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つくも姫  作者: 川光俊哉
5/6

(5)

 すきまから、おばあさん、と男がおそるおそる呼びかけるが、返事はない。思い切って顔を入れると、なんの明かりとも知れない、うすい緑のなかで、婆アが壁にもたれて座っていた。そうして、じりじり、左手のほうへ視線を転じると、ふとんはたしかに敷かれていた。

 ぺらぺらの茶色いぞうきんのような布の下、人魂がひとつ、じたばたしている。長く引いた尾をはさまれて、こんなうすっぺらいふとんをどかす力もないのか、抜けだそうともがいているように見えた。

 放心した男が、ふたたび婆アを見やると、婆アのまぶたが開いて、左右の眼窩から顔をのぞかせるようにして、ふたつの人魂が、にょろり、じたばたする人魂を心配そうにうかがう。

 鳥の鳴くような声で、男はさけんだ。とたんに、ぽっと部屋じゅうが明るくなって、人魂がぽろぽろ婆アの目から飛び出てくる。婆アはいつのまにか、肉のくされはてた、ひとりのがいこつになっていた。

 ふとんの下の人魂も、やっとしっぽを抜いて、いっしょになって、男におそいかかる。右の目から四つ、左の目からも四つ、そうして、もうひとつ、都合九つの人魂であるが、男には二十とも三十とも思われた。

 足は宙を踏んで、きょとんとしている女の子を拾い上げると、土間になだれ落ち、外へ逃げようとした。

「なんじゃ。血相を変えて。あ」

 と、女の子が、男の腕から身を乗りだす。

「かかさま」

 するりと男の胸から抜けて、肩を蹴って、奥へ駆けていった。

「かかさま、かかさま、かかさま、かかさま」

 どたどた床を鳴らして、はねるように、遠ざかる。

 ぴしゃりと戸が閉ざされて、女の子と人魂たちの姿は、遮断された。

 男のこめかみに、ひとつぶの汗がつたった。

 考えてはならない、迷ったら、きっとおれはおじけづく。男は、考えたがる自分を殺して、戸を排した。

 部屋がない。外であった。背の低い雑草が一面おおっているが、平たくならされた地面は、手を入れられることなく、何年も放置されたらしい、畑のあとである。その空地を縦断して、女の子と、女の子のまわりをただよう人魂は、まばらな灌木の生えた山のふもとへむかっている。

「姫」

 男は、女の子のうしろ姿に呼びかけた。まだ名前を知らないことに、はじめて気づいた。

 女の子は、笑っていた。男に手を振っていた。

 遠かった。人魂が、女の子の頭をくるりとまわると、山の上に月があった。空にぽっかり穴をあけたようで、夜のかなたの、明るいあちら側へ細い道が通い、月の光の重さのような、風のすじが、女の洗い髪のように、しっとりとそこから吹き下ろす。

 春の草は、ひれ伏すように、地べたに頭を垂れ、また調子に乗って背筋をのばし、月の光を吸って、吐きだす、そのゆらぎは、寄せては返す波をうつして、鏡をくだいた海のむこうで、女の子はますます遠い。

「姫」

 女の子は、白い童髪の、眉の上の一本線をみだして、大きくうなずき、人魂をかきわけるように、両手を振って、走っていった。人魂たちが、後先になって、ついていく。

 男は、一歩、踏みだした。素足の裏に、うろこがざらつく。足のかたちに、ぴったり寄りそうように、鯉が行く先をしめして、背中を差し出す、ここは、長者の庭の池だったろうか。

 男は、下を見なかった。

 正面に、月がある。赤く、にごっている。いままでに男の見た、どんな月にも似ていなかった。てんてんついて、ふと、すべって、ころげ落ちた毬のように、手をのばせば届きそうなくらい、近い。永遠のように遠くもあった。

 長い、長い夜である。奇妙な夜である。これから朝へ、明けていくようではなく、ますます深く、夜の底に沈んでいくような気がした。

 林に入った。

「姫」

 闇のなかで、白い影は、染まらず、まじわらず、塗りつぶされず、凛として、けなげに夜を泳いでいた。近く、遠い。


  梅の木の長者さん

  朝から茶を飲んで

  昼にはめし食って

  晩げにふとんにくるまって寝ましょ

  こん こん こん こん こん こん こん


  梅の木の長者さん

  竿持って川行って

  どじょうを釣りましょ

  釣ったら屋敷であぶって食べましょ

  こん こん こん こん こん こん こん


 あやしい気配に、鳥も、獣も、眠りを覚まされて、ごそごそ、身をかくしながら、ものかげでなにか鳴き声をかわしている。そのなかで、女の子の歌が、変に冴えて聞こえてくる。

 やがて、浅くくぼんだ、それでも道らしい道を歩いていた。獣の息づかいは、すぐ足もと、肩の先に感じて、そこここに目が光っている。が、男はかまわず進んだ。しだいに、ひねくれてまがった木々の幹は、柱を立てたようにまっすぐにためられて、こん、こん、こん、と、一歩一歩の間隔を、折り目ただしく整列している。

 女の子が消えた。

 男は、走った。一瞬前の自分を、ひとり、ひとり、置き去りにして、走りつづけた。見上げると、女の子のうしろ姿と、人魂のしっぽが、赤茶けた月へとのぼっていく。

 石段であった。朱色の鳥居が、残像のように、夜の層を一枚一枚区切って、立っている。

 一段のぼるごとに、鳥居をひとつくぐるごとに、身は軽くなった。闇に溶けてなくなったようで、しかし、足を動かす感覚だけはたしかで、どうしようもなく男はそこにいた。

 夢のように、どこかで、記憶が飛んでいる。次の一段に迷って、足を踏みはずしたと思うと、山の上らしい、開けた場所にいた。

「かかさま」

 女の子は、手も足も、むちゃくちゃな順序にじたばたと、地べたをはねて、背たけほどもある、平たい岩にとりついた。

 岩は広い。差し渡し三間ほどもあって、そこを寝床に、ゆたかな毛なみの狐が一匹、長くなっていた。

「かかさま」

「その声は、おまえか」

「そうじゃ」

「よう、帰ってきたねえ」

「平気じゃったぞ、な、わしは、ちゃんとかかさまを見つけたぞ」

「おお、おお、いい子じゃ。いい子じゃ」

 頭でもなでてやりたそうに、ぼそぼそと人の言葉をしゃべっているが、ぐったりと横になったまま、もどかしげに首をふるばかりであった。

「おまえたちも」

 と、狐は、人魂たちへ声をかける。

「ごくろうだったねえ。よくやったよ。さあ、もう、お休み」

 うれしそうに、ぴょん、と飛びあがると、九つの人魂に、それぞれ細い線が三本ずつきざまれる。つんとふたつの耳が立って、鼻がとがる。目と口が開いて、狐の顔ができたと思うと、粘土のようにのびて、みるみるうちに九本の毛の束になって、岩の上で寝ている狐の尻にくっついた。

「むかえに行ってやりたかったのだがの」

 九尾の狐は、すまなそうに、女の子に言った。しっぽも、なにか、頭を垂れるようであった。

「かかさま、体が、悪いのか」

「なに、悪いというほどのこともない」

「でも」

 ヒの字に前足後足を投げだした、狐の額にまで、ぐっとのびあがって、女の子は手をあてる。細い目をさらに細く、長くして、狐はしずかに息をつく。

「いまごろになって、親だ、母だ、と、なんのことかと腹も立つだろう。ゆるしておくれ。母は、体が、じょうぶでなくての。おまえの生まれるとき、わしもおまえも助からぬと、ととさまが見立てての。わしは、山から下りて、人間の女の腹を借りた。心配じゃったのは、あんまりおまえを人間がかわいがって、わしが母だと名乗りでても、おまえはわしを母だと思うてくれないかもしれん。が、ひどいやつらじゃの。子がほしい、子がほしいと稲荷に熱心に祈願に来ておったから、さぞ、おまえを大事にしてくれるだろうと思っていた。おまえをはなしたくないと申すなら、そのままやつらにまかせて、人間として育っていくのもいいだろう。そうすれば、おまえもしあわせじゃろうと思うておった。それが、やつらは、おまえの髪が白いというだけで、海のむこうには赤い髪も黄色い髪もいるのに、爺イ婆アになれば、皆々、髪は白くなろうのに、こんなにいい子をの。かわいそうで、かわいそうで、おまえの夢に出て、屋敷から逃がそうとしたのだよ。大変だったろうね」

「かかさま。わしは、平気じゃったぞ」

「ええ、ええ、元気で、わしの目の前にいるよ」

「わしもな、ひとりだとな、こわいなと思うたから、屋敷に入った盗人とな、いっしょにここまで来たのじゃ。かかさま、でもな、あいつは盗人じゃが、いいやつなのじゃ。本当は、盗人じゃなくて、絵描きなのじゃ」

 女の子は、最後の鳥居の下でたたずむ男を、指さした。狐は、首を動かして、片目で男を見据える。

「お世話になりました」

「いえ」

「このような格好で、申し訳ござりませぬが、ありがとうございました」

「そんな、たいしたことはしておりません」

「ずいぶん前でござりまするが、つい、うかうかと里へ出ましてな。どうも、狐は、あの祭というのが、好きでたまりませぬ。お囃子の笛、太鼓が、あんまりたのしそうで。それに、子供の声に、わが子のことを思い出しましてな。まんまと人間たちに見つかりましてな、そのときの鉄砲の傷がもとで、こうして、寝たり、起きたり、ぶらぶら病いにかかってしまいまして。そうして、この子の父は、そのときに」

「人間を、おうらみでしょうな」

「いいえ。わたしが、悪いのです。人間たちを、おどかしてしまった。人間にも悪いやつはおりますが、それも、狐のなかにも悪い狐がおるというのと同じことで、なにも、人間だから悪いとは思いませぬ」

「まあ、そう言っていただければ」

 あたりまえのように狐としゃべっているが、こんなことはうそだ、と、あたりまえのなかで、またうたがってもいる。わけが分からない。が、なにがおかしいのか。こんなこともありそうに思える。

「ありがとう」

 女の子が、背中が見えるまで体を折って、おじぎした。白いしっぽが、ぴょこんと尻から生えた。女の子は、そのまま手をついて、大きくのびをしたかと思うと、いつのまにか、一匹の狐に姿を変えている。

 九尾のしっぽに順々につかまって、子狐は、岩の上にのぼっていった。

「なにか、お礼をしたいのですが、いかがですかな」

 狐が言った。

 子狐は、狐の腹に顔をうずめて、気持ちよさそうにしている。

「お礼、ですか」

「家なら、長者の屋敷くらいのものは、すぐに建ててさしあげます。金なら、この山にある葉っぱの数ほど」

 男は、少し、考えた。

「なんでも、よろしいのですか」

「わたしにできることならば」

「では」

 風が吹いた。枝のきしむ、葉のちぎれる悲鳴にまじって、こん、こん、こん、と狐の声がした。

 長い夜が終わる。

 木々をもれて、その日、最初の日の光が、男の足もとをきらきらとぬらした。風がやんだ。

 朝が来た、と思った男は、朝が来たとき、すでにそこにはいなかった。

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