この度、年下殿下から10年ぶりに求愛されまして
結婚十年目で、私は浮気性の夫から解放された。
夫が愛人との痴情のもつれで刺殺されたことにより、未亡人となった私は実家に帰ることになったのだ。
心が澱みきっていた私は、それを唯々諾々と受け入れた。
夫婦生活を営んでいる間、私は夫を振り向かせようと必死だった。けれど、その努力は実らなかった。
私だけではなく、結婚すれば息子も落ち着くだろうと期待していた義理の両親もそのことに失望した。
心労がたたって食事も喉を通らずに痩せ細り、艶やかだった栗色の髪には若白髪が混じるようになる。容姿に衰えが生じたことで、ますます夫からは見向きもされなくなった。
結婚生活が終わっても、辛い日々の残滓はまだ私の心に巣くっていた。
しぼんだ花のように過ごす毎日。私に来客があったのは、そんな折のことだった。
「久しぶりだね、ケイティ」
応接間で朗らかな表情をして待っていたのは、天真爛漫そうな青年だ。柔らかに波打つ金髪と澄んだ緑の瞳。真っ白な服を爽やかに着こなしている。
その顔に見覚えのあった私は、まさかと思ってポカンと口を開けた。
「……殿下?」
「もう、やめてよ、そんな他人行儀な呼び方。昔みたいに名前で呼んで」
「……リチャード様」
私が彼の名を口にすると、青年は嬉しそうにうんうんと頷いた。
「十年ぶりだね、ケイティ。会いたかったよ」
「……ありがとうございます。リチャード様もお元気そうで何よりです」
まだ信じられない気持ちで、私は正面に座る立派な若者をしげしげと見つめた。
十年前、私はリチャード様の侍女をしていた。
当時の彼はあんなに小さくて泣き虫だったのに……。まるで別人みたい。
八歳年下の幼い王子は、私にとっては仕えるべき主君というよりは弟のような存在だった。それが二十歳の青年になって、急に目の前に現われたんだ。
もちろん彼の成長は喜ばしいことだけれど、戸惑う気持ちもないと言えば嘘になる。
私が不思議な感覚に浸っていると、リチャード様が「ねえ、ケイティ」と優しい声を出す。
「今日の僕はね、十年前の約束を果たしに来たんだ」
「え?」
「ほら、ケイティが僕の侍女をやめた時のことだよ」
約束って何のことだったかしら? 私は慌てて記憶の引き出しを引っかき回す。
しばらくして思い出した。
――嫌だよ! 行っちゃうなんて!
十年前に私が暇乞いをした時、幼いリチャード様は泣き喚いていた。
――どうして? 僕が悪い子だから? だからケイティは侍女をやめちゃうの? だったら、これからはもうワガママ言ったりしないから……!
――違うんですよ、リチャード様。私、もうすぐ結婚するんです。それで、地方にある結婚相手のお家で暮らすんです。だから、これ以上はリチャード様にお仕えできないんですよ。
――結婚!? 嫌だ、嫌だ! ケイティは僕のお嫁さんになるんだもん! 他の人と結婚なんかしちゃ嫌だよ!
リチャード様はますます激しく泣き叫び、私のスカートに顔を埋めてしまった。私は困り果てながらも、彼のふんわりした金髪を撫でて「ごめんなさい」と謝る。
――もう決まったことなんです。夫となるべき人がいるんですから、リチャード様とは結婚できませんよ。
――じゃあ、「夫となるべき人」がいなかったら?
リチャード様は鼻をグスグスとすする。
――そうしたら、僕と結婚してくれるの?
――ええ、しますよ。
小さな王子が緑の目に涙をいっぱいに溜めた姿に心を打たれてしまい、私は思わずそう言った。
――もしこの先、私が独り身になることがあったら……その時はリチャード様の花嫁になります。
「懐かしい話ですね」
私は目を細めた。
「でも、『その時の約束を果たしに来た』ってどういうことですか?」
「そのままの意味だよ」
リチャード様はソファーから立ち上がって、私の足元に跪いた。突然のことに、ぎょっとせずにはいられない。
けれど、次に彼の口から発せられた言葉はもっと衝撃的だった。
「ケイティ、僕と結婚して欲しい」
****
「ケイティ、おはよう! 今日は花を持ってきたよ!」
朝。私が食堂でお茶を飲んでいると、花束を抱えたリチャード様がひょっこりと顔を見せた。
「バラはピンクが好きだったよね?」
「覚えていてくださったんですか?」
「当然だよ。大好きなケイティのことだからね」
私の隣に腰掛けたリチャード様が、愛おしそうにバラの花びらを撫でる。私は「今日は公務はよろしいのですか?」と尋ねた。
「十時からちょっとした会議があるよ。次は市長たちと会食。それから城下の王立病院の視察をして……。後は自由だから、また来るね」
あの小さかったリチャード様が、そんなにたくさんのお仕事を任されるようになっているなんて……!
少し感激してしまう。本当に立派になったものだわ。
「ところで、あの話は考えてくれた?」
ニコニコしていたリチャード様が、ふと真剣な顔になる。
「僕の奥さんになってくれるでしょう?」
「……またそれですか」
私はリチャード様から目をそらした。
「何度も申し上げますが……。私は本気で結婚の約束をしたわけではなかったのですよ」
リチャード様との再会から数日が経っていた。その間リチャード様は供もつけずに毎日私を訪ねて来ては、同じことを言うのである。「僕と結婚して」と。
そして、私も毎回同じ答えを返していた。
「私、あなたの花嫁にはなれません」
リチャード様が忙しいのにわざわざ私に会う時間を捻出してくれるのは嬉しい。でも、そのことと彼のプロポーズを受け入れるかは別問題だ。
「リチャード様にはもっと相応しい方がいらっしゃいますよ。私なんてリチャード様より八つも年上だし、容姿もご覧の有り様ですから」
私は若白髪が出るようになった栗色の髪や、こけてしまった頬に触れる。
でもリチャード様は「ケイティは綺麗だよ!」と顔をしかめた。そして、持ってきたピンクのバラを見つめる。
「この花は『バラ』って名前じゃなくても、いい香りがするはずだよ。外面が変わったところで本質に変化はない。年上だろうが年下だろうが、白髪があろうがなかろうが、痩せていようが太っていようが、ケイティはケイティだよ。十年以上前から僕の大好きな人。僕には君しかいないんだよ」
リチャード様はふくれっ面だ。
その表情に、私は胸が疼くのを感じる。幼い頃からリチャード様は少し頑固だった。望みが叶わなくて拗ねてしまった彼のこういう顔を何度見たことか。
……外面が変わったところで本質に変化はない、か。それはリチャード様も同じなのね。大きくなってもとっても一途で、こうと決めたらテコでも動かなくて。
気持ちが和らぐのを感じた私は、昔のようにリチャード様の髪を撫でてあげた。彼は素直に嬉しそうな顔をする。
「ねえ、ケイティ。午後からはボート遊びをしようよ」
リチャード様は、これはいいことを思い付いたとばかりに言った。
「ケイティ、好きだったでしょう? 乗馬でもいいよ。僕、もう一人で馬に乗れるんだよ」
「あら、まあ……」
私は目を瞬かせる。ボート遊びに乗馬。そんなものがこの世に存在していたなんて、たった今まで忘れていた。
「どうしたの?」
私の反応が薄かったのが気になったのか、リチャード様が首を傾げる。私は「いえ……」と首を振った。
「ただ……結婚してからはあまりやっていなかったものですから」
あまり? いいえ、「全然」だわ。
「前夫はおしとやかな女性が好きだったんです。蒼白い肌で、一日中お屋敷の奥に引っ込んでいるような。でも、私はそれとは真逆のタイプでしょう? 季節に関係なく日焼けして、そばかすも目立っていました。だから……」
言葉が途切れる。体の奥が冷たくなっていくよう気がして、唇を噛んだ。
心がかき乱されそうになる。私はそれを静めるために無理やり話を続けた。
「だから私、このままではよくないと思ったんです。それで、一生懸命に彼の理想の人になろうとしました。野外遊びは皆やめて、ずっと部屋で……」
ああ、目論見は大失敗だわ。心が静まるどころか、どんどん重たくなってくる。前夫は騒がしい女性が大嫌いだった。そろそろ黙らないといけない。
「辛かったんだね」
リチャード様が傍に寄ってきた感覚がして、私は我に返った。気付けば、彼に優しく抱きしめられている。
「苦しくて苦しくて仕方なかったんだね。それでもケイティは頑張ったんだ」
「……」
「でもね、安心して。君を傷付ける人は、もうどこにもいないから」
「リチャード……様……」
「無理しなくていいんだよ、ケイティ」
ほろり、と瞳から涙がこぼれ落ちた。
それを皮切りに、止めようとしても後から後から滴が溢れ続ける。最後には私も涙を拭うのをやめ、声を上げて泣き出した。
「大丈夫だよ、ケイティ。僕がついてるからね」
リチャード様は私が泣き止むまでずっと傍にいてくれた。頭を撫でられ、温かな言葉をかけられる。
これじゃあ昔とは逆だ。
十年前は、すぐに泣くのはリチャード様の方だった。そして、それを慰めるのは私の役目だったはず。
けれど、こうして役割が交代したことを私はすんなりと受け入れていた。
そして気分が落ち着いてくると、目の前の青年に対して、今までとは違った気持ちを抱くようになっている。
……結婚、か。
もし彼と夫婦になったら? なんて考えが突如浮かんできた。
や、嫌だ! 私ったら何を想像してるの!?
「ケイティ。何だか顔が赤いよ。大丈夫?」
抱擁を解いたリチャード様が心配そうに尋ねてくる。
「へ、平気です。……大変! もうこんな時間! 急いで王宮に帰らないと、会議に遅れますよ!」
私は慌ててリチャード様を追い立てる。そうしておきながら、今のやり取りって夫を見送る妻みたいじゃなかった? と思ってしまい、もう一度頬を熱くしたのだった。
****
その日の午後、私はレモンイエローのサンドレスに身を包み、リチャード様と川辺を歩いていた。
「その服、とってもよく似合うよ」
風になびく瑞々しい黄色を見て、リチャード様が笑う。
「最近のケイティは地味な色のものばかり着ていたよね。明るい色が好きだったはずなのに変だなって不思議だったんだ。趣味が変わったのかと思ってたけど、そんなことなかったんだね」
「前夫は派手な色を好まなかったんです」
桟橋にリチャード様が用意しておいてくれたボートが泊められていた。私たちは中に乗り込む。
「出発!」
威勢のいいかけ声と共に、リチャード様がオールを握る。小舟が軽やかに水面を滑り出した。
昼下がりの陽光を受けて煌めく川面。清々しい風が、私の可憐なサンドレスの裾を揺らす。
「リチャード様! 魚がいますよ!」
「よし、競争だ!」
「ええ!? そんな無謀な!」
案の定すぐにリチャード様は抜かされてしまう。残念そうにする彼の顔を見て、私は「だから言ったじゃないですか」と大きな声で笑った。
心臓が高鳴る。久しぶりの高揚感が体を駆け抜けるのを感じていた。
大人しくて淑やかな妻になろうとしていた日々。野外での遊びも鮮やかな色の服も大声で笑うことからも遠ざかっていた十年間。
そんな生活をしていたのが遠い昔のように思えた。
かつて大好きで、そして今も愛しているものを、私はこの瞬間に全て取り戻したのだ。
「面白かったね」
はしゃぎながら、私たちは川岸に戻ってボートから降りた。リチャード様が靴を脱いで脚衣の裾をまくり、桟橋に腰掛ける。素足を水につけ、「気持ちいい」と微笑んだ。
私もドレスのスカート部分をからげ、リチャード様の隣で足を水に浸した。肌の火照りが少しずつ引いていく感覚に、体の力が抜けるのが分かる。
「またここからの景色を君と見られるなんて感激だよ」
「水に足がつくようになったんですね」
「僕、すごく背が伸びたからね。今じゃケイティよりも高いでしょう?」
リチャード様が自慢げに言う。私はクスリと笑った。
「逞しくなりましたね。覚えてます? 昔、うっかりボートから落ちて『魚に食べられちゃう!』とパニックになったこと」
「よ、よしてよ! 本当に怖かったんだから」
照れるリチャード様が可愛くて笑っていると、彼も釣られてはにかんだ。
かつてはボートを漕いでいたのは私だったし、桟橋に座りながら舟遊びの余韻に浸っていた時も、リチャード様は脚が水につかなくて空中でブラブラさせていた。
だけど、舟遊びの後の川辺での語らいは……私の大好きだった穏やかな時間は昔のままだ。二人の間にある温かな繋がりはまだ切れていない。
変わったものも変わらないものもあるけれど、私にはそのどちらも愛おしく感じられた。
「ケイティが喜んでくれてよかった」
リチャード様はごろんと寝転んで、桟橋に背をつける。
「君が暗い顔ばかりしてたから、僕、心配だったんだ。……迎えに行ってあげられなくてごめんね。ケイティのこと、十年間もずっと一人にして……」
リチャード様は腕で目の辺りを覆った。
「僕は最低だよ。自分のことしか考えてなかった。ケイティとの結婚をいつか認めてもらうために周囲を説得するとか、君に釣り合う一人前の男になりたくて勉強したり体を鍛えたりするとか……。そんなことしかしてこなかった。ケイティが不幸な結婚生活を送っていたなんて、君と再会するまで想像すらしていなかったんだ」
沈黙が落ちる。私はリチャード様をじっと見つめた。
朗らかに見えたリチャード様だけど、内心では苦悩していたらしい。それもこれも、全ては私を本気で愛するがゆえなのだろう。
「これは必要な十年でしたよ」
胸が熱くなるのを感じながら言った。
「自分を偽ることがどれほどの苦痛を伴うのか、私に理解させるための年月。そして、弟のようだったあなたが私の中で一人の男性として成長するまでの期間。そう思えば、辛い結婚をした甲斐もありました」
リチャード様は微動だにしない。もしかして寝てしまったんだろうか。そういえば、昔の彼はボート遊びの後はいつも疲れてウトウトしていた。
「リチャード様……」
私は彼の耳元にそっと唇を寄せる。
「好きです」
リチャード様が顔の上から腕を退けた。緑の瞳が見開かれる。
「ケイティ……?」
「あら、起きていたんですか」
「今、僕のこと好きって言った? 幻聴じゃないよね?」
「もちろんです」
私が頷くと、リチャード様は顔を輝かせながら跳ね起きて、「ケイティ!」と叫んだ。
「ケイティ! ケイティ! 僕も君のこと大好きだよ! ねえケイティ、もう一回言って! 僕が好きだって!」
「リチャード様が好きです」
私がそう返すと、リチャード様はもう一度「ケイティ!」と叫んだ。
「本当に本当に僕が好きなんだね!? じゃあ、僕と結婚してくれる? してくれるよね!?」
「ええ」
私ははっきりと言った。
「私、リチャード様の花嫁になります」
十年前と同じ返事をする。けれど、今回は泣いている子を慰めるためではない。私の心からの望みを口にしたのだ。
真っ直ぐに私を見つめ続けてくれる青年。ありのままの自分を受け入れてくれた相手。
そんな人とこれから先もいられたらどんなに幸せだろうと、そう思ったんだ。
「こうしてはいられないね!」
リチャード様はすくっと立ち上がると、靴も履かずに駆け出した。
「式の計画を立てないと! 君のウエディングドレスはピンク色にしようね! それで、頭に同じ色のバラの花を飾るんだ!」
段々と声が遠くなる。リチャード様は私が後をついてきていないと気付くと、大急ぎで戻ってきた。
「ケイティ、早く行こうよ! 皆にも報告しないと! 『大好きなケイティと結婚することになりました!』って! さあ、早く早く!」
リチャード様が私の手を取る。私は笑って、彼と共に裸足で走り出した。
――早く早く! 早く行こう、ケイティ!
日差しを受けて光る金髪が揺れる背中に、昔の面影が重なる。今すぐにでも城の外に遊びに行きたいリチャード様に、私はいつも手を引かれていた。
そんな彼が、またこうして私を光の中に連れ出してくれたんだ。
「……私も大好きですよ、リチャード様」
今も昔も、これから先もずっと。
私は幸福な気持ちで、十年越しに生まれた恋心を噛みしめていた。