想い出の『パウンドケーキ』
どこからか甘い香りが漂ってきた。
香りは時に、遠い記憶を呼び覚ます。
「――七味くん」
歌うように弾む声がした。
制服姿の甘理がひょいっと顔を覗き込んだ。
――これは夢……か。
中学2年のときだ。まだメガネっ娘だった甘理。子供の頃から見慣れた笑顔の、大切な友達。
部活を終え、二人で家路に向かういつもの道すがら。
空は夕焼け色で、家もまばらな田舎道。自転車が何台か、俺たちを追い抜いてゆく。
剣道部だった俺、吹奏楽部の甘理。帰り道は今日あった出来事や、ムカついたこと、たのしかったこと、何気ない会話を交わしながら帰ることがあった。ある日、二人で歩いていると甘理が思い出したように足を止めた。
「あ、そうそう。いいものがあるんだ」
「なになに?」
ごそごそとスクールバッグの奥底から取り出したのは、茶色い包みだった。英字新聞みたいな模様が印刷されたオシャレな包み紙だ。
「これ」
「えっ、なに?」
「腹ペコで死にそうな君に」
おどけながらぐいっと胸に押し付けれられたとき、甘い香りがした。
開いてみると、中は長方形のカステラみたいな焼き菓子――パウンドケーキだった。長さ十五センチ、縦横は七、八センチぐらいの。
「マジで? くれるの? たべていいの?」
「いいよ、むしろ食べてくれると嬉しい」
何がむしろなのかわからなかったけれど、空腹だった俺は思わぬ「ほどこし」が嬉しかった。
飢えた孤児のごとく夢中で貪り食った。
自動販売機と地蔵堂が並ぶ田舎道、水を張った田んぼには夕焼け色の空と黒い山並みが、逆さに映っている。
「んまっ、んまっ……んがっ」
「ルパン三世みたいな食べっぷりー」
けらけらと甘理が笑う。
だって素直に美味しい、と思った。
しっとりとした舌触りの生地、焦げた砂糖――カラメルの風味が、ほのかなバニラの香りとともに口いっぱい広がる。空腹だったせいもあるだろうが、こんな美味いものを彼女が作ったことに驚くほど、衝撃的なお菓子だった。
「んまっ、んまいっ、うまっ」
「良かった、美味しい?」
まるで飢えた獣だと、自分でも可笑しくなるほど夢中でパウンドケーキを食べた。
「最高。これ、甘理がつくったの?」
ほっとしたように、満足げにうなづく甘理。
横顔がオレンジ色に染まっている。
「まぁ、たまたま……なんとなく」
「さんきゅーな、美味かった」
本当は登下校中の買い食いは禁止だったと思う。でも、友達から貰うのは問題ないと勝手なマイルールだった。
甘い、カラメルとバニラの香り。
それはパウンドケーキの、想い出の香り。
その後も何度か、同じ味のパウンドケーキを貰ったことがあった。でもその頻度は減って、中学を卒業した後は食べさせてもらっていない。
懐かしい。この甘い香り……。パウンドケーキが食べたいな。
ぐぅ……とお腹が鳴った。
そこで俺は目がさめた。
「んが……?」
日曜の朝、寝坊していたらしい。
お腹がひどく空いていた。
晴れ渡った青空が心地良い。
台所にいくと朝食を終えた甘理が、何かを作っていた。
オーブンで焼いている。これは……カラメルとバニラの香り。甘い香りの正体はこれだったのか。
休日なのでスイーツでも作っているのだろう。
「おはよ、朝から何作ってるの?」
正夢か予知夢か、まさか、パウンドケーキかと、期待を込めて。
「おはよ。これね……プリンだよ」
「プリン?」
ちょっと拍子抜け。パウンドケーキじゃなかったのか。香りは似ているのに。
「プリンって焼くんだ? 冷やして作るんじゃなかったのか」
「それは売ってる『プリンの素』ね。本格的な手作りプリンは、作ったプリン液を容器に入れて、オーブンで150度。すこし熱を通すの。それから冷蔵庫で冷やすのだ」
エプロン姿に分厚いミトン。お料理教室みたいな調子で甘理が言う。
「冷やすだけかと思っていた」
そういえば甘理はプリンが大好物で、ケーキ屋さんのプリンや、喫茶店の拘りの手作りプリンを食べることが多かった。バニラの香りがするミルク風味のプリン、カラメルソースが最高に香ばしいもの。俺も付き合わされていろいろ食べたっけ。
「手作りプリンは意外と難しいのよ。『プリンの素』は小学生で卒業したの」
小学校?
ということは中学のころは既に「手作りプリン」に挑戦していた……という事になる。
ん? まてよ……。
「プリン作りの上手い奥さんなんて、なかなかいないわよー。さ、顔洗ってあさごはんたべちゃって」
「はいはい、そうだね、うん」
だが、俺ははっと息を飲んだ。
プリンは焦がしたカラメルソースが必需品で、バニラの香りはお好みで。それらは俺が食べた「想い出のパウンドケーキ」にも使われていた。
てっきり「そういうもの」だと思って食べていたパウンドケーキ。だけど、その後、市販のパウンドケーキを食べた俺は、シンプルすぎる味にがっかりした。
甘理の作ったやつのほうが美味しいじゃん! と誇らしくさえ思った。
ぐぅ……とまた腹が鳴った。
ブブブブ……チーン。
オーブンの音が俺の脳髄を揺さぶった。
ブドウ糖不足で回らない頭が、脳の歯車が音を立てて動き出す。
プリンが好きな甘理。
小学校の頃は『プリンの素』を使っていた。
それが中学になり手作りを始めた、というのは間違いない。
だけど、最初はきっと失敗したはずだ。
甘理が言った通り、プリン作りは難しいのだろうから。
なら、失敗したプリンはどうしたのだろう?
材料は卵黄とミルクと砂糖。
それは焼き菓子の材料そのままだ。そこに小麦粉、薄力粉、強力粉、何かはわからないが、混ぜて焼けば焼き菓子になるはずだ。例えば、パウンドケーキなどに。
「えっ、ということは」
失敗したプリンは、そのままパウンドケーキの材料になったのではないだろうか?
中学の頃、何故かもらえたパウンドケーキ。
餌付けのようにたまに貰えて嬉しかったあの味。
俺は足を止め、甘理のほうを振り返った。
彼女はオーブンからプリンの器を取り出したところだった。八個ほどの丸いカップが並んでいる。
「うん、成功。いい感じー」
満足気に微笑む。
成功したらプリンになる。
失敗した場合、パウンドケーキの材料だったことにして、俺に処分――食べさせればいい。
だとしたら、俺は失敗隠蔽の片棒を担がされていた……!?
プリンの失敗という「しくじり」をごまかし「最初からパウンドケーキを作るつもりだったの」という、完全犯罪だ。
証拠を消す役目を、共犯としての役割を、知らずしらずのうちに担っていたのか。
なんてことだ。
舌先探偵、一生の不覚。
しかし部活帰りの中学男子、腹ペコだった俺に、彼女の巧妙な罠を見破れと言う方が無理な話なのだ。
なんという狡猾さ。甘理、おそろしい嫁……!
だが全ては俺の脳内推理にすぎない。
しかし、確かめる方法はある。
「なぁ甘理」
「ん?」
「久しぶりにパウンドケーキ食べたい。ほら中学の頃、くれたやつ」
「……あっ、あっ? あ、あれね」
甘理はほんの少し動揺した。
パウンドケーキは比較的簡単なメニューのはず。
だが、もし失敗したプリンが材料に使われていたとしたら、答えは――
「意外と難しいんだよ。あれって材料、揃えないといけないし」
「いいよ、また気が向いたときに食べたいなぁと思ってさ」
「うん! そうだね、いいよ」
「俺にとって、想い出の味なんだ」
「七味クン……」
甘理の唇が優しく弧を描く。
プリン味のパウンドケーキ。
それは、俺と甘理だけの秘密の味。
共犯の二人だけが知っている、想い出の味なのだから。
<おしまい>