前編・不吉な予感
あれから。
どれほどの時間が経っていたのか、私にはわからなかった。
唯言えることは、今が完全に夜だということ。
部屋の中は真っ暗闇で、カーテンを開け放したままだった窓の外は夜目にも暗く、不気味な様相を呈している。
私は眠っていたんだろうか。
もしかしたら、気を失っていたのかも知れない。
体が重い。ある種の鈍痛を覚えている。
私は恐る恐る、ベッドから身を起こした。
「浩人……」
夏用の薄いダブルガーゼのブランケットを胸まで手繰り寄せながら、私は、隣で背を向けたまま眠っている彼の名を呟いていた。
「……ん。玲美……」
「!」
その時、そっと彼の肩にブランケットをかけようとした私の手を握りながら、浩人は寝返りを打った。
「──────冴枝……」
浩人は目を醒ました。
手の力が弱まる。目を逸らす。
そして、私が沈黙を破る。
「そうよ。冴枝よ。玲美じゃないわ。あなたは私を抱いたのよ」
責任を取れなどと言うつもりはなかった。
なされるがままにしていたのは、この私。
私は自ら進んで浩人に身を任せたのだから。
浩人は何も答えない。
私にそれ以上触れる気もないらしい。
けれど、私は浩人の心が欲しかった。
浩人の腕枕で眠ってみたい。
「行かないでっ! 浩人……!」
私を傍らに残したまま起き上がろうとした彼に向かって、私はそう叫んでいた。
「行かないで……私を見て。私がいるわ。私を……」
身代わりでいい。
遊ばれてメチャメチャにされてもいいと、納得ずくであった筈なのに、肌を合わせたことで私は、やはりワガママになっていた。
「好きなの。ずっと、ずっと、好きだったわ。愛してるのよ。私には、浩人しか……」
私に背を向けたまま動かずにいる彼の背中に、私は顔を埋めている。
これまで抑えに抑えていた想いが、堰を切ったかのように溢れ出してゆく。
報われなかった恋。
玲美の幸福の陰で、私は密かにどれほど泣いてきたことか。
私は遂に玲美を裏切ってしまったのかも知れない。
けれど、玲美はもういない──────
「服、着ろよ。もう遅い。早く帰れ」
しかし、初めてまともに聞いた浩人の言葉は、ゾッとするほど冷たかった。
彼はもう一度横になると、やはり私には背を向けたまま、煙草に手を伸ばした。
暗闇の中、ぼんやりと白煙が漂う。
私はどうしていいかわからなかった。
抱かれた男の部屋から一人追い出される……。
そんな惨めなシチュエーションが、私の動きを鈍くする。
しかし、何もかもが無駄だということを、私は悟った。
手探りで服を探し、身につける。
二人きりの空間で自分だけ服を着ることがこんなにも恥ずかしいなんて……。
「浩人」
来た時と同じセーラー服姿に戻ると、私は言った。
「帰るから……。だから、キスして」
浩人は、黙ったまま私に、触れた。
浩人の口づけは、深い。
深くてそして、煙草の味がした。
そのまま彼の胸の中に崩れこんだ私を、彼はただ黙って抱いていてくれる。
わかっているのに。
浩人の心は玲美が全てだってこと。
よくわかっているのに。
それでも私は、ほんのひとかけらでも浩人の優しさを愛だと信じたがっている。
「浩人…浩人……!」
私は、彼の胸の中でいつしか、しゃくり上げ始めていた。
愛してる あいしてる アイシテル……。
私には浩人が全て──────
***
「ねえ、浩人」
あの夏から二年の時が過ぎたある秋の夕暮れ。
彼の部屋の中で、彼の肩にもたれかかったまま、私は問うた。
「あの娘。クラスメートの……何ていうの。名前」
「神崎……神崎純子」
浩人は無表情のまま。
「玲美のこと、知ってるの?」
「いや……あいつは何も知らない」
「でしょうね。「身代わり」だなんてわかってたら、彼女だって……」
私の言葉は浩人を追い詰める。
追い詰められれば、浩人は心を閉ざすだけ。
わかっていながら、私はそれしか術を知らない。
神崎……純子──────
私は、彼女のことをありったけ思い出す。
一目見たあの時、一瞬、息を飲んだ。
未だに私は忘れられない。
確かに。
髪は玲美より長かったけれど確かに、彼女は玲美と同じ顔だった。
顎から耳にかけてのシャープな輪郭。
意志の強さを秘めた口許。
何よりその瞳。
何の疑いもなく、まっすぐ前だけを見つめるその瞳。
何もかもが玲美の生き写しだった。
彼女は泣いていた。
躊躇いもなく、浩人の胸に縋って。
私にはそれが許せない。
玲美ですら、そんなことはしなかったのに。
浩人がちょくちょく浮き名を流している時ですら、玲美は微笑っていた。
それは心から愛し合い、崩されることのない絆。
泣いていいのは──────
浩人の胸の中で泣いていいのは、この私だけ。
誰が何と言おうと。
その権利を、文字通り、身を張って得たのは私だけ。
それなのに。
今頃になって、横取りするかのように私の前に現れた彼女。
彼女だけはどうしても許せない。
玲美と顔が似ているというだけで、浩人の心をわずかでも捉えたなど、我慢出来るわけがない。
けれど。
今、一抹の不吉な予感を禁じ得ない自分がいる。
イカロスの翼さえ持たなかった玲美が、自らするりと浩人の腕の中から零れ落ちてしまったように。
いつか、玲美のように彼女はごく自然にあっさりと、浩人の胸の中に入りこみ、本当に浩人の心を掴んでしまうのではないか……。
そして──────