失念の日々
我ながら自信作です。
ある日のこと。
昼の八時に目を覚ますと、十二時であることに気づいた。昨日寝たのは何時だったか忘れた。しかし今日から長期休暇であることは辛うじて憶えている。この休暇で体を癒すとしよう。
ボクは布団から起き上がると、まずは顔を洗いに洗面台へ向かった。途中尿意を感じたのでトイレに寄り、出ると、そういえば朝飯を食べてない。ボクは忘れっぽい。なので、思い出したらすぐ行動しないとすぐに忘却の海を泳ぐことになる。食事をとりに居間へ向かう。
朝飯はパンと目玉焼きとサラダにしようと思う。仕事がある時はヨーグルトとシリアルで終わらせるが、せっかくの休日なのだから、少しおしゃれな朝食を楽しもう。ボクは冷蔵庫からヨーグルトと牛乳を取り出し、シリアルを皿に入れて牛乳をひと注ぎ。いつもの朝食だ。休みだというのにもったいないな。
食べ終わる。しかしやることがない。前々から有給を消化しろと上司がうるさかったので、今こうして休暇をとっているワケだが、やることを決めていなかった。何もしないというのも物足りない。そうだ、最近運動不足なんだから、ちと散歩にでも出掛けよう。
外出用の服に着替え、外に出る。しかしなぜ外に出たのだろうか。何か大事な目的があったハズだが。そうだ、ボクは服を買いに行こうとしていたのだった。財布は忘れていない。昔のボクだったら財布さえ忘れていただろう。いやぁ、最近のボクの記憶力は向上の一途を辿っている。自信もつくし、いいことだ。
スーパーに足を向けながら、何を買うか頭の中で整理する。昼飯の為に、卵、パン、サラダ、バター、シリアル、あとおやつも買おう。おはぎにきんつば。全部で十個か。ちゃんと指を曲げて数えたから間違いはない。
スーパーに到着し、卵売り場へ歩む。卵を吟味していると、かごを持ってくるのを忘れていた。入口まで戻り、かごを取る。そしてパン売り場に行き、パンを選ぶ。卵も買うのだから、フレンチトーストにしてもいいのかも。とりあえず八枚入りの食パンをかごに入れ、卵を探す。茶色の安い卵を手に取り、他に買うものを確認する。あとは、サラダ、シリアル、おはぎ、きんつば。あれおかしい。全部で九個になるハズだったのに。
改めて指を曲げて数える。かごに入れた物も含めて、卵、パン、サラダ、シリアル、きんつば。どう数えても九個な届かない。また忘れてしまった。己の記憶力を恨む。こうなったら頭に記憶の開花という閃きが生まれるまで思い出すことはない。仕方なく、家に帰ることにした。
すると、店員が駆けつけ、ボクに言った。
「ちょっとちょっとお客さん、万引きするつもりですか。警察を呼びますよ」
あっ、とボクは声をあげた。会計を忘れるだなんてなんて間抜けなんだ。店員さんに必死に頭を下げ事情を説明したら許してもらった。詫び金をあげようとしたら断られた。遠慮しなくてもいいのに。ボクは卵とパンを会計し、家に帰った。
昼食を作る前に、布団に横になった。今日も人に迷惑をかけてしまった。恥ずかしくて、穴がなくてもどこかに埋もれていたい。そう思案していたら眠ってしまった。
ある日のこと。
いつもの朝食である焼き鮭定食を食べ、昼に近づくまでスマホと睨めっこしていたところ、市役所から書類が届いていたことを思い出した。忘れぬうちに書くこととしよう。
片付けていない紙束の中から目的の物を取り出し、ボールペンを持って書き始める。ハズだったのだが、名前の欄でつまずいた。さて、ボクの名前はなんだったか。
いくら考えても脳に正解が浮上することはなかった。仕様がないので親に電話をかけて自身の名を確認することとした。スマホを取り出し親の電話番号を入力しようとして、その電話番号を忘れていたことを思い出した。電話帳を見てみるが、登録するのさえ忘れていた。
もうどうしようもない。これは時間が解決してくれる。気分転換に風呂に入ることにしよう。
風呂場に入り、シャワーで体を洗い流す。日常の動作としてボディソープで肉体を綺麗にする。シャンプーで頭ガシガシとしつこく掃除し、温水を浴びる。ふぅ、と一息つく。そうだ、シャンプーをしていなかったなとシャンプーを手に取り頭を洗う。シャワーで洗い流し、鏡を見る。そういえばシャンプーってやったっけ。不安がムクムクと沸き上がり、髪に触れてみる。どうやらシャンプーはしたようだ。安心してリンスに手をつけられる。
ついに風呂に入る。仕事後の風呂もいいが、昼に入る風呂も心が洗われる。しかし、ここで不安が襲う。そういえばリンスってしたっけ。どうもしてないように思える。風呂からでたらリンスで髪を整えなければ。
風呂からでて、さらに風呂場からもでた。いやぁサッパリした。バスタオルで全身を拭く。そして気がつく。替えの服を持ってきていない。また忘れっぽいところが出てしまった。後悔やら自責やらの念がボクの心に吹雪として舞う。だがそれで泣いていては始まらない。裸のまま自室へ行き着替えをする。
着替えが終わると夕食のことを考えなければならない。居間に足を進め冷蔵庫を開く。何か無いかと見ていると、最近和食を食べていないということを知った。冷凍庫には昨日だったか一昨日だったかに買ったぶりがあった。これを塩焼きにしよう。
ぶりを取りはしたものの、まずは味噌汁を作ることにする。ボクのおすすめは小松菜と油揚げの味噌汁。やっぱこれだね。そう考えながらもやしとワカメをキッチンに置いた。間違えた。ボクは何をしているんだ! 二つを戻し、しっかりともやしとワカメを取り出した。
味噌汁を作るのは素人が思うより簡単だ。まずお湯を沸かし、だしの素を入れる。そしてワカメともやしを入れて終わる。
もう一つの鍋をコンロの上に置く。ぶりは煮込みにすることにしていたので、醤油とか色々並べてぶりを煮込む。あと何分か待てばもう晩飯は出来上がる。副菜が無いのが気になったが、そこは味噌汁で代用出来るだろう。
五分たった頃、ようやく、ぶりに落し蓋をしていないのに思い至った。だが今さらの話だった。ぶりはすっかり醤油色に染まり、これから手を打っても無駄だった。味は落ちるが、もうこのままのものを食べよう。
ぶりを皿に盛り付け、味噌汁をお椀に注ぎ、ごはんをよそう。これで晩飯の出来上がり。
「いただきます」
まずは味噌汁からいただく。飲んでみると、おかしい、なにか足りない。しかし何が足りないかは分からないのでもやしを食べる。食事は野菜から食べると健康にいいらしい。
ぶりは、残念な味だった。味が不足してると書いて不味い。味が足りない。これでは白米のおかずにはならない。そこで、醤油をかけて誤魔化す。ほとんど醤油味で多彩は無く、つまらないものになった。不満ばかりが残る食事だった。
皿を片付けるとき、ふと目に映ったのは何かの書類だった。ボールペンがそばに添えられているが、いったいなんの紙だろうか。会社からだろうか。しかしポストには何もなかったと記憶している。もしやお化けか。そう思うと身が震える。ボクは何も考えないようにしながらシンクに食器を置いた。
しかしながら、なぜ味噌汁はあんな味だったのであろうか。なにか味噌が足りない気がするが、味噌は入れたハズだ。味噌がない味噌汁なんてありえない。歯磨きをしに洗面台に向かいながらそう思う。
洗面台に到着したが、どうしてボクはここにいるのだろう。周りをくどく見渡すが、記憶を蘇らせる効能はない。また忘れたか? いや諦めるにはまだ早い。こういう時は、因果を辿ればどうにかなる。
まず、ボクは夕飯を食べた。味がどうこうという文句が頭の中を飛び交いながらここへ至った。どこもおかしな要素はない。どうやらここに来た理由は他にあるようだ。
夕飯以前の記憶を覗くと、風呂のことが浮かんでくる。するとどうだ、思わずポンっ、と手を叩いた。ボクは洗濯かごに服を放り込んでいない。どうやらこれが正解のようだ。すぐに自室に戻り服を手に持ち洗濯かごに入れる。やはり思い出すというのはスッキリする。
まだ早い時間だが、この心地よい気分のまんま寝てしまおう。ボクは再び自室に行き布団に潜り目を閉じた。
ある日のこと。
ボクは会社員だが、まだまだ新米で、つまり学生時代の心が未だ現存している。学生の頃はゲーム三昧で勉強なんて忘れていた。過去の眺めを懐かしみながら、ゲーム機を起動する。なんてゲーム機かは忘れたが、外見だけいうと、なんか黒くて、黒くて、それ以外に特徴はない。
ボクの好きなゲームは大変硬派なもので、何時間もプレイしなければエンディングを見られない。忙しい毎日を過ごしていたので、ちょびちょびとしかプレイできなかった。だが今日は長期休暇の一日だ。ダラダラとゲームをしても誰にもいびられない。
ゲームを初めて、キャラクターを操作できるようになって気がつく。ボクはどれだけストーリーを進めて、どこに向かえばいいのか、全く全てが解らない。それどころか操作方法だって頭からすっぽぬけた。
とりあえずスティックでキャラクターが動くのは理解できる。攻撃ボタンはどこだったか。それらの基本を確認しているうちに十分はたってしまった。
それからは酷いもので、ゲームの勘も解っていないままプレイしたのでなんども死んでいく。たとえそれらを超えたとしても、既に記憶から失踪しているストーリーを語られて脳が混乱する。ムービー中に誰かが死んでも、誰が死んだのか判らないのでなんの感慨もない。
ため息を吐きながら、ボクはセーブしてやめた。もう何が起きているのかワケが解らない。もう新しいデータを作るしかないのだろうか。それとも社会人にゲームは厳しいのだろうか。逃げの選択肢が頭から離れない。だが挑んだところでどうしろと。ボクはゲーム機の電源を落とした。
今度は溜めていたアニメを消化することにした。今期のアニメはなんであったかなんて忘れていたが、ネットで情報を集めながら見れば解消する問題だ。
しかしそれが仇となった。うっかりネタバレをくらってしまったのだ。キャラクターの誰が死ぬとか、ストーリーの謎だとかが全て頭に侵入した。こういったものだけはどうしてか忘れられない。忘れっぽいハズなのに、どうしてか忘れることのできない情報がある。ボクは己の迂闊さを呪った。もうアニメを見る気力もない。
気づけば夕方だ。料理をする元気は無くなったので、コンビニ弁当で済ませることにしよう。服を着替え、外に出た。なんでボクは外にいるんだ?
歩道で突っ立っていると、外に出たワケを知った。近頃家にいてばかりだから、散歩しに外出したのだ。そうと分かればブラブラしてこよう。まずは公園を目指そう。
川沿いを歩きながら、流れ行く水に鳥が泳ぐのを見つける。スマホを家に置いたままだったので写真に残すことはできない。この光景をしかと目に焼き付けよう。あんなにも鳥が愛らしいのだから。
公園に着いた。どうしてボクが公園にいるのかは知らないが、子供たちと、それに付き添う親御さん達が夕焼けを浴びながら遊んでいるのを見ると、微笑みがこぼれる。今日も平和だ。
すると、お腹の鳴る情けない音が耳に響く。どうやら自分の腹の声らしい。丁度外にいるのだから、外食をすることにしよう。マックにするかサイゼリアにするか悩んだが、マックのほうが近いのでマックにした。
目的地に行く途中、ラーメン屋を見つけた。どうやら人は空いているように見える。目的地とはいっても、どこを目的としたかは忘れていて困っていたので、晩飯はここにすることにした。
「いらっしゃいませー!」
店に入ると元気な声で迎えられた。食券機がないのが残念だが、その声だけで許せた。
カウンターの席に座り、醤油ラーメンを頼む。その間は手ぶらなのでメニューでも眺めていることにした。サイドメニューの餃子や豚骨ラーメンなどが涎を生む。しかし散財したらのちに後悔することは知っているので、ここは我慢することにした。
そんなことをしているうちにラーメンが届いた。見ると、なぜか醤油ラーメンだった。豚骨ラーメンを頼んだと思ったのだが、どうも曖昧でケチをつけることはできない。もしかしたら自分の記憶が間違っている可能性があるので、クレームをつけるのはやめにした。
ラーメンは定番の家系ラーメンだった。他のと変わらないとも言える。だけども白米並みの安心感があるから家系は止められない。美味しくいただき、会計を済ませる。あとは家に帰るだけだ。
帰宅する途中、川沿いを歩く。川を見れば、鳥達がなんの警戒もせず悠々と泳いでいた。スマホがあれば写真を撮るのに、スマホを忘れてしまった。なので、あの愛らしい姿を目に焼き付ける。この光景は忘れないようにしよう。
家では手を洗い、歯を磨いて寝ることにする。なにか忘れている気がする。だがどうしても記憶が現れない。それにしても体は痒く、髪も洗ってないかのようだ。なにを忘れたのだろう。
そうこう考えているとウトウトとし、そのまま夢の中に飛び込んだ。
ある日のこと。
今日は朝早く起きた。窓から差す太陽が暖かい。その木漏れ日の気分を打ち消すようにスマホが鳴る。どうやら電話のようで、しかも相手は会社だ。まさか休日出勤か。そんな不安をよそに電話にでた。
「まだ会社にいないようだがなにをしている」
上司の声だ。なにをしているかなんて、彼が一番知っているだろうに。ボクは長期休暇をとっているハズだ。あの人がそれを忘れるとは思えない。ボクじゃないのだから。
「なにって、休んでいますが」
「なんで休んでいる。昨日で休暇は終わりのハズだぞ」
「えっ」
カレンダーを見て、古い記憶が震え起きた。そうだ、昨日で休日は終わりだった。なんてこった、確実に遅刻だし、それ以前に色々とまずいことになった。
上司にペコペコと謝りながら、急いで着替え手提げのバックに物を詰める。電話を切り玄関から飛び出す。手になにも持っていないような気がするが、今は急がねばならない。ボクは道を早歩きで通る。川には鳥がいたが、スマホを持っていなかった。
迫真私小説