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つくも姫  作者: 川光俊哉
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(2)

 さて、夜はふけた。

 あたりは、ほのぼのとうす明るい。が、ひとかけらの星の光すらとどかない、屋敷の奥、暗い廊下のつきあたり、階子段をおりて、さらに下へ、足にふれる赤土は履物を通して背筋まで凍るほどにしっとりと冴えて、かびのにおいと、ネズミの跳梁し、コウモリの跋扈する気配がすべて、あのスサノオの閨房のような、一室である。

 やせた、ひとりの男が、あぐらをかいてぼんやりしていた。明かりはない。が、男には見えていた。目の前に、碁盤の目のように、きっちりと織り目をなして、木の柱が、闇を区切っているのである。

 座敷牢のなかである。いまの長者の何代か前、長男のくせにどうしようもない遊び人があったそうで、二年ほど外に出られないように、座敷牢に押し込めた。それから改心して、むずかしい本を読みあさり、そのおかげで江戸で薬学を修めることができた、という出世話もある座敷牢なのだが、男はそんなことなど知らない。

「しまったことをした」

 男は、口に出して、つぶやいた。ほとんどため息にまじった擦過音でしかなかったが、闇のなかで、びっくりするほどあちこちに響き、そこらの隅で、得体の知れないものが、がさがさ、うごめいた。男は二度びっくりし、めったにひとり言もできない、この境遇にしみじみ絶望した。

 ここで、何日じっとしているのかも分からない。たいてい、三日よりみじかいということはなく、五日より長いということもなさそうな気がする。飲まず食わずである。そろそろ、死ぬのだと思う。

 めしが食いたい、水が飲みたい、せめて外の空気が吸いたい、と、衰弱するとともに、男の欲求するものは変わっていった。

 目を閉じたように思う。が、ここも闇だ。また開けた。闇だ。

 また、あたりでものの動く気配がする。耳に入れるのもけだるい。男はじっとしていたが、ネズミかコウモリかは知らない、いつのまにか気配は男をかこみ、がさがさ、こそこそ、さわぎたてる。

 さすがに、なにごとか、と男は思った。男の頭の先までひたして、牢のなかに充満した、がさがさ、こそこそは、潮が満ちたら潮が引くように、牢の一番奥、ぎゅうぎゅうに凝り固まる。そこだけ、闇が、濃くなった。

 目の前では、闇が、ぼやけた。足音がした。明かりが、迷いこんだ。男は、とたんにくずれ落ちようとした体を、両手をうしろについて、ささえる。うれしかった。目頭が、燃えるように熱い、赤く、青く、ちかちかする。涙は流れなかった。

「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ」

 しぼりだしたように、うめき声がもれた。とにかく、めしが食える、水がなめられる、そういうことなのだと思った。

「おるのか」

 男の声に、むこうは足をとめた。思いのほか、若い、いっそおさないような、女の声であった。

「はい」

「そうか。起こしたか」

「いえ、腹が減って、眠るどころではございません」

「よしよし」

 なにがよしよしなのか、ろうそくの明かりは、男に近づいてきた。座敷牢の格子が浮かびあがる。男は、がくがくしながら、そちらへ這っていく。

 格子ごしに、顔を見合わせたのは、せいぜい五つくらいの子供であった。が、男にはどうでもよかった。その女の子の置いた、竹の皮のつつみと、小さな鉄瓶とに目を釘づけている。女の子が手を引くと、男は、おあずけをゆるされた犬のように、飛びついた。つつみのなかのにぎりめしは峨々たる銀砂の雪山、鉄瓶の口からにおうような、水はつめたく、あまい。

「腹が減っておったか」

「はあ」

「よう食ったの。見ているこっちで、胸のこのへんがしくしくするぞ」

「それは、どうも。しかし、いくら盗人でも、あんまり無茶ですよ。兵糧攻めですか。まったく、殺されるところでした」

 腹がいっぱいになったら、すぐに男は、文句を言いはじめる。つまらない男である。相手が女の子であるから、弱いものには強い、すでに男は、いいめいわくであった、というくらいにしか考えておらず、不幸な事故、災難がふりかかったのだと心から信じていて、全面的にその責任は、この女の子にあるのだ、と思いかけている。

「じゃというて、おまえが勝手に屋敷に入るから、このようなくさいところに入れられるのではないか」

「そうですが、しかし、あんまり無茶ですよ」

「わしも、家のものが寝しずまってから、やっとこれだけ、こっそり持って来てやれたのじゃ。うまかったか」

「はあ、まあ。ありがとうございます」

 男は、ふてくされる。いまのこのような状況とは、まるで無関係に、小さな餓鬼に言い負かされたようなかたちになったのが、くやしいのである。

 男は、顔をあげた。ここの長者の娘にちがいない。親の顔は知らないが、ゆでたまごのようなつるりとした肌に、すこし釣った、しかし大きな目は、うすく青みがかっていて、いわゆる美貌といったおもむきでないにしても、かわいらしい部類には入る。

「どうした」

 と、女の子は首をかしげる。

 しかし、と、男は思う。銀のような、雪のような、では、さっきのにぎりめしをなすったように思われて、あまりよろしくない。真珠を溶かして、絹の糸を染めて、雨と降らせて、集めて、流して、滝と落ちる。眉の線、肩の上で切りそろえられた童髪は、老婆のようにまっ白で、細く、軽く、首をかしげた拍子に、秋の草の風になびくように、さらさらと音を立て、目のなかでひややかに燃える。

 男は、梅の木の長者の縁起話など、知らない。

「いえ」

 目をふせた。いま、この女の子の機嫌をそこねるのは、けっして得策ではないと思ったのである。

「うまかったか」

「はい」

「よかったな」

「あなたは、こちらの屋敷の」

「そうじゃ。姫じゃ」

「さようで。その、わたしは、いつ、ここから出られるのでしょうな」

「なんだ。出たいか」

「ええ」

 こてん、と、首を反対側へ、振り子のように振って、またもどした。

 うすくつぼめた口唇が、にゅっと持ち上がって、のぞいた白い歯が、三日月に光る。

「いいぞ」

「えっ」

 男は、ありがたいと思うよりは、ぞっとした。

「それは、その、おとがめなし、ということで。このまま、外に出していただけるということで」

「そうじゃ」

「しかし、このような大きなお屋敷の、蔵に、忍び入ろうとしてつかまったのですから、ええ、当然、お上に突き出されるものと思って、覚悟しておったのですが」

 あわてて、とりみだし、かえって外に出たくないようなことを言う。

 つまらない泥坊の駆け出しである。しじみ売り、くず屋、夜鳴きそば、おわい屋、と、なにをやってもうまくいかず、しだいに簡単な、安直な仕事にうつっていったが、とうとう泥坊くらいしかやることがなくなった。

 泥坊でもやるか、こうなったら泥坊しか、で、はじめた稼業なので、あたりまえの仕事よりも、ぜんぜん上達しない。お寺のお賽銭をくすねたり、おつかいの餓鬼をすかしてお駄賃をだましとったり、それでも、男には命がけの大事業で、一文二文のもうけでも、その夜はどきどきして寝ることができない。らくをして銭を手に入れた、といううれしさと、この銭がなくなってこまる人が何人いるだろう、と頭のなかで指折りかぞえる律儀な罪悪感と、ないまぜになって、寝るどころではない。

 城下を出て、つまらない泥坊なんかをしていると思いつめながら、あちこちを流してその日その日をどうにか生きていた。本物の辻切り強盗やら、ごまの蝿やら、肝のすわった命知らずの悪党どもにつかまりもせず、ふらふら、ゆらゆら、蚊とんぼのように町々、村々をただよう男がこれまで生きてこられたというだけで、まずは、もうけものであった。

「魔がさした」

 と、ここでつかまった男は、申し開きしたのである。

 どうして、こんな立派な屋敷に盗みに入ろうと思ったのか、自分でも分からない。案のじょう、あまりにも大きな蔵の前で、気おくれして、うろうろしているところを、犬に吠えられて、つかまった。

 宿場で置き引きした、商人の荷物をてきとうに売って、それがこのごろでは最後の仕事で、そろそろ別のことで金を得なければならなかった。街道をてくてくやっていると、なんとなく横道に入って、くさったような村に入り、ここで盗みをするのはあんまりひどい、などと思いつつ、通りすぎた。里からはずれて、梅の木の長者の塀で足をとめたのは、梅が、きれいだったからである。

 たそがれていく、あたりの山、田んぼ、すみかに帰るカラスたちの翼、カアカア、の鳴き声さえ、赤く、黄色く、ひと刷けされ、梅にうつして、花びらは血の玉のように、ものすごかった。

 人が苦労して得た米や金を、自分の土地だからという理由で、平気でもらう。まったく、平気なのだ。申し訳ないと思うでもない、それが権利だと開きなおるでもない、ただ、あたりまえにらくをしていやがる。男は、通りすぎただけで村の人々の気持ちが、いくらか憑依したのか、そう思った。そう思った気がする。つかまって、座敷牢のなか、少したって頭を冷やしてから、あのときそう思ったのではないかな、と、思ったのである。が、それはこしらえた理由のようで、どうも、たしかにそうだったと言い切ることができない。いまも、しっくりくるのは、梅がきれいだった、ということにつきた。

「なんにもとっておらんのだろう。だから、もういい。出してやる」

「はあ」

 男は、組んだ指をながめながら、女の子の言葉をいちいち反芻していた。油断しなかった。泥坊の習性としてそうしているのではなく、卑屈な被害妄想であった。気をゆるしたら、かならず裏切られてがっかりする、にぎりめし程度で、信用してはならない。つまらない男の、それなりに苦労をかさねた人生の、教訓であった。

「本当、ですか」

「そうじゃ」

 えらそうにあごを上げた、その歯が、髪が、やはり白い。

 気味の悪い餓鬼だと思う。夢でも見ているのか、目がおかしくなったか、あるいは、もう死んでしまったのか。いやいや、と、ひとつずつ打ち消して、やはりここはただの現実であると思う。その現実で、ひとまず、餓鬼の白髪はおいておく、

「しかし、どうして、あなたが、それを知らせに来なさった」

「なにが」

「つまり、あなたのような、その、お子様が、わざわざこんなくさい、暗いところに来ることはないように思うのですが」

「うん、うん」

「あの、旦那様は、ごぞんじで」

 くしゃり、と、紙をにぎりつぶしたように、眉間にしわをきざんで、目を線にして、唇を持ち上げ、女の子は鼻の頭を中心に顔を集めた。

 いじわる。

 それを聞くんじゃない。

 どうしよう。

 馬鹿。

 と、顔で言っている。目のはしは、涙をためて、特に女の子の気持ちが濃い。

「ど、ど、ど、どうしました」

 女の子はうつむいて、頭につむじの渦を見せ、ごそごそしたかと思うと、格子にとりついて、なにやらがちゃつかせる。

「出してやる」

 と、やわらかい手のひらに、鬼のげんこつのような錠を乗せて、つきつけて、すごんだ。

 きい、と音を立てて、牢が開いたのである。

 錠が、どすん、と赤土に落ちた。

 女の子は、腰に手をあてて、そりかえって、べしゃりと座った男を見下している。

「出ろ」

 命令した。

「は、はい」

 男は、病気の犬みたいに手足をもつれさせて、這い、格子をくぐりぬけ、女の子の足もとで、また尻をつく。

「出してやる、と言うておるのに、どうして理屈を言うのか」

「はあ、しかし」

「どうして、理屈を言うのか」

「いえ、それは、実際、どのようなことになっているのかと思いまして」

「どうでもいいではないか」

「それは。はい、出ることができれば、それは、もう。はい、ぜんぜんかまわないです」

「じゃろう」

 今度は、得意げに鼻翼をふくらまし、顔の部品を拡散させて、くるくるといそがしい。

 と、女の子は、片足ではねた。足袋もはかず、素足で、裾からこぼれて、小さな爪が桜貝のように淡く、たよりなく、ろうそくの光ににじむ。その乳色が、目の先から消えないうちに、男は背中にやさしい重みを感じる。

「よし。出ろ」

 女の子が、背中から、両手で肩をつかんだ。

「は」

「出るのじゃ」

「はあ。では、下りてください」

「このまま、行くのじゃ」

 また、わけの分からないことを言う。

 なんだか分からなくても、これで自由になれるなら、たしかに、どうでもいいのである。子供など、ふだんから半分酔っぱらっているようなもので、別に意味もなくべたべたあまえているだけなのかもしれず、てきとうにあしらえばいいのかもしれない。

 が、現実の問題として、こんな餓鬼を背中に乗せているくらいで、もう、男は足腰が立たないのである。にぎりめしを消化して、五体に血がめぐるには、まだ時間がたりない。腕はしびれているし、足もほとんど萎えかけている。

 男と女の子は、ひとくさり、下りてください、いや下りない、と押し問答した。

 おまえと遊んでいる場合ではない、とよほど言ってやりたかったが、体力がない、いま座っているだけでやっとである、という意味のことを分かりやすく何度も繰り返す。そのたびに、女の子は、どうしてそう理屈ばかり言うのか、と不機嫌になる。理屈、というのは、乳母か母親の口ぐせなのではないか、と男は思った。

「分かりましたよ。やれやれ。しかし、わたしは、体が言うことを聞かないものですから、小石につまずいただけで足の骨が折れるかもしれないし、枝にひっかかっただけで、あばらがくだけます。あなたを取り落として、けがをしても、それはわたしのせいではないですよ。いいですね」

「いい」

 男は、階子段のほうへ、足を運んだ。

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