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つくも姫  作者: 川光俊哉
3/6

(3)

「あの」

「なんじゃ」

「ひとりでは帰れなくなりますよ」

「誰が」

「あなたが」

「姫がか」

「そう、姫が」

「わしは、帰らんよ」

「どうして」

「あの家はな」

「はあ」

「きらいじゃ」

 男は、立ち止まろうとした。が、できなかった。

 月はなかった。星の光だけで、街道はいやに明るかった。首すじに触れる髪の先が、つめたい。肩ごしに、女の子の青い目が、行く先を照らしているようにも思われる。

 道がつづいている。頭の上にかぶさる木々の葉が、しだいにつんで、綾をなして、空をおおってしまいそうなのに、男は迷わず行くことができた。

 行くことができた、というのは、道が途切れないからで、どうしようもなくくっきりと見えるからで、それに、こわくて、早く人のいるところに行きたいからで、

「きらいと言ったって、どうするんです」

 とは言いながらも、足はどんどん先を急いで、屋敷から遠ざかるばかりである。

「行くのじゃ」

「どこへ」

「どこでもいい」

「わたしは、この上、あなたをかどわかしたことにされたら、いやですよ。つかまったら、殺されます」

「いい」

「よくない。分かりました、帰ります」

 行けども行けども、馬の小便のようにだらだらとだらしなく、道がつづいて、はてしない。引き返して、この子を置いて、村への道をとったほうがいい、とやっと気づき、そうするきっかけを探していた。男は、もと来た道をもどろうと、振り返った。

「これ」

 女の子は、男の頭をばしばしたたいた。

「いや、帰りますよ」

「いやだ」

 なにがなんだか分からないなりに、分かろうともせず、なんとなく流れている自分に、あらためて、つくづく、腹が立った。こんな餓鬼がなんだと言うのか。さっさと無視して屋敷から出ていれば、こんなめんどうなことにならずにすんだ。

 いつもこうだ、と、男は思う。汗とへどがむれて、目にしみるようなくさった長屋で、筆をつくっていたころのことを思い出した。となりに住んでいた親分が、なんの親分なんだか、伝法なおやじで、どうやって銭をもうけているのか知らないが昼間から酒を飲んで、おかみさんをなぐっては泣かしていた。ひとくさり親分のあばれるのが終わると、いびきが聞こえる。それが合図であるかのように、親分のところの坊主が男の長屋をのぞく。笑いかけてやると、坊主もにこにこして、部屋にあがって、そこらの竹を切ったのをおもちゃに遊びはじめる。

 耳の穴に竹の先をつっこんできたり、売りものの筆で脇をくすぐったりしてきたのを、うっとうしい、じゃまだ、むかつく餓鬼だ、と、ちらりと思ったが、かわいそうな坊主なのだから、と、飲みこんでしまったのが、よくなかった。日に日に餓鬼は増長して、首にぶらさがったままはなれなくなり、暑苦しい。が、それもがまんした。破綻したのは、ある日、夕めしの時間だというので坊主が帰っていこうと土間に下りたとき、ふところから、一本、筆がぽろりと転がった。男は、坊主の着物をぬがせて、さらに九本の筆を隠し持っているのを見つけた。

 男は、とうとう堪忍袋の緒を切らしたが、けんかなどしたことがないので、こんなときにどうやってののしって、たんかを切って、やりこめてやればいいのか分からない。怒ったには怒ったが、なにをすべきかと、気持ちだけがどんどん高ぶっていくのに自分でとまどって、つい、手をあげた。ほかに、どうしようもなかった。

 子供の泣き声に、親分が飛んできた。この餓鬼、殺すぞ、などと自分でなぐっているくせに、男がわが子をたたいたのは、ゆるさなかった。男は、足腰が立たなくなるまでぶちのめされ、ほうほうのていで、長屋を出たのである。

 うっとうしい、じゃまだ、むかつく餓鬼だ、とはじめに思ったのを、無理にごまかすようなことをしなければ、あんな痛い目を見ることにはならなかったのである。いつもこうだ、ということは、こんなのは代表的な例のひとつにすぎないのであって、男もすぐには思い出せないが、なにやらあったような気はする、あるいは常に男の人生はこんなもので、あのとき、あの、筆の事件がどうこうというよりは、男が生きかたを変えなければどうにもなりそうにない。そして、それは、一度死んで生まれ変わるのが早いくらいに、めんどうな事業である。

 男も、うすうすそれに気づいている。が、それは、結局どうにもならないことをみとめるようで、いつもこうだ、どうせまた、と心の隅で先まわりして覚悟をするくらいが、せいぜいであった。

「いやだじゃない」

 が、今度は少し、男もちがった。なにしろ、餓鬼を背負っていては、この先、たちまち追っ手にとらえられて、座敷牢にふたたびぶちこまれるのは分かっている。座敷牢ならば、まだいい。一度逃げては、魔がさしたなどと、もう言えない。まあ、命はないものと思っていいだろう。そんなところに流れていくのは、いやだった。つまり、臆病者の本能的な選択で、流れに逆らう手間よりも、死の恐怖が勝った。それだけのことだった。

 女の子が、背中で頬をふくらました気配である。

 なぜ、おれは、白髪の餓鬼を夜中に背負って歩いているのだ。男は、あらためて、自分の境遇の異様さをいぶかしんだ。妙な夜だった。それは、たぶん、塀越しの梅を見たときからつづいていた。男は、まだ、これが長い長い夢ではないだろうか、と、しつこく望みをつないでいる。

「いやだ」

「なんで、いやなのですか」

「あの家のととさま、かかさまは、本当のととさま、かかさまではないのじゃ」

 男は、心が動きかけた。が、歩きつづけた。

「おかしいではないか。一目瞭然じゃ。ぜんぜん似ておらん。わしの髪は白いのに、ととさま、かかさまの髪は黒いぞ。飯たきの婆アは、黒いのと白いのがまじっておる。庭の木をいじりに来る爺イも黒いのと白いのじゃ。本当は、わしは、婆アと爺イの子供じゃろうと思っておった。じゃがの、どうも、顔が似ておらん。婆アは眠いにわとりのようで、爺イは馬がびっくりしたような顔をしておる。おまえ、知っておるか。親と子は、そっくりなのじゃぞ。似ておらねばいかんではないか、のう。じゃがの、爺イと婆アはやさしいから、わしは好きじゃ。ととさまとかかさまは、やさしくないのじゃ。爺イが申しておった、里のほうでは、どんどん、ぴいぴい、お祭をするぞ。お祭はな、たのしいのじゃ。寝ておるとの、聞こえてくる。たのしそうで、ととさまに、行きたい、と言うたら、あれは、ばけものが子供をとって食おうと街道を練り歩いているのだ、とな、こわい顔をして言うのじゃ。こわいから、かかさまにも聞いたら、あれは、狸がうかれて腹太鼓をたたくのだ、ぴいぴいはよく分からん、と言う。おもしろそうだ、と申したら、やっぱりこわい顔をして、そんなものはおもしろくもなんともない、とな、わしの頭をぺしぺしたたくのじゃ。言うておることが、みんな、ちがうではないか。わしは、ととさまとかかさまがうそをついておると知っておるぞ。爺イと婆アは、うそをつかんのじゃ。年のはじめはな、正月なのじゃぞ。その前の日はな、おおみそかというのじゃ。それで、正月の朝のお天道さまが出るのが初日の出といってな、おめでたいのじゃ。それで、神さまにおまいりして、ごちそうを食べるのじゃ。みんな、爺イから聞いたのじゃ。じゃがの、わしと爺イと婆アと、三人きりでの、廚にしゃがんでおもちばっかり食べさせて、がやがやたのしそうなほうへは、行ってはならんと、わしにいじわるして、ととさまとかかさまは、わしのことがかわいくないのじゃ。いじわるなのじゃ。やはり、わしは、爺イと婆アの子かの、とな、近ごろまたそのような気がしての、どうやったらたしかめられるじゃろう、とな、なやんでおったのじゃ。それでな、七日ほど前なのじゃ、その日はあたたかくて気持ちがよかったからの、縁でぼおっと鯉をながめておったらの、ぱしゃぱしゃはねおる。なににむかって飛んでおるのか、みんな、元気にはねておっての、羽が生えたように一尺ばかりも池の水面から飛びあがるやつもおって、はじめはおもしろかったが、見ておるうちに、目がつかれてしもうての。ぽかぽかしておったから、そのまま、縁に寝てしもうた。するとな、庭にな、梅の木があるじゃろう。おや、目を閉じておるのに、どうして見えるのじゃ、と思うじゃろう。わしにも、分からん。夢かもしれん。まっ暗ななかで、梅の木がぶるぶるふるえておる、風もないのに。それでの、風鈴を指ではじくように、りん、りん、ちん、ちん、と聞こえて、それに合わせて、梅が、梅の花びらが散っての。ひとつ、ひとつ、順番に散っていって、枝をはなれた花びらは、細かくくだけて、はだかになった梅の木に、白くかすみがかかる。と、そのかすみが、しゅっと集まって、木の枝にまとわりつく、枝を骨に、花びらのかすみを白い肌にして、ひとりの、女の姿になったのじゃ。着物も、顔も、襟もとも、褄をこぼれる足の先も、みんな白い。そうしての、髪も、まっ白であったのじゃ。

(ふわあ)

 と、わしは声をあげたのじゃ。

(息災か)

 と、女は申したのじゃ。

(かかさま)

 と、わしは言うたのじゃ。

(いま、なんと)

(かかさま)

(母が、母が、おまえには、分かるのかえ)

(うん、かかさま)

(おお)

 と、そのかかさまは、お泣きなすったのじゃ。

(かかさま、かかさま。この家のととさま、かかさまは、わしにいじわるする。わしのことがきらいなのじゃ。かかさま、わしは、本当のかかさまに会いたかった。かかさまは、本当のかかさまなのか)

(本当の、かかさまだよ)

(じゃと思うた、やっぱり、本当のかかさまじゃ)

 うれしくなっての、縁を飛びおりて、かかさまにだっこしてもらおうと思うての、縁を飛びおりたらの、地べたに足がつく前に、ぐにゃぐにゃするのじゃ。びっくりして、足もとを見るとの、池の鯉が、縁の高さに浮いておっての、いや、ひょっとすると、庭に、池の水があふれておったのじゃ、わしは鯉のうろこの赤いの、黒いの、金色の、銀色の、赤いのと黒いのと白いのがまじったの、踏みつけていっての。ちゃんと、かかさままで、一列にならんでおっての。とんとん、とんとん、飛んでいったら、たのしくての、


  梅の木の長者さん

  朝から茶を飲んで

  昼にはめし食って

  晩げにふとんにくるまって寝ましょ

  こん こん こん こん こん こん こん


  梅の木の長者さん

  竿持って川行って

  どじょうを釣りましょ

  釣ったら屋敷であぶって食べましょ

  こん こん こん こん こん こん こん


 うそのかかさまは、そのような村の子供の歌うようなのは歌ってはならん、とな、うるさいのじゃがの、本当のかかさまじゃから、まあいいか、と思うて、歌いながら、鯉の背中を蹴って、かかさまのところまで行ったのじゃ。

(かかさま、かかさま)

(おお、おお)

(かかさまの髪は、白いの)

(ああ、白いねえ)

(わしの髪も、白いの)

(ああ、そうだねえ)

(かかさまの目は、青いぞ)

(ああ、おまえの目も、青いねえ)

 かかさまじゃ。かかさまじゃ。わしは、最後の鯉の、黒い背中から、飛びついたのじゃ。するとな」

「はあ、すると」

 男は、知らないうちに、引きこまれている。もったいぶっているのか、言葉を探しているのか、少し間を置いた女の子に、待ちきれず、こちらから水をむける。急ぐ足も、もつれがちであった。

「するとな、かかさまの胸に飛びついたつもりが、手ごたえがなくて、すっと腕の輪がすぼんで、梅のいいにおいがぷんと鼻についたと思うと、ばしゃん」

「はあ、ばしゃん」

「気がついたら、池のなかで、足の指を鯉につつかれておった。頭から池に落ちて、三日ほど風邪をひいて、寝こんでしまったのじゃぞ。死ぬかと思うた。それでの、わしは、はっきりと分かったのじゃ。わしのととさまとかかさまは、爺イと婆アでもない、どこか、屋敷の外におって、わしを待っておるのじゃ。まだ、そのときのかかさまの顔は、はっきりと覚えておるぞ」

「なるほど」

 男にも、見えるようである。鯉のうろこがちらちらして、梅の花が降る。たけなす銀の洗い髪が、夜にひとすじ、ひときわ明るいのである。少し遅れて、男も、ばしゃん、水をかぶったように、夢からさめたように、はっとすると、それらの面影はすべて、夜空の星々で、いま見返りかけた、長い白髪の女は、天の川にまぎれて溶けてしまっていた。

 男は、目を落として、あたりを見まわした。

 どこで道をそれたのか、屋敷を通りすぎたはずもない、ずっと平坦な街道のはずが、峠を越えようとしていた。

 男は、足をとめた。

「しまったことをした」

「おお、やっと聞き分けたの」

「ここは」

「では、先を急ぐぞ。もどれ」

「いえ、だめなのです」

「まだだめなのか。融通のきかんやつじゃの」

「そうではないのです。道に迷いました。あなたの話を聞きながら歩いていたら、変なところに来てしまった。ここがどこだか、分かりますか」

「知らん。外に出たことなどない」

「そうか。これは、こまった」

 ひとまず、男は、女の子をおろした。

 おれは、本当にだめな男だ。しょせん、ふらふら流れて、流れるままに生きるのがせいいっぱいなのに、やりつけないことをしようとするから、こんな馬鹿を見る。女の子の言いなりになっていたほうが、道が分かるぶんだけ、まだ、いまよりはましであった、と、男はまたぐずぐずなやみはじめたが、それどころではない。とにかく、早く人のいるところを探さなければならない。

「どうした。つかれたか」

 女の子が、襟をひっぱる。

「つかれたのは、まあつかれましたが、どちらに行けばいいのか、こまっているのですよ」

「どこでもいいではないか。屋敷におるよりは、かかさまに近づくではないか」

「さしあたり、かかさまは置いておきましょう。人が住んでいるところに行きたいのです。こんなところをうろうろしていては、ぶっそうでなりません。狼やら、山犬もこわい。本当にこわい。おそわれたあとには、引き裂かれた着物だけがちらばっていて、骨も残らないと聞いたことがあります。わたしも、あなたを守りきれないから、逃げますよ。ああ、ほら、遠吠えが。早く、どこか」

「屋敷か」

「いえ、屋敷でなくてもいいのです」

「よし。行け」

 女の子は、男の背中にはりついた。

「だから、どこだか分からんのですよ」

 肩から女の子の手を引きはがして、また、地べたにおろした。

「じゃからの、どこでもいいと言うておるのじゃ。分からんやつじゃの」

「分からんのはそっちだ。このへんは、本当にあぶないんですよ。つい最近も、商人の夫婦が殺されたのです」

「おまえも泥坊じゃろうに」

「おれは、人を殺したことなどない」

 言い合いながら、女の子が背中にのぼったり、男が振り落としたり、いそがしい。気が弱いのと気がみじかいのは、別に矛盾しない、男は、どうでもいいからとにかくこいつをなぐろう、と、女の子と向き合うと、こぶしを肩のあたりでにぎりしめた。

 女の子は、すぐに察して、ふっくらした両手をいっぱいに広げて、頭をかくして、小さくまるくちぢこまった。

 さっきの女の子の話で、父親、母親から、じゃけんにされているらしいのを、ややあわれに思った余韻が残っている。ひょっとすると、親たちは、ことあるごとに、こんなふうに、女の子をなぐっているのではないか、と、男の脳裏にひらめいた。髪の色が人とはちがうくらいで、うそをついて屋敷に閉じこめ、継子あつかいにして、おおみそかも正月もない。思えば、あわれな子供である。

 男は、手をとめようとしたが、人をなぐるのになれていない上に、変なところで体勢を変えようとしたから、足がすべる。それが、ちょうど女の子を押しつぶしそうに、のしかかっていくのである。女の子は、まるくなったままで、よけてくれそうにない。

 と、男の体が、抱きかかえられたように、宙にかたむいたまま、とまった。まったく、丸太のような、たのもしい腕に抱かれているようで、脇の下、胸、腰、それぞれになにかの手ごたえがある。しだいに、男の体が、まっすぐに立てなおされた。しっかりと二本の足で地面を踏まえたと思ったら、男の体に触れたものは、もう消えていた。

 しばらく、男はぼんやりしていたが、まだにぎっているこぶしのやりどころにこまり、もう片方の手のひらにあてて、ぱしり、と音を立てた。

 女の子が、顔をあげた。

「あ」

 と、女の子が、目をまるくした。

「なぐらないよ。うそですよ。子供を相手に」

 男が言い訳しようとするのを、女の子は断ち切るように、

「かかさまじゃ」

 男の頭の上、女の子の目は、ずっとむこうを見ている。なんのことだか、考えるより先に、男は仰いだ。

 青黒い木々の葉を背景にして、卍に輻輳し、巴に散華する、霧を集めて乳色ににごった、ねばるような尾を引いて飛ぶ、まるいかたまりの群れが、そこにある。人魂だ、と、声をあげたように思ったが、息は吐くより、引いていて、出かけた言葉といっしょに、ひとつかふたつ人魂を吸いこんでしまったようで、気が遠くなる。次の瞬間、うずくまって、女の子の肩を抱いていた。

 いかにも、女の子を守ろうと反射的にそうしたようだが、あんまりこわくて、こんな小さな餓鬼でもなんでもいいから、すがりつきたかっただけである。

「かかさま、かかさま」

「ちがう、ちがう、ちがう、ちがう」

 人魂がなにか勘ちがいして、こちらをしたってきてはこまるので、かかさま、と女の子が言うのを必死に打ち消しつつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、念仏をとなえている。

 がさがさ、峠の木々が、風もないのにさわいでいる。

 まちがいない。盗賊に殺された、旅人たちの怨念だ、と男は思った。おれも悪いことは多少するが、殺したやつらと同じくらいの悪い人間にされて、しかえしされてはかなわない。

「いたたたたた」

 こわいぶんだけ、抱く腕に力をこめて、女の子はつぶれそうであった。が、男の腕のなかにあるのは、このさい、女の子ではなくて、おぼれるもののつかむ藁の一本でしかないのだから、男の感覚は、木のがさがさと、漠然とした人魂の気配にのみ集中されている。目はかたく閉じている。

「いたたたたた」

 ざわざわが、やんだ。なんとか、つぶれる前に、女の子をしめつける腕はゆるんだ。が、男は、油断しなかった。全身全霊の勇を鼓して、まぶたをこじあける。

 いない。

 気が抜けて、涙と鼻汁が、ゆるんだ顔にだらだら垂れた。しかも笑っている。

「ね、だから言ったでしょう」

 顔をぬぐって、男は言った。

「なにが」

「夜の道は、おそろしいのです。あなたは、外に出たことがないから知らないでしょうが」

「せっかく、かかさまがそこまで来ておったのに」

「かかさまじゃない」

「かかさまじゃ」

「あれは、死んだものの、人魂です」

「かかさまじゃよ」

「だから、かかさまじゃないと言っている」

「かかさま」

 男は、これは水かけ問答がはじまってしまうな、と、それ以上は言い返したりしなかった。

「とにかく、ここをはなれよう」

「いいぞ」

「ほら」

 男は、女の子に背中を差し出した。なんのあいさつもなしに、女の子の重みが腰にかかる。

「さて、どちらに行きますかね」

「あっち」

 鼻をこすりそうに、女の子の指が、男のむいたほうを示した。

 星があふれて、こぼれたように、峠を下ったどん底に、かすかな光が、赤く、またたきもせず、見つけた目にもあたたかい。

 ずいぶんあたりはきょろきょろしたはずだが、あんなのを見落としていたとは、少し変な気がする。が、とにかく、人がいるらしい。ひと晩、泊めてもらって、できればめしも少し食わしてもらって、ぐっすり寝たら、あらためてこの先のことを考えよう、と思う。

「行け」

「はいはい」

 馬を駆るように、男の襟を手綱にして、ぐいぐいひっぱり、体をゆすぶる。

 ふたりが通りすぎると、そのあとを、葉っぱの陰、幹のうつろ、枝の股、さっきの人魂が、見送るようにのぞいている。やがて、なまぬるい風と消えて、男と、女の子を追い越していった。

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