いことはちゃんと分かっているが、
物理で触感が無理なのだ。これは相手が同性だろうと子どもだろうと変わりはない。
そしてこの一連が終わったら、凜は先ほどのおしぼりとは別に
ウェットペーパーや雑巾などで個室内の手すりなどを拭いておく。
これちょっと学校でする何よりもきついかもしれない。
でも私が今これ引き受けなきゃ、これをやるのは24時間、お母さんひとりだ。
それはいくらなんでもあんまりだ。
お父さんも、帰れる機会にはなるべく戻ってくれるようにしてくれてはいるが。
一方姉上はなかなかハードな職場事情らしくて?そうもいかないらしい。
週末も忙しかったり、そうでなければ寝だめしているのだとか。
それで母がパート先で聞いてきた行政の補助の受け方を試してみた結果、
澤菜家には行政の仲介で派遣されてくる様々な人々が
出入りすることになった。例えば入浴補助のチームは
母の出勤時間中に凜の立ち合いの元3,4人で移動式の湯舟ごとやってくる。
ある日、そのうちのひとりが、妙にちらちらこちらをみてくる。
目が合うとそらしてみたり、
ちょっと会釈したり、なにか用でもあるのだろうか。
そう思っていたら、入浴済んでの撤収際に
その男が走り寄って話しかけてきた。
「あの、こちらの澤菜さんて、お姉さんもおられましたよね。お元気ですか?」
「あ、えっと?」
「僕、お姉さんと昔小学校が一緒で、懐かしくて。」
そういう男の風体は、姉と同級とも思えない。もう少し年上か?
という程度のものだが。
「僕が6年生で、お姉さんはまだ1年生で。
その頃が僕が普通に子どもでいられた最後だから、
知ってるかたのおうちが懐かしくて。つい話しかけてしまいました。」
6年と1年!?普通の子どもって!?
「えっと、ほんとうにお話が見えないんですけど。」
男は確かに。という感じで頷いて
「あの。よかったらお話させてもらえませんか。ご家族の皆さんにも。」
なにお!?凜は俄然興味が沸いた。普通に考えたらこんな男は不審人物だ。
ここで騒いで業者の他の大人たちを呼んで、
取り押さえて直ちに連れ帰って頂くべきではないか?
だが。不思議なことに、ここですべきはそうではないと、
凜の中のなにかが確信を叫んでいた。
あたし、このひと怖くない。
不思議なことだ。警戒すべき初対面のいい年の男など、受け入れるべきではない。
増して恋愛的な対象として興味が沸くようなイケメンでもない。
じゃあなんであたしは拒絶しないんだ?
あたし、このひとの話聞きたがっているな。
「いいよ。あなたのお話聞いてみたい。」
「本当ですか!?」
「今日は一旦帰るんでしょ?どうしたら話せる?」
「そうですね…今日はまだ他所もまわるので
明日の今頃でしたら、時間があります。」
「じゃあ明日来て。お話聞くから。」
「それでは、お母様にもよろしく申し上げたいのですが。」
凜の母は、当然この男が知っているという
姉の母でもあるわけだ。
「うん。言っとくから。来て。」
「では明日お伺いします。あの!僕は
遠藤圭吾と申します。どうぞよろしくお願いします!」
何度も会釈をしながら、遠藤圭吾は入浴チームのワゴンへ走って行った。
凜はまだ自分の応答に意外さに自分で戸惑っていたが、
恐らくこの選択は間違っちゃいない。
あたしは今、この男の謎を手離してはいけない。
この謎は、私のものだ。
わざと不敵な言い回しを思い浮かべて、
凜は自分を鼓舞しほくそ笑んだ。鼓舞するまでもなく、
凜の胸は期待に勇ましく高鳴っていた。
果たして翌日、遠藤圭吾は現れた。
「お世話になります。どうぞ。」
と、凜が迎え入れる。
「お世話に?」
「あなた、今日も介護に来てくれる事になっているから。入って。」
「なってる。あの、お母さまは。」
「いないよ。パート行ってる。」
「それでは出直します。改めて、日時を決めなおして」
「許可なんて出ないよ、話したら。今入って
話したいことを私に話してくれるか、話さずに帰るかどっちかだよ。選んで。」
選んで。に力と意味を込めて言ってみた。
「あの、自分は決して大それたことをするつもりなどは無いので」
「もちろんよ。今何考えたのか知らないけど。
友達にも話してあるから、あたしになにかあったらすぐ分かるからね。
どうする?早く入って。」
「澤菜さん、これお菓子です。皆さんで食べて下さい。今日はこれで失礼します。」
遠藤圭吾は踵を返した。待ってよ、
私の謎!
凜は圭吾の腕を掴んだ。ここで手離してなるものか。
「ねえ!お母さんがいたら話すの?」
「はい、少なくともどなたかがいないことには、
お互いの信頼が崩れます。」
「分かったよ。話聞きたいから。お母さんにも聞いてみて、
改めてセッティングするから。」
凜は必死だ。なんでここまでと自分でも
思わなくもないが。
「…いいんでしょうか。」
「遠藤さん、ほっとけないって、よく人に言われない?」
「どうでしょう。でも、もしお母さまに伺って、OKが出るようでしたらぜひ。
改めてお話しさせて頂きたいです。」
ぜひって言った。ほらみろ、やっぱり話したいんじゃないか。
聞いて欲しいことがあるんじゃないか。なのに生意気だぞ。(?)
だいたいね、そもそも6年生にもなってて
1年生の女の子だった姉を懐かしがるとは、
どういう案件だ?これはやはり興味抜きで母にも報告するべき事では
あるんじゃないか?。
…でも、それで話こじれて本当に何も聞けなくなったらどうしよう。
このひときっと絶対わるくない。
とにかく母に話して、この興味をなんとか
つなぎ留めたい。
「遠藤さん、電話番号教えて!メアドでも。
ちゃんと話してどうなったか報告するから。」
SNSは選択しない。そちらこそが今どきの死守すべき砦だ。
「次回の入浴の時にでも言ってくだされば。」
「だめ。電話教えて。そのくらい出来なきゃ話進めらんないから。」
「…それではこちらを。」
遠藤圭吾はスマホの番号を示してみせた。
「…固定電話?」
番号の形式を見て、なりんが訝る。
「はい。やはり個人の番号は無理ですので、
こちらは登録している職場の番号になります。
ただ、なかなか電話にも出られないんです。
答えは、次の訪問でお願いできませんか。」
「分かった。遠藤さん、次も必ず来てね?
これっきりにならないでね。」
「分かりました。それは、お約束します。」
お菓子は一旦持って帰ってもらって、凜は
その日帰宅した母に遠藤圭吾のお願いを話してみた。
ちなみに今日の訪問は隠しておいて
昨日の圭吾からのお願いまでに遡ったところからの
リスタートだ。
「お母さん、遠藤圭吾さんてひと知ってる?」
「遠藤圭吾くん?あの圭吾くん?」
意外にも、母は遠藤圭吾のことを覚えていた。
「そう…昨日のあの中に圭吾くんがいたの…。」
「覚えてるの?」
「お姉ちゃんがね。お世話になったのよ。
近所の飼い犬が怖くて、
鎖で繋がれてるから大丈夫だっていうのにその家の前を通れなくて。
それで、泣いて立ち止まってるお姉ちゃんをみかけた圭吾くんが
その日から送り迎えを買って出てくれたのよ。」
それは6年生だった圭吾の卒業までも続いたらしい。
「迷惑じゃなかったの?」
「圭吾くんは『構いませんよ。』って。
しかもそれがそのうちこの辺りの小さい子たちも一緒に通いたがって。
圭吾くんの同級生の子たちも一緒に送ってくれるようになって、
それから集団登校も始まったのよ。」
そういえば集団登下校は凜も1,2年生の頃にしていた。ただ、
送るのが上級生児童ではなくPTAの持ち回りや若手教員などの大人だという違いがあった。
昔からそうするものだとばかり思っていたが、
まさかうちの姉がきっかけだったとは。
懐かしむ目で母が語る。
「お姉ちゃん、放課後も6年生の帰宅時間まで待っていてね、
迎えに行っても圭吾くんと帰る!って言い張って
お母さん追い返されちゃったんだから。」
姉の初恋か?もしかして。
「でも次の年からは圭吾くん中学生じゃない?学校も別々だし、
それにその頃から急にパタリと姿が見えなくなっちゃってね。」
やはり解き明かしたい謎の気配がする。
「お母さん、その圭吾くんがね、その頃のお話をしてくれたがってるようなの。」
してくれたがってるってなんだ。我ながらおかしな日本語になっているが、
意味は通じるだろう。
「そう。聞いてみたいわね。確かに。」
意外にとんとん拍子か?
「いいわ。あたしもパート調整して時間取るから、圭吾くんに都合聞いてみましょ。」
ぃやった!こんなうまくいくんなら、最初から話してみればよかった。
いや分かんなかったけど。
凜は早速スマホを取り出した。
「電話してみるね。」
凜は例の固定電話の番号にかけてみた。
案の定、本人は出ずに伝言を承ってくれるとのことだったので
「例の件、通りましたとお伝えください。」との表現で
通話を終えた。
忙しいんだろうね。言ってたもんね。
もうけっこう遅い時間だけど。
「遠藤さん、母がお話聞くって。」
翌日 澤菜家の固定電話になんと非通知でかかってきた通話に
凜は手早く結論を伝えた。
「そうですか。ありがたいです。それでご都合はどうなりましょう。」
「次来るとき、そのまま残れる?出来れば
そのタイミングでお話聞きたいって」
「分かりました。調整してみます。」
遠藤のシフト調整はどうにか叶い、当日
祖父直樹の訪問入浴介護も完了して、遂に
遠藤圭吾と澤菜母子との面談の時が来た。
この件について、姉にはまだ連絡を入れていない。
万が一にもろくでもない話だった場合、その時は
姉即ち長女にも父にも連絡しないで、ふたりの胸にしまっておく。
これは留守を預かる者の義務ではなくて、権利だ。
「改めまして。お久しぶりです。
遠藤圭吾です。」
「圭吾くん…」
大きくなって。などの慣用句も出ない母。
それでも面影はあったようで、
どうやら名乗った通りの本人ということでよさそうだ。
圭吾が再び持参したお菓子の箱を母が開けて、
淹れたてのお茶とともに卓に並べる。
「圭吾くん、上の娘がお世話になったわね。
今でもよく覚えているわ。本当にありがとうね。」
「いえ、僕にとっても楽しい思い出です。」
「圭吾くん、あれからどうしていたの?
お話聞かせてくれるのよね。何か、
話したいことや誰かに聞いてほしいことが
あるんでしょう?」
母が切り出す。 頷き、圭吾が話し始めた。
「僕は、いわゆるヤングケアラーになっていたんです。」
「ヤングケアラー。」
「ちょうど今のお嬢さんのように、
未成年など若くあるいは幼いうちに
身内などの介護の責任を負って実行している子たちのことです。」
知ってる。言葉は。この前地域担当というひとも私のことをそうだと話していた。
「僕が中学に上がってすぐ、9つ上の兄が
事故で大けがを負いまして。その世話を見ていました。」
「まあ。それは存じ上げなくて。
それでお兄さまは今どうしてらっしゃるの?」
「亡くなりました。3年ほど前に。」
「そうだったの。辛いわね。お悔み申し上げます。」
母がねぎらい、圭吾が頭を下げる。
「それから僕は程なく介護の職に就きました。
この業界もとても人手不足なので、すぐに寮と食事付きで始められました。
それに、僕はこれしかやってこなかったので。
他に何が出来るのかも定かではありませんでしたし。」
「ご両親はどうなされてるの?」
「兄が事故を起こして…事故にあってすぐに」
今圭吾が言い直した。痛恨だったかも知れないが、
うっかりの口滑りをばっちり聞いてしまった。
事故を起こしたのは、圭吾の兄自身だ。
「両親は別れてしまいました。親権は父が取ったのですが、
父は元居た家を引き払い僕らのことは母が連れて行ったことにして、
実際は別の町の借家に僕らだけで住まわせました。
自分は都内に別にマンションを買っていたようです。」
ようですってなんだ、定かでないのか。
「どういう事かしら。」
母が憤りの予感に眉根をひそめる。
「父は一通りの治療が終わると、兄を入院はさせずに僕とともに借家に閉じ込めました。
兄は頭も身体もうまく働かないようになってしまっていて、僕は学校にもろくに通えず
つきっきりでした。僕もちょっと状況に呑まれてしまっていて、
それが理不尽なことだと気付ける頃にはもう随分なな歳月が経ってしまっていて。」
「酷いね…。」
思ったままの言葉が、凜の口をついて出る。
「父はびっくりするほど何もしてくれなくて、
でも僕らの生活費は毎月ちゃんと振り込んできて。
僕は、父がその場にいない事もメリットとして、条件を受け入れました。」
そこメリットなんだ。それってつまり、
いたらいたでイヤな、酷い父親なんだろうな。
「学校や地域は何も世話をみてくれなかったの?」
「引っ越し先の町では、どうやら僕らは腫れ物のような存在だったようです。
中学からは
3年たったら卒業証書が郵送で送られてきました。高校は受験もしてません。
それでも父からの送金は生活に充分に足りる金額でしたし。
それに、昼夜を問わず兄の世話をみる毎日は、その
変な言い方になりますが、ある意味充実していたんです。」
そんな充実があるものか。
「兄はよくまわらなくなってしまった頭と不自由な身体で、
必死に僕にすがってきますし。それが素直なだけでもなく、
よく癇癪を起こして荒れますし。もう、
いかに自分の睡眠時間を確保するかとか、
あるいはどうやって買い物の外出の時間を確保するかとか
そんな工夫にも知恵を絞って、とても現状打破なんて
考えてる余裕もなかったんです。」
これ、あたしが聞いてていい話なんだろうか。聞いちゃっているけど。
「そんなある日、兄が亡くなりました。割と
突然でした。わけも分からず、救急車を呼んで父にもなんとか連絡をつけて。
…普段からなかなか連絡のつかない人だったんですが、
だから呼ばないって場合でも、さすがにないので。」
さっき三年前って言ってたな。13歳くらい?から介護始めてからの、
…3年前!?
何年お兄さんとふたりっきりだったの!?
「警察にも色々話を聞かれましたが
、詳しく調べてもらったことで返って身の潔白が証明されました。」
ふたりっきりでアリバイなんてものもなさそうだし、よく分かってもらえたなぁ。でも
要はさつ意も過失も見当たらなかったってことなのかな。
「それで三人久々に再会しまして。あ、父も母も現金なくらい健在でした。
それで、家族だけの小さなお葬式を済ませて。
そこで改めて別れを告げられました。」
「別れ?」
「ふたりともそれぞれに今の生活があって。
お前も成人しているんだから、これからは自分で生きろと。」
「なんですって…!?」
「僕は、これで縁が切れるなら、それもさっぱりしていいと思いました。
なんせ、執着すべき人たちでもありませんでしたし。」
「受け入れたのね。」
「はい。それで、今の仕事を始めて。元いたこちらの町にも派遣されるうちに、
おととい記憶にあるこちらのお宅にお邪魔して。
それで懐かしくてたまらなくて、お嬢さんについ話しかけてしまいました。」
そっかあ…、それは、話しかけるかもなぁ…。
凜は眉根も唇も噛み締めた。余りといえばあんまりな話過ぎて、
涙はむしろ出てこない。
「そうだったの。本当に大変だったわね。
それで、私たちになにかしてあげられることがあるかしら。」
なんでも言って、とは言えないが、もし
圭吾が望むことで自分たちに力になれることがあるのなら。
「いえ。こうして、自分の話を聞いてもらえただけで、
とても嬉しかったです。」
圭吾がしみじみと答える。
「お仕事のご同僚や上司さんには?」
「ある程度の事情は話しましたが、ここまで
打ち明けるわけにもいかなくて。」
天涯孤独は打ち明けたらつけ込まれる。
そんな理屈を凜はネットで読んだことがある。
おぞましい話だが、消えても誰も探さないような人物は
命のやりとりをする程の悪党たちには色々と
とても重宝するのだそうだ。だから、
よほど信じあえる仲となるまででも打ち解けない限り
仕事上のつきあいくらいの間柄では隠す方が
無難という事だ。そこは切実に無難を選ぶだろう。
「それでも、やはり話したかったんです。
僕の記憶にある風景の中で暮らしている人々と。」
その一言は、凜の胸に刺さった。
よその庭の飼い犬におびえる小さな女の子を庇って
登下校する日々。それは
少年の心の誇らしく懐かしい勲章だったのではないか。
まだ高くほの薄い夕陽に照らされ
微笑みあって家路をゆく、優しい圭吾少年と
心から懐いている小さな姉。
そこで凜の両目から、初めて大粒の涙が溢れた。
ぼろぼろと零れる涙を拭うでもなく、
泣いてる自分に戸惑いながら、凜は自分を見つめる圭吾と母に
「あたし、この人といたい。この人に介護手伝ってほしい。」
思わず咄嗟の願いが口に出た。
「えっ。」
母も圭吾も唖然としている。
凜は祖父のベッドに振り向き顔を近づけ
「お爺ちゃん、このひと、このひと介護に通っていい?
このひとと一緒にお爺ちゃんお世話してもいい?」
と、真剣に訴えた。
「いや僕は、まだひとりで訪問介護できる資格は
持ってないんですよ。」
戸惑いながらもやや嬉しそうな様子の圭吾。
「いいぞ。」
「!?」
凜の唐突な提案に祖父も唐突に答えたので、
3人とも仰天した。
「のりこさぁ。来てもらえ。手伝いってかたちなら、
資格なくても世間にあるこったろう。」
お爺ちゃんが理屈喋ってる!てか今までずっと
こちらの会話全部聞いてて理解してたの!?
これはどうやら遠藤圭吾は、澤菜家に通う事になる。
母こと紀子は早速今すべきことを頭で整理し始める。
夫と長女に報告し、行政とも擦過のないよう話を通す。
週にどの程度来てもらえてお礼はどのくらい支払うのが妥当なのか
凜は凜で自分の口をついて出た言葉にも、
そしていきなり明瞭な思考を口にした祖父にもかなり驚いていて、
それがまだ続いていた。
どういう事?あたし何を聞いて、何を言って、
いま事態がどうなってるんだっけ!?
これからどうなるの!?
改めて整理してみると、これはどうも、
昨日までと今日からが違うようだ。いや、
この遠藤圭吾さんと出逢ってから、既に
私の日々はきっと様変わりを始めていたのかもしれない。
「圭吾くん、またお世話になっていいかしら。」
母が圭吾に問いかける。
またというのは、当然長女の縁から数えてのことだ。
「僕でよかったら、ぜひ。お手伝いさせてください。」
まだどこか信じられないような、でも
とても嬉しい本音を隠せていないような、
不思議な笑顔で頷く圭吾。
凜もまた、同じく嬉しいような信じられないような笑顔で圭吾を見つめる。
その晩、紀子のパートも圭吾の夜シフトも
この面談のために休みがとられていたので、
圭吾は澤菜家で夕食を共にした。
ありあわせだが、圭吾は万感溢れる面持ちを浮かべながら
丁寧に大切に神妙に頂いていた。
こうして、遠藤圭吾と澤菜凜との、祖父の介護を共にする日々が始まった。
(2024年12月26日)
今執筆投稿を続けている続編「援護くんの隣りに」
にて、ちょっと設定が違ってしまった箇所が出ましたので
その一節 元のこちらの方を変更してしまいました。
こういうことがこっそりできてしまうのが、
気楽な立場のよいところですね。(何)
それではこの「なりんの援護くん」と、
続編で現在日々更新中の「援護くんの隣りに」
どうぞよろしくお願いします!
これらの物語が、
いつかあなたの眼にもとまりますように。
では!