最終話
「ねえ、もう一回学生証見せてもらえない?」
並んで階段をおりながら、ふと思い立って猛は言った。なにもかも全てがまるで夢の中の出来事みたいで、なにか証拠のようなものが欲しかったのかもしれない。
「やだよ、めんどくさい」
即答した彩華はにやにやしながら猛の顔を覗き込んできた。
「ちょ…足許気を付けてよ」
「何を疑ってんの? 学生証なんか見ないでもこの制服が本物なの見たらわかるでしょうに」
「でも魔女ならそんなのなんとかなるんじゃないの?」
「魔法で?そりゃ魔女ならなんとかなるのかもだけど、アタシはまだ見習いだから無理だよー」
「……仮にその制服が本物だとしても、それが本当にサイカのものかどうかわかんないじゃんか」
なおも言い募ると、彩華は呆れたような溜め息をついて足を止めた。
「もー、疑り深いなー猛は」
ふんと鼻を鳴らして、彩華は制服の袖を捲り返す。
「ほら見てみ」
そこにはネームタグがあって、彩華の本名がしっかりと刺繍されていた。
「納得したかな、未来の後輩君?」
それでは、入試にパス出来れば本当に彩華の後輩になることができるのだ。
「言っとくけど」
腰に手を当ててふんぞり返り、彩華は目を細めて猛を睨んで見せた。
「合格したらもうサイカなんて呼ばせてあげないからね。ちゃんと先輩って呼ぶんだよ」
「うん」
「ふふっ」
柔らかな笑みを浮かべた彩華と猛の視線がほんの一瞬絡んだ。
けれど再び歩きだした彩華の視線はすぐに前を向いてしまい、猛はまた彼女の整った横顔を見つめることになる。
今日の出来事を、猛はずっと忘れないだろう。
彩華の眼差しに満ちた慈愛が、ほんの僅かばかりでも猛に注がれたことを。
それは確かに、猛の空虚を充たしたのだ。
……それによって何処かでより強くなった飢えがあることには気付かないふりで、猛はそっと隣にいる少女の名前を呼んだ。
「んー?」
緊張感のない声で返ってくる返事も、後輩になってしまえばもう得られないものなのだろうか。
「あんまり先輩って感じしないんだよな……」
「だから聞こえてるっての。そんな生意気は合格してから仰い」
「絶対受かる」
「言ったね?」
そんな事を言い合っていたら、あんなに長かった階段がもう終わりに来ていた。
「じゃあね」
最後の段に立ち止まって、彩華が言う。
ここで別れることは、階段を下り出した最初から決めてあった。
「うん」
猛は酷く情けない気持ちで頷いた。
こんなことしか言えないなんて。
でも、それでもいい。
これで最後にはしないから、いい。
「じゃあ……」
ひらひらと手を振って見せた彩華に、猛は笑って背を向けた。
振り返りたくなるのを堪えながら、住宅街の中を進んでいく。
「絶対受かれよ!」
可愛らしい声が不意に力強く響いて、思わず振り返ってしまったけれど、もうそこに少女の姿はなかった。