声優彼女と漫画家志望
ぱくぱくとお肉を頬張る彼女を見て言う。
「そんなに食べて大丈夫なのか?」
「お、お肉は鉄板で焼かれるからいろんな成分が飛んで実質ゼロキロカロリーだから」
「ご飯も二杯目だと思うが」
「炭水化物は身体に必要だからね!」
「いや、うん、まあ、里子が大丈夫って言うんならいいんだけど」
勢いのあった彼女の手が止まり、小さく頬を膨らませる。
「いいもん。今日から一週間断食するから」
幼い頃から変わらない目尻の下がった瞳が愛くるしく揺れる。
矮小な体躯からは想像ができないほど口の中に食べ物が吸い込まれていくので驚いて言ってはみたものの、その顔がぷっくらと大きくなったことは10年以上の付き合いの中で見たことはない。決して細いわけではないと思うけれど、太っているわけでもない(こういうと怒るので言わない)。
二つに結んだ髪の毛も心なしかしゅんとなっているように見える。
「冗談だから、それはやめてくれ」
「だって雄太くんは太っている女の子、やなんでしょ?」
「嫌ってわけじゃないけど」
「じゃあ明日からいっぱい食べよー」
「それはやめてくれ。ほどよく食べてもらえると嬉しい」
「ほら、痩せているほうが好きなんじゃん」
「痩せているほうがっていうか、多少のお肉はあったほうがいいというか、里子はそのまんまがいいというか」
「私そんなに太ってないから! もういいもん。雄太くんのも食べるから」
「あー! 俺の焼いた肉がああ!」
俺の絶叫空しく、育てていた肉が彼女の口の中に入った。
絶望の色を見せる俺の顔とは正反対に、彼女の顔はいたずらっ子のような笑みが刻まれていた。その顔を見て俺は、今週も頑張れると思った。
――
焼き肉屋を出ると外はすっかり暗くなっていた。
しかし駅前はこれからが本番だとばかりの喧騒であった。
彼女との週に一回の食事のあとは俺が彼女をアパートへと送り届けるのが流れとなっていた。
「えっ!? それってつまりヒロインってことか?」
「うん! ……って言っても三人のうちのひとりだけど!」
「いやいやそれでもすげえよ」
驚嘆する俺に里子はまんざらでもなさそうに後ろ髪を掻く。
後藤里子は桜坂茜という芸名で声優をしている。
高校在学時に声優アイドルプロジェクトというオーディションに見事合格した。そして高校卒業と同時に『Re:Start Idol』というアニメでデビューした。主演全員が新人ながらもそのアニメはヒットし、CDデビューやLIVE、イベント、ソシャゲなど多くの展開を見せた。
それが代表作となり、ここ三年で少しではあるものの他のアニメでも彼女の声が聞けるようになり、今回が二度目のレギュラー出演となった。
「うふふー。あー、早く雄太くんに聞いて欲しいなあ」
「でも俺この原作知らないからなあ」
「えーでも聞いて欲しい……」
哀切に滲んだ声が落ちる。
その声が演技かどうかがわからないくらいに彼女は声優として成長しているのを知っている。
「アニメが始まったら見るよ」
「絶対だよ」
「というか里子が出ているのは全部見ているから」
「あ、そうだったね。……えへへー、私のこと大好きかよー」
「いちいち連絡してくるのはどこのどいつだよ」
「はにゃ?」
空とぼける里子だった。
事前に出るアニメや番組、ラジオ等は知っているというのに始まる数分前になると連絡をしてくるのだから忘れるわけがない。
「まあでもなんだかんだで見てくれる雄太くんは可愛いねえ」
よしよしと子供をあやすように頭を撫でられる。
「やめんか」
「あっ」
背伸びをしてようやく手の届く背丈の差があり、俺が里子の手を叩くと彼女はバランスを崩して後ろに転びそうになる。
「ごめんごめん」
里子の背中に手を回して支える。
「彼女に手を挙げるとは……」
「いやこれは反射的に」
「言い訳は許せませんけど?」
お嬢様はずいぶんとお怒りのようだった。
「どうしたら許してくださるのでしょうか」
「…………残りの道は手を繋いで帰ること」
少し気恥ずかしそうに手を伸ばす彼女。その手をどうして無視できようか。
嬉しくなったのか里子は手の温もりを訴えかけるように強く握る。
そんなことをせずとも里子のことは忘れていないし、離れたいとも思わない。
俺と里子はカップルという関係よりも深い強固なもので繋がっているから。
ーーーー
「ん……、雄太くん」
里子の暮らすアパートの前まで来ると彼女は両手を広げた。
「充電させて」
「この前隣の人に見られたけど」
「見られたって平気」
「平気って……」
「嫌?」
「嫌って言うか…………、ああっ、わかったよ」
応えるように両手を広げた俺の胸に里子が飛び込んでくる。
ぎゅっとされるのは慣れている。
べつに俺だって恥ずかしいとかいう小さな理由で拒んだのではない。
「~~っ」
抱き合うこと数十秒。
力が弱まるのを感じ取った俺が手を離すと名残惜しそうに彼女も俺から一歩離れる。
「へへ、ありがと。これで頑張れる」
「それはよかった」
「……雄太くんは?」
その問いかけに一瞬の間逡巡し、
「俺もだよ」
と答えた。
☆
翌日里子の出演するアニメ作品の原作ラノベを購入した。
王道の学園バトルファンタジーモノで彼女は緊張しいの天然ヒロインという役柄だ。
どういう構成で話が進むかはわからないが、これが評価されればまた彼女の仕事のプラスになることは間違いない。そのまま人気声優として突き進んでいけるかもしれない。
「……もう少し自覚を持って欲しいものだが」
桜坂茜と検索すると里子の画像が出てくる。
公式サイトもウィキペディアもイベント情報等、動画などもヒットする。
もうすでに無名声優などではない。
ファンも多数いる。
立派な声優として業界で活躍している。
ますます思ってしまう。
こんな平凡な大学生と付き合っていていいのだろうか、と。
何度自問自答したかわからない。
けれどいつも最後には里子と交わした約束が頭によぎる。
――じゃあ雄太くんのアニメ化した漫画のキャラクターの声を私がやるね!
幼少期の頃の俺がなんとはなしに発した言葉に里子がそう返した。
ここまで続けてこられたのも彼女がいたからに違いない。
「先、越されたな」
前を歩いていたはずなのに、いつの間にか俺は彼女の背中を追っていた。
「お、雄太じゃん、珍しい」
教室の隅のほうに座っていた俺を目ざとく発見した数少ない友人の明人が声をかけてきた。
彼は「ここ、いいか?」と隣にだれも来ないかと確認して座る。
「大学四年ともなると授業受けてるやつ自体少ないからよかったよ」
「あーどおりでだれも見たことないわけだ」
「そ。さすがに留年になったら洒落にならないからなあ」
よく授業をサボっていたらしい明人は単位がやばいらしく真面目に授業を受けに来たようだ。俺も似たようなものだったので単位のために出席している。
「ん、てかスーツ?」
見ると明人は私服ではなくぴしっとしたスーツを着ていた。
それに明るかった髪色は落ち着いた黒色になっていた。
「ああ、就活だよ。就職活動。今日もこれ終わったら面接だ」
すでに大学四年の四月。
就職活動真っただ中である。
当たり前と言えば当たり前だ。聞くところによるとやっている人はずいぶんと前からやっていて、すでに内定をもらっている人もいるらしい。
「どういうところを志望してんだ?」
「一応銀行。親が銀行マンだから対策しやすいってのもあるんだけど。他にやりたいこともないし、仕事は決めておかないといけないからな」
明人はスマホを鏡にして自分の髪の毛を見ながら「やっぱ似合ってないなあ」と呟く。
「そういう雄太は?」
「……俺は全然」
「まだ漫画家目指してんのか?」
些細な疑問に過ぎない。
きっと明人にとって嫌味でも蔑みでもなんでもないのだ。
でもその言葉は俺の心にぐさりと来るものがあった。
「すげえな、俺はさすがにそこまで夢は追えねえわ」
感心したように言い、彼はにっと笑う。
「ここのところ就活ばっかで疲れたからさ、息抜きも兼ねて今度飲みに行かないか? 雄太はなんだかんだ言ってほとんど飲み来なかったじゃんか。もう会えなくなるかもだし。な?」
漫画や里子を理由にいつも俺は彼からのそういう誘いを断っていた。
いつもみたいに断るのは簡単だった。
しかしその選択はいつだってなにかを犠牲にしていた。
「考えとく」
☆
自宅でプロットを描いては捨ててを繰り返していた。
設定が思いつかない。
展開が思いつかない。
台詞が思いつかない。
序盤からすでに行き詰まり、ここずっと漫画すら描けていない。
基本的に勢いで描くタイプであるため、ぼやっと思いついたものを殴り描くように進めていき、後々修正していく。その勢いを削がれてしまえばなにもできなかった。
「あーだめだ」
頭をぼりぼりと掻きむしり、気分転換に毎週購読している週刊誌を買ったまま放置していたのでそれを袋から出す。
「新連載、か」
表紙にはでかでかと新連載の文字とその漫画の主人公が載っていた。
「うわ、絵上手すぎだろ」
読みながらそう感想を漏らしてしまうほどに上手だった。
話も引き込まれ、こういうのが漫画だと改めて思い知らされる。
斬新な設定、魅力的なキャラクター、予想外の展開、単純な面白さ。
すべてが込められている。
自分の不甲斐なさを痛感させられ、読み終わるとその作者のことが気になり、検索してみる。
「……は? 現役高校生?」
中学生で賞を取り、そのまま一年後にデビュー。
しかも連載しているのは日本を代表する漫画誌。
「……なんだよ、それ」
若くて才能があって絵が上手くて。
なに一つ勝てる要素がなかった。
俺だってまだ若いほうだ。けれど、こんなものを見せられたら――
「――――ぁああああ」
枕に顔をうずめて叫ぶ。
以前に一度佳作を取っただけ。
そのあとは期待に応えられず、なんの実績も残せていない。
浮かれていたわけではない。
自惚れていたわけではない。
自分の実力は自分が一番わかっていたから。
このままでは駄目なことも――これからも可能性があまりにも低いことも。
その夜、久しぶりに酒を飲んで吐いた。
☆
「今日、どうかした?」
隣を歩きながら心配そうに覗き込んできたのは里子だ。
週に一度の彼女との食事を終え、帰り道を歩いていた。
「あー、いやなんでもない」
適当に誤魔化す。
正直あまり覚えていない。
なにを食べたのかも、なにを話したのかも、彼女の表情も、なにもかも。
「嘘」
「え?」
「嘘つかないで」
立ち止まった里子はまっすぐに俺を見つめてくる。
真剣なその表情を見て、バツが悪く視線を逸らす。
「私が雄太くんの変化に気づかないわけないじゃん」
冗談で返すことも憚れるくらいの剣幕だった。
「なにか嫌なことでもあった?」
ぎゅっと手を握られる。
その彼女の体温に目頭が熱くなる。
「悩みがあるなら言って。私じゃあどうにかできないかもだけど話なら聞くから」
俺は里子に弱音を吐いたことはない。
だけどもう限界かもしれなかった。
「漫画で行き詰まっているとか?」
「……っ」
その瞬間、あまりにも醜い感情が俺の中で膨れ上がった。
すんでのところで舌を噛んだからよかったものの、俺はそのまま言ってしまうところだった。里子に対してとてつもなくひどい言葉を――
「漫画のこと……、そうだよ、漫画のことだ」
「うん」
「俺、漫画家諦めるよ」
「……え?」
一瞬なにを言われたのかわからなかったようで里子から表情がなくなった。
「えっと、ごめん、もう一度言って。私には漫画家を諦めるって聞こえて」
「そう言ったんだよ。漫画家を諦めて、普通に就職する」
「ど、どうして!? そんなこといままで一言も――」
「黙っててごめん。でももう俺だって大学四年だ、いろいろ考えた結果さ」
「そんなのらしくないよ。雄太くんらしくない! だって約束したじゃん!」
「そんなの子供の頃の話だろ」
「子供の頃って、私はそのためにずっと頑張って――」
「俺だって!」
夜の街灯が揺れる。
俺はそこが住宅街であることも忘れて叫んでいた。
「頑張ったんだよ。ずっと頑張ってたんだよ、里子の知らないところでずっと。でも駄目だったんだ。このまま続けてもアニメ化どころか漫画家にすらなれない」
「そんなこと」
「わかるんだよ。大人だから。いつまでも夢見てるわけにはいかないんだよ」
悲しそうに俯く彼女の手を優しく離す。
「俺たち距離を置こう」
「……え、なんで?」
「いや俺もそろそろ就活の準備しなきゃだから、週一回のこの時間も就活に充てたい。いままでなにもしてこなかったし、説明会とか諸々入ると思うから難しくなるだろうし」
「そんなの時間を変えれば全然」
「そこまでして会う必要あるか?」
残酷とも取れるその言葉に里子は呆けたように固まった。
「高校からこういう関係になったけど、もう無理に付き合う必要もないっていうか」
俺は言う。
「べつに俺、里子のこともう好きじゃないから」
自分でも驚くほどあっさりと言えた。
これでいいんだ。
こうすれば彼女に迷惑をかけることもない。
これから先の彼女の声優人生――俺は不要だ。
いつか俺の存在が彼女に影を落とす。
だったらもういいんじゃないかと思った。
関係を終わりにするならいましかない、と。
里子がなにかを言った気がする。
でも俺は聞く耳を持たず、彼女のことを見ることなく踵を返した。
☆
お祈りメールが届いた。
これで通算三社目である。
まあわかっていたことだ。大学生活漫画しか描いてこなかった男を取ろうなどという企業があるほうが珍しい。なにもしていなかったことや自分というものが否定された気分になる。
「お、いたいた。雄太」
「明人」
「今日夜暇か?」
「藪から棒にどうした」
「飲みに行くってやつだよ。どうだ?」
くいっと酒を呷る仕草をする。
こちとら気分は晴れやかではないというのに……、でもまあ根を詰めすぎるのもよくないというからな。
「いいけど、就活はいいのか?」
「ん、もう終わった」
「マジか」
「才能ってやつかなあ」
なんて、とおちゃらけた風に言う。
やっぱりコミュ障なんかよりも陽キャがいいんだろうなあ。
――
「おい、飲みにってふたりじゃないのかよ」
「え、言ってなかったっけ?」
すっとぼける明人に俺は小さくため息を吐く。
いやいいんだけど。
「…………」
俺と明人の隣には男がふたり、そして正面には女性陣が四人座っていた。
いわゆる合コンと言われるものだった。
聞いてねえよ。
「いいじゃん。彼女いるんだっけ?」
「……いや、いないけど」
「じゃあオールオッケー!」
それでこの話は終わり、明人は明人で正面の女性と話し始めた。
おいおいマジかよ、俺も目の前の人と話さないといけない感じ?
ちらっと窺うと、それは綺麗な人だった。
里子以外の女性と話したことなんてほとんどない俺にとっては地獄だ。
そもそも人ともあまり話さないんだけど。
「あの」
「あ、はい!?」
「だから趣味」
「え?」
「趣味ないんですかって」
「あー、趣味ね。えっと趣味ですか、絵を描いたりとか?」
なにを言っているんだ俺は。
趣味も好きなことも漫画関係しかない俺だった。
「へえ、どういうの描くんですか? 写真とかないんですか?」
思ったよりも食いついてこられ、俺も後に引くことはできなかった。
デジタルで描いたものがスマホにあったのでそれを見せる。
「えっ! やば、めっちゃ上手い! プロ?」
「いやいやプロじゃないですけど」
「えー、やばあ、他にないんですか?」
「じゃあこれとか」
「すごっ!」
褒められて悪い気分になるはずもなく、俺は気分よく自分の描いたものを見せる。
するとその隣の女性も気になったのか俺のスマホを見て、感嘆の声を漏らす。
「雄太はプロ目指してっからね!」
隣の明人が自慢げに語り始めた。
あまり大っぴらに言うなと言いたかったがもうどうでもよかった。
なんかすごい満足感があった。
こういうのでいいのかもしれない。
ちょっとしたコミュニティで、俺のしてきたことが褒められる。
それはなんだか自分が認められた気がしてすごく嬉しかった、のだと思う。
――
酒はあまり強いほうではない。
ひどく酔った俺は自宅に帰るのにもかなり時間がかかった。
もう何時かもわからなかったが鍵が開いていた。
「あんたいままでなにしていたの?」
玄関に仁王立ちしていたのは母親だった。
「え、ああ、だから今日は夕飯いらないって言っただろ」
「電話したんだけど」
「だから飲んでたんだって」
いつだったか母親から電話が来ていたのは知っていた。あまりにもしつこかったので電源を切ったのだった。その記憶がおぼろげながらある。
「どいてくれ、寝る」
「里子ちゃん」
靴を脱ぎ捨て、家に上がると母親の口から彼女の名前が出てきて立ち止まる。
「倒れたって」
「……は?」
泥酔して帰宅した息子への仕打ちか、冗談にしては縁起が悪い。
「なに言ってんだよ」
「歌のレッスン中に倒れたらしいのよ。わたしも里子ちゃんのお母さんに聞いて」
「嘘、だろ」
「冗談で言うわけないでしょ」
「里子は大丈夫なのか?」
「――漫画のこともそうだけど、あんたのそういう中途半端な態度が里子ちゃんを傷つけたんじゃないの?」
母親の言葉は痛いほど胸に響いた。
わかっていたつもりだったのかもしれない。
俺は里子のことをわかったつもりでいて、けれどなにもわからなかった。
里子の努力も、里子の思いも。
――
畢竟、俺は里子に嫉妬していたのだ。
声優として結果を出していく里子を疎ましく思うようになってしまっていた。
一緒に歩んでいた彼女の才能が開花されていくにつれ、俺は焦った。
そしてその焦りが漫画にも影響し始めたのか、思うように描けなくなっていった。
結果が遠のいていくのは自明の理だった。
「ごめんな、里子。俺、自分のことばっかりで里子のこと見てるようで見てなかった」
里子が俺の知らないところで努力していることを。
どんな練習をして、どれだけ怒られて、どんな生活をしていたのか。
俺は才能だと一括りにして、里子の頑張りを見ていなかった。
「里子のために始めた漫画だったんだけどな」
里子は昔いじめられていた。
小さかった頃、彼女はおどおどしていて恥ずかしがり屋だった。それが子供たちにはからかいの対象にしやすかったらしい。
だから俺がそんな彼女を笑顔にしようと始めた漫画。
最初は彼女が喜んでくれるだけでよかった。
それだけで満足だったのだ。
「雄太くんは漫画家さんになるの?」
漫画を読みながら里子がふと口にした一言。
その横顔が可愛かった。
ただそれだけだったのだ。
ちょっと格好良く、強がってみせたかったのだ。
「なるよ。将来アニメ化されるくらいの漫画家に」
居酒屋でみんなに自分の絵を見て、ちやほやされた時こういう人生もいいのかもしれないと思ってしまった。息抜き程度に描いた絵が褒められて、自分のしてきたことが――自分の努力が報われたと思うことができるから。
けれど――
小さな自尊心が。
つまらない矜持が。
くだらないプライドが。
――それらをすべて否定した。
だってそうしなければ。
惚れた相手の思いも無駄にすることになるから。
「里子がいなかったら俺は――もっとずっと前に諦めていたと思う」
いつからだ。
いつから里子を理由にして――努力をしてこなかった?
口では頑張っていると言いながら、なにひとつ変わらない頑張りしかしてこなかった。
そんなことで変わるわけがないのに。
そんなことで漫画家になれるわけがないのに。
そんなことでアニメ化されるわけがないのに。
「俺、頑張るから。もう少し待っててくれ。いや、もっと先で待っててくれ。追いつくから」
病室で眠る里子に別れを告げた。
☆
結局自分の頑張りはただの押し付けでしかなかったのだ。
惚れた相手に繋がりを強制させ、離さなかった。
だってそうだろう。
自分が声優として活動していれば、約束をした彼は漫画を描き続けるしかない。
そうやって見えない糸で縛りつけていた。
過労で倒れた時、それは彼からの報いだと思った。
厳しい世界で生き抜くためには彼との時間は大切だった。
好きな人との時間はかけがえのない癒しだった。
だけどそれが一方的なものだったとしたら。
もう頑張る理由などなかった。
「…………死ねればよかった」
目を覚ますと白い天井が見えた。
そこが病室であることが容易に想像つく。
まだ少しだけぼやける視界。
身体も思うように動かない。
しかしもうどうでもよかった。
彼が隣にいない世界で自分が生きている未来が見えなかった。
「……っ?」
机の上に数枚の紙が置かれていた。
手を伸ばし、それらを見て、一目でわかった。
「雄太くんの漫画だ」
間違えるはずがない。
自分が彼の絵を見間違えるはずがない。
それがしっかり清書されたものではなく、ネームと呼ばれる段階の漫画だとしても。
「……うぅ、ゆうだくん……っ」
涙で漫画が濡れないように必死に耐えようとするも、雫が頬を伝ってしまう。
この涙は愛する彼が来てくれたことに対するものだけではない。
そこには彼の約束への強い思いと、里子に対する不変な思いが込められていたように感じ取れたから。
「おかしいなぁ」
幼い頃に里子を救ってくれた――いつだって笑顔にしてくれた彼の漫画は。
どうしてか今日だけは涙が止まらなかった。