中編・adieu
「おい。あれ……」
「あの娘……」
私を遠目に見ながら、ざわざわと黒の制服や、緑のタイのブレザーの学生達が通り過ぎてゆく。
私は、済陵高校の正門前に立っている。
午後四時二十分。
今日はクラブは休みだって言ってたし、七時限授業もないはずの日だから、そろそろ通っても良い頃なんだけど……。
ふうっと私は一つ、白い息を吐く。
真冬の夕暮れの冷気は、結構、女の細身には堪える。
それにしても、この視線!
鬱陶しい。
まあ、このネイビーの地に紅いシルクのスカーフのセーラー服が、さっきから目立っているのは自負しているけれど。
この制服は、県下一の名門女子高「久磨学園大付属女子高校」の伝統ある制服で、それを着ているのは誰あろうこの私。
スレンダーな肢体。長いさらさらの茶色の髪に、大きな茶色がかった深い瞳がチャームポイントの私は、いわゆる「ミス久磨女」と言われている。
「……あ、浩人!」
ようやく、私は探し人を見つけた。
小走りで彼の許に駆け寄る。
「冴枝……。お前、んなとこで何、やってんだよ」
「浩人を待ってたのよ」
満面の笑みの私。
だけど、浩人は、
「とにかく、行くぞ! お前が来ると目立つんだよ」
そう言うと、私の前をどんどん先に歩いて行く。
「ちょっと待ってよ! 浩人」
私は、そんなぶっきらぼうな彼の背中を追っていた。
***
「ロイヤルミルクティーのお客様?」
カウンターから若い主人が出て来て、声を掛ける。
軽く私が手を挙げると、彼はティーカップを私の前に置き、珈琲を浩人の前にそっと置いた。
「ごゆっくり」
のんびりと接客すると、マスターはまたカウンターへと戻っていった。
「学校、来んなよな。いつも言ってるだろ」
いつにも増して不機嫌そうな浩人に、
「そんな怒んないでよ。……だから、いつもの「ORANGE HOUSE」じゃないの?」
と、私は不思議そうに問うた。
浩人とカフェ・デートする時は大抵、一軒目はロック・カフェ「ORANGE HOUSE」というのが不文律なのだが、今日は違うのだ。
初めて訪れるその地下一階のカフェ「MONTBLANC」は薄暗く、客がほとんどいない。
席と席の間隔も間遠で、何だか秘密基地のようだ。
浩人は、暫く黙っていた。
沈黙には慣れている。
けれど。
今日は、違う──────
明らかに、私の女の直感がその事態を察していた。
「あ、あのね。これ。今日……浩人に……」
私は、小さな紙バッグを彼の前に差し出した。
「今日、ヴァレンタイン・デーでしょ。だから、浩人に……」
その中には、私がこの前の日曜に手作りしたハート型のチョコレートが、浩人の好きな翠色の紙で綺麗にラッピングされて入っている。
浩人は尚、黙っていたが、遂に口を開いた。
「お前さ……。もう、こういうの。やめろよ」
瞬間。
凍り付いた──────
「お前には今まで悪かった、て思ってる。殴られても何言われても仕方のない仕打ちばかり、したよな……。でも」
浩人は、珈琲を一口啜った。
「もうこういうの、終わりにしよう。お前だって、わかってんだろ。俺達に、愛はない。ましてや未来なんてないんだ」
わなわなと私の躰が震え始める。
「愛ならあるわ。私には。私には浩人への愛だけで一杯よ!」
思わず、ティーカップをテーブルに叩きつけそうになるほど、私は激昂していた。
それでも、浩人は黙っている。
こうなると持久戦になるのは、今までの経験上、嫌と言うほどわかっていた。
「……あの娘」
ふと、私は呟いた。
「あの、神崎とかいう女の子が原因なの? 彼女があなたの心を奪ったの?! 彼女なんて玲美と顔が同じってこと以外、何があるのよ!!」
「違う。そうじゃないんだ、冴枝」
「私を見て。お願いだから。玲美が逝ってこの二年半、あなたを見続けてきたのはこの私だわ。それを今更」
ヒステリックに叫ぶ私を浩人は冷静にいなす。
「冴枝には今まで本当に悪かった。全部、俺が悪いんだ……」
そう言うと、浩人は苦しそうに顔を歪めた。
ずるい……浩人……。
そんな顔しないで──────
浩人…………!!!
「……わかったわ」
私は低く呟いていた。
「どうあっても、今年のチョコレートは、受け取ってくれないのね……」
そう呟いた私に、浩人は深く頷いた。
「こういう時、フランス人なら、「adieu」て言うわね」
私は、静かに席を立った。
後ろは振り返らなかった。
***
自宅マンション十二階の踊り場で、私は夜風に吹かれている。
浩人に振られた。
たった一時間とちょっと前に……。
その実感は、一分一秒ごとに、私の胸をずたずたに切り裂いていく。
苦しい。
苦しい。
誰か助けて!
恋を失う時の痛みがこれほどとは、私は全くわかっていなかった。
まがりなりにも浩人とつきあっている時は、いつか、彼が私を見てくれるだろうと、どこかで甘い期待を抱いていた。
だって、浩人の腕の中はどこにいるより暖かかったから……。
彼の中に、一筋の愛を見いだそうとしていた。
でも。
ダメだった……。
もう。
いや、初めから、浩人の心は全く私にはなかった。
「はは……」
私は、手に持っているチョコレートの包みを見た。
何もかも私の一人芝居。
一人で踊って、足掻いていただけ。
私は、再び、階下に目を遣った。
地面のコンクリートが遠い。
でも。
この手すりを越えたら楽になれるかな。
私が死んだら、玲美の処にいけるかな。
玲美……。
浩人……。
その時──────