後編・チョコレート革命
「サエ……!!!」
大声で私を呼ぶ声が聞こえ、私は背後へと思い切り引き倒されていた。
「……痛ったあ」
その勢いで私は転び、したたか腰を打った。
「──────由弘……」
顔を上げると、同じマンションの同じ十二階に住む幼馴染みで、元バンド仲間の由弘が、同じく床へともんどりうっている。
「痛ってえ……!!」
由弘も腰をさすりながらも、私を見て言った。
「お前、今、飛び降りようとしてただろ!?!」
由弘に言われて、初めて、ハッと気付いた。
私……。
今……。
「何があったんだよ。ヒロと喧嘩でもしたのか?」
心配げに私を覗き込む彼の瞳は、真剣さを帯びている。
「フラレタわ。ついさっきね」
あっさりと答えると私は、風に靡く長い茶色の髪を鬱陶しそうに掻き上げた。
「あいつ……!」
由弘は一瞬、気色ばんだ。
「いいのよ。もう。浩人の心が私にないのは、本当は、私にだってわかってた」
死に損ないの強がりもいいところだと私は思ったけれど、そう言う以外どうしようもなかった。
それでも。
次第にぽたぽたと涙が溢れて落ちてゆく。
「うー……」
私は、小さな子供みたいに声を上げて、泣いた。
泣いても、泣いても、涙は尽きず、その内に鼻水と一緒になって顔はぐちゃぐちゃになっていく。
そんな私を由弘は、黙って、何も言わずに、ただ軽く背中に手を当てていてくれた。
***
それは、ゆっくりとした時間だった。
高層マンションの十二階の踊り場という静寂の中。
私の嗚咽だけが辺りに響いている。
そんな時間が三十分近くも流れただろうか。
時間の感覚は私にはなかったけれど、瑠璃色に染まっていた真冬の夕暮れは、気がつけば完全に闇夜へと変化していた。
「ほら、これで顔拭けよ」
私が落ち着いてきた頃合いを見て、由弘はジーパンの中から、くしゃくしゃの青いチェックのハンカチを出して私に手渡してくれた。
「ありがと……」
「素直だな」
「何ようー」
そんな会話を交わして、ようやく私達は、なんとか平静を取り戻していた。
「そろそろ帰ろうぜ。もう遅いし、晩飯の時間だろ」
「うん……」
そう言ったものの、まだ立ち上がれない。
「由弘……」
私は、呟いた。
「あのね。これ……一緒に食べてくれない?」
私は、恐る恐る、自分のお尻の重みで砕け散っているであろう例のチョコレートの包みを、彼の前に差し出した。
「何だよ、これ」
「チョコレート……ヴァレンタインの……」
そう言いながら、また涙が滲んでくる。
「ごめんね。浩人への本命チョコを、由弘への義理チョコに変えるなんて……」
私って、最低・最悪な女だ。
しかし、暫しそれを見つめた由弘がこう言ったのだ。
「これ……俺への本命チョコにしない?」
「え?」
私は、彼の顔をまじまじと見つめた。
「え、え…?」
「そういうことにしろよ」
由弘は、今までに見た中で一番優しい顔をしている。
「で、でも。割れちゃってるし……、第一……」
尚、戸惑う私に彼は語りかける。
「東京の調布に知る人ぞ知る、すっげー美味いチョコレートの専門店があるらしいんだ。そこは割れチョコを手秤で量って売るから、いつも長蛇の列なんだと。要するに、美味いもんは外見は関係ないし、時間をかけて手に入れる、て話」
由弘は更に畳みかけた。
「俺もようやく本命を手に入れる時が来た、て思って、良い?」
「由弘……」
わかんないよ、そんなの。
今まで、浩人しか見てなかったから、由弘の気持ちなんて考えたこともなかった。
なのに。
そんな私をずっと由弘は見守り続けてきてくれた、てこと……???
「食おうぜ」
踊り場の外壁を背に私の隣に座っている由弘が、がさごそと包み紙を開けた。
「おー、派手に割れてやがるな」
その大きなハートのチョコは、見事に真っ二つに割れ、破片が粉々に散っていた。
由弘が、大きい方の欠片を食べた。
私も黙って、小さい方を口にする。
「……苦い」
ぼそりと、私は呟いた。
普段、甘い物をあまり食べない浩人の嗜好に合わせて、甘くないビターチョコを作ったから当然だった。
けれど、こんなにほろ苦かったなんて……
また、涙が溢れて来る。
そんな私の頭を、由弘は軽くぽんぽんと叩くと、
「これ、食っちまって、あいつへの気持ち。早く精算できるといいな」
そう呟いて、バリバリと一気に残りのチョコを食べ尽くした。
チョコレート一枚食べたくらいで、この手酷い失恋の痛手がすぐに癒えるとは到底思えないけれど、由弘の言葉はじくじくと疼く私の胸に、まるで魔法の薬のように染み込んでゆく。
「チョコレート革命、起こせよ。なっ!」
思い切りよく立ち上がると、由弘は言った。
「何よ? チョコレート革命、て」
170㎝あるかないかの身長だけど、意外に端正な顔立ちの由弘を見上げながら問うと、
「お前がヒロを忘れて、俺を本気で好きになるくらい、革新的なこと」
ジーンズのポッケに両手を突っ込み、振り返りながらそう言って、由弘は笑った。
それは苦い苦い失恋とほのかな恋の始まりを予感させる十七歳の二月十四日のことだった。
了