ほろ苦ビールと『魚介の天ぷら』の謎
小雨がしとしと降り続く、梅雨。
蒸し暑いこんな夜は、美味い夕飯を食べながら冷えたビールを飲みたい気分になる。できれば、ちょっとだけ上等な一品を。
「というわけで、クラフトビール買ってきた」
「ビールなら家に買い置きがあるのに……。あなたのお小遣いが減るだけでしょ?」
エプロンを外しながら、甘理が呆れたように笑う。
「あれはビールじゃない、ビールに似たビールティスト飲料なんだよ」
「何が違うの? 色も味も似たようなものじゃない」
「うぬぅ……」
料理上手な甘理だが、お酒に関してはかなり疎い。というか、アルコールが入っている時点で脳の味覚系統が停止。
酒というひとつのジャンルとして括ってしまうらしい。
ビールと発泡酒は確かに判別しずらい。にしても、白ワインと日本酒の区別や、赤ワインとブドウチューハイの区別ぐらいはついても良さそうなものだが、それさえ怪しいのだ。
何故ならお酒にとことん弱い体質で、一口飲んだだけで舌が麻痺してしまうのだから仕方ない。
「さぁ、晩御飯にしましょ」
「今夜は天ぷらか! 美味しそうだ、いいね」
甘理が楽しげに食卓に皿を並べる。俺も一緒に皿を運び、白いご飯を二人ぶん盛る。大盛りだ。
「魚介の天ぷらなんだけど、一口サイズで食べやすいと思うよー」
「ほうほう」
食卓の中央にデンと置かれた大皿に、揚げたての天ぷらが山盛りになっていた。上質な油の焦げた香り、火の通った魚介が醸すタンパク質の匂いが、実に食欲をそそる。
海老にイカ、ホタテ、そして何か魚の切り身だろうか? それらが薄いきつね色の衣に包まれている。
見るからにサクサクそうな揚げたての衣。買ってきた惣菜ではこうはいかない。家庭の天ぷらは難しいと聞くが、甘理は難なくこなしている。
魚介メインの天ぷらに彩りを添えるのは、緑色も鮮やかな青じそやマイタケの天ぷらだ。
好きなだけ取っては天つゆにつけて食べる仕組みで。天つゆの横には、丁寧にも大根おろしとショウガのすりおろしも添えてある。
完璧だ。
さすがは我が愛する妻……!
ビールにこれほど合う夕飯があるだろうか。
「ありがとう……感謝だ」
「クリスチャンだっけ?」
からかう甘理にもグラスを差し出す。
「ビールにも合うから、ちょっと味見してみない?」
「うーん。そうね、一口だけならいただくわ。さぁ、揚げたてのサクサクのうちに食べましょっ」
「おうっ!」
ぷしゅっ……!
テーブルについて、缶ビールを開ける。
今夜は高級な地元の蔵元が醸造したクラフトビール。国産の大麦を使った香り高いピルスナー。有名な遠野産ホップ入りで、開けた瞬間から香りが違う。二つのグラスに分けて注ぐと、香ばしい麦芽とホップの香りがした。
「かんぱーい」
「これは高級ビールなんだぜ。なんたって限定醸造で、ドイツで修行した職人が……」
うんちくを垂れようと思ったのに、甘理はぐびっと一口飲んで、舌で上唇をぺろり。
「んー? あー……」
「どうだ、美味いだろ?」
「ビールだねっ」
ガクッ。
ダメだこりゃ。
甘理はお酒に関してはてんでダメだ。味もわからない上に、酔いやすい。
お酒で思い出すのは、大学の頃のこと。
高校卒業後、隣県の大学に入った俺たち。この頃になると俺と甘理の間には「腐れ縁」を通り越し、若干運命的な、あるいはオカルテックな因縁めいた、つまり先祖の呪いか何かなんじゃないか……? と疑う空気感すら漂っていた。
流石にゼミやサークルは別だったが、コンパだ合コンだと忙しかった。当然、彼女も飲まされる機会はあった。
酒に弱いと公言していても、周囲もまさか一杯目で寝てしまうとは思わないだろう。すると何故かお節介な同級生――同じ高校からの進学組も多かった――から俺のところに連絡がきて、迎えに行くはめになった。保護者者じゃねぇっつうの!
救急搬送役を仰せつかり、苦労してアパートに連れ帰った。おかげで俺はいつも二次会に行けず……。
想い出はほろ苦く、ビールの味と似ている。
「七味、テンプラ! テンプラはどう?」
妙にテンションが高くなった。口からエビの尻尾がはみ出ている。
いかん、すでに酔いはじめている。
「ビールはそこまでにしておこうか……。寝室まで運ぶの大変なんだからな」
「えー? じゃ、後片付けもよろしくー」
一口ですこぶる上機嫌。アルコール耐性が無さすぎる。どんな民族的な遺伝子を引き継いでいやがるんだ。
ところで、天ぷらは最高に美味い。
まずはエビの天ぷらから。
口に運ぶとサクッとした歯触りが耳と歯に心地いい。そして口のなかに広がる、海老の風味とじゅわっとした海の旨味。
ほわっと鼻に抜ける海老の香りを楽しみながら、ビールを更にぐびりとやると、まさに至福。生きててよかったとさえ思える。
「うほぅ、最高だぜ」
「だねー、天ぷらにして正解だったわ」
妙にほっとしたようすの甘理。
……ん?
まてよ。天ぷらにして、という言い回しが引っ掛かる。
長年の腐れ縁、運命の赤い糸が絡まったが故に感じる、違和感。そういやエビがやけに小さい。一口サイズなのは家計の関係なのだろうか。
「エビ、小さいな……」
「いいじゃない、エビは海老だもん」
「そうだけどさ」
ビールを喉に流し込み、あらためて食卓の上を観察する。おかしな点はみあたらない。
天ぷらは旨いし、文句なし。
次に、箸でイカの天ぷらをつまむ。
口に運ぶとサクッとした食感に続いて、柔らかく肉厚、かつ濃厚なイカの風味が舌の上で踊る。
何よりも一口サイズで食べやすい。
一口サイズ?
ホタテはおかしな点は無いが、貝柱を薄く半分にスライスしてあるようだ。これも一口サイズ。
むむ?
最後にもうひとつ、謎の魚介の天ぷらを口へ。
長方形で厚さは五ミリほど。茶色い肉質の魚……だろうか? 食べてみるとかすかに鉄臭く、ほろほろと崩れる肉の感じ。どこか懐かしい魚の風味がした。
「あっ、これってツナ? マグロの天ぷら!?」
「正解ですー。どう?」
「どうって、マグロ天て珍しい……よな」
「でしょー、えへへ」
甘理はビールを飲み干した。瞳をとろんとさせて空になったグラスの底を通して俺を見る。
俺は気がついた。
エビ、イカ、ホタテ、マグロ。
天ぷらにする具材としては、明らかに違和感のあるものがひとつ交じっている。
マグロの切り身は、普通は刺身にするべきだ。というかこの魚介の組み合わせ。
完全に『刺身の盛り合わせ』じゃねぇか!?
しまった。
これは仕組まれた罠、偽装された天ぷらだ。
自称――舌先の探偵こと俺が、魚介天ぷらの謎を暴いてやる。
つまり、甘理は刺身であったはずの具材を、何らかの理由で天ぷらに調理し、食卓に並べた……ということだ。
「梅雨は……いやぁね。いろんなものがすぐに痛んじゃう。特売なんて買うんじゃなかったわ」
眠そうに、マグロの天ぷらを口にする甘理。
「……!」
痛む。食材が痛む?
ちくりとする胸の痛み。
つまり、特売で買った刺身の鮮度が落ち、痛み始めていたという自白に等しい。罪の告白、贖罪だ。
あっ? 俺、今うまいこと言った気がする。
食材と贖罪、胸の痛みと食材の痛み。
酔いが回ってきたのだろうか。頭もよく回る。
だが、せめて俺の疑念が真実か、それだけは確かめたい。
「でもさ、火を通せば、大抵は大丈夫だろ?」
「そうそう。へいきへいき。天ぷら便利っ!」
ほろよいを通り越した甘理はなんだか幸せそうだ。
やりとげた、してやったり、とでも言いたげに天ぷらをもうひとつ、頬張る。
「そうだな」
そうだとも、問題ない。
多少、賞味期限ギリギリで臭いが強くなったであろう刺身の盛り合わせでも、油で揚げれば問題ないのだ。
しくじりを認めない甘理なら、そう考えるだろう。
現に、天ぷらはとても旨い。
旨い肴とこだわりのビール。そこに抜け目の無い嫁、甘理の笑顔を添えて。
梅雨の静かな夜は、家での晩酌がいちばんいい。
<つづく>