第6話
羨ましい。
名前も知らないそのこどもが妬ましくてたまらない。
突然泣き出した猛に、彩華は驚いた顔をしたものの何も言わずに背中を撫でてくれた。
繰り返しさすってもらっているうちに、彩華のてのひらの温もりを感じられるようになって、猛は酷く安心した。
それで今までずっと誰にも言えないでいた事が、拙い言葉ながら猛の口からほろほろとこぼれ落ちた。
受験への重圧。
母が猛に気を遣うことによって生じる、密やかな緊張感。
それを苦に家から逃げる自分自身。
そのどれもが、言葉にしてしまえば笑えるくらいに些細なことで、猛は一層情けなくなった。
こんなの、悩みとすら呼べない。
頷きながら根気よく話を聞いてくれた彩華は、手品のようにポケットティッシュを取り出しながらそっと言った。
「だからあんなお願いをしたんだ?」
こくり、と猛は首を振るだけでその問いかけに応える。
「お願い、叶えてあげられなくてごめんね」
「なんで……」
サイカが謝るのかと、咎める言葉は震えて声にはならなかった。
「だってさ、無理だよ。猛はこんなに優しいのに。『悪い子』なんて似合わないでしょー?」
背中を撫でていた手でクシャクシャと猛の髪を掻きまぜて、彩華はすこし困ったように笑う。
似合わないってなんだよ。
こども扱いされて悔しい気持ちと、同時にどこかくすぐったいような気持ちが混ざり合って胸がざわざわした。
━━僕は悪い子になりたい。
それが、昨日猛が口にしたお願いだった。
似合わないと願いを砕く彩華の眼差しはけれど優しくて、泣き濡れた顔で猛は微かに笑う。
確かに、彩華の言うとおりなのだ。
彩華と一緒に遊ぶのは楽しかった。
それは絶対に嘘じゃない。
でも、楽しいと感じると同時になにか許されないことをしているような罪悪感に苛まれてもいたのだ。
今も、ずっと。
「猛はきっとお母さんに似たんだね。アタシは猛のお母さんの事を知らないから、これはただの想像だけど」
首を思い切り上に向けて、彩華は一言ひとことを確かめるように言った。
白く宙に凝った吐息が風に流されて消えるのをじっと見守りながら、猛は彩華がゆっくりと紡ぎ出す言葉を待つ。
「猛のお母さんも、猛が頑張ってる時に自分が何かを楽しむのは悪いな……って、思ってるんじゃないかな」
遠く星の瞬きだした空を見つめて彩華が言葉にしたその想像は、何故だか抵抗なく猛の胸に滑り込んで呼吸を楽にした。
まるで魔法みたいに。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
猛も彩華も本人ではないから、想像を語ることしか出来ない。
でも、そうだといいなと猛は思った。
そして、そう思うのはそれが、他の誰でもない彩華の言葉だからなのだろう。
魔女見習いというのは伊達じゃないのだ。
「でもそれってちょっと……」
彩華は考える素振りで小さく首を傾げた。
慎重に言葉を選んで、ゆっくりと口を開く。
「……寂しいね」
言葉もなく頷いて、猛は彩華がくれたティッシュで鼻をかんだ。
ひひひ、と可愛い顔に似合わない魔女みたいな声でそれを笑って、彩華は不意に猛の耳許に顔を近付ける。
「せめていっこだけ我が儘きいてあげるよ。なにがいい?」
この人は。
どれだけ僕を甘やかすつもりなんだろう。
……でももし、許されるのならば。
「あと少し……」
ありったけの勇気を使って、猛はなんとか声を絞り出した。
「もう少しだけ、離れないで欲しい……」