9.少年の葛藤と決断
「ただ……祖先が子孫にどうとか……
その下りは、助かりたいが為の、戯れ言にしか思えないわね。」
粉雪は、ジャケットの内側から、フサフサとした毛の付いた扇子を出すと、自らを仰いだ。
「なッ……!
お前、『ドグラ・マグラ』は、読んでいないのか!?」
「読んだわよ、『ドグラ・マグラ』。
……何も、感じなかったわ。」
「…………。」
「私の感受性が、追い付いていないのかしら……?
それよりあなた、小町の顔の件、解決していないんじゃない?」
「あれはッ……
……あんたが、明智小五郎の子孫だって知って……。
……俺の完全犯罪を暴いたのは、明智小五郎なんだ。
だから、悔しくて……つい、カーッと、熱くなって……。」
「……私、『心理試験』も読んだけれどね。
屏風に描かれていたのは、六歌仙では無かったわよ。」
「え、ええッ!?」
蕗屋は驚いた。
「そもそも、人物の絵では、無かったわ。
……花の絵よ。」
……こうなっては、『本で読んだから』という言い訳が使えない。
小町の顔の傷を知る者は、警察や粉雪を除くと、蕗屋清一郎と、今回の事件の犯人だけになるわけだ。
(勿論、清一郎が犯人かもしれない。
心理遺伝の下りは、清四郎の戯れ言かもしれない。)
蕗屋は俯き、呪詛の言葉を吐くように、
「……乱歩の奴……遺族を気遣って……改変しやがったな……!
畜生、こんな事なら、意地を張らずに、俺も読めば良かった……!」
と言った。
「……粉雪さん。
私が蕗屋を、連れて行きます。」
笠森は、斎藤をパイプ椅子に座らせると、蕗屋に近寄った。
蕗屋は、顔をバッと上げた。
「まッ、待てッ!!
話せば……話せばわかっ」
バチンッ!!
と、扇子を閉じる音がした。
「暴かれた犯人の、保身の為の戯れ言って、どうしてこう、無駄に長いのかしら。
推理も中華も、スピードが命なの。
私は、次の事件に向かうわ。」
粉雪は、ブーツの踵をカツカツと鳴らしながら、ドアへと向かった。
晃の心臓が、ドクンと大きく波打った。
――このまま、この事件を終わらせて、良いのだろうか。
血がフツフツと、沸き上がるような感覚がした。
「ああっ、待って下さい!
粉雪さん。」
支倉が、粉雪を呼び止めた。
「何でしょう。
手短にお願いします。」
「私と、そこに居る、四海堂出版の社長も、貴方に同行してはいけないでしょうか?」
「あら……私に何か用事?」
「ほら、坊ちゃん!
粉雪さんに、お願いするんですッ。」
……このまま、支倉に従えば、四海堂出版社は、倒産の危機を免れるだろう。
今回の事件で、粉雪の評判は更に高まり、それを晃が独占取材したとあれば、きっと群集はこぞって買うからだ。
――でもそれじゃ、今までと同じじゃないか。
大人の背中に、支倉の背中に、ただついて行っていた自分と、変わらない。
――法水晃とは、いったい何者なのか。
晃は、自問自答した。
常に誰かに、手を引かれているのであれば……そこに晃自身の意思は、存在するのだろうか。
自分は、何が好きで……何が嫌いで……
何を貫きたいのか。
「俺は……ッ。
俺は、やってない……ッ!」
耳に飛び込んできた、蕗屋の悲痛な叫びが、晃を決断させた。
「粉雪さん。」
粉雪は、可愛らしい顔で、晃に微笑んでいる。
「この事件、再調査するわけにはいきませんか。」
場の空気が、一瞬にして凍った。
粉雪の笑みが消えた。
彼女の顔は紅潮し、片方の頬がひきつり、こめかみの辺りがピクピク震えている。
「……あ、あら、ごめんなさい?
きっと今、恐い顔をしているわよね? 私……。
は、初めてだったもんですから……私の推理に、申し立てをする方は……。」
「坊ちゃん、何をッ……!?」
晃は、ハッと我に返った。
自分は、怖ろしい事を、仕出かしたのだ……。
折角、支倉がここまで、お膳立てしてくれたのに……自分がそれを、壊してしまった。
この行動が、四海堂出版社の倒産を、早めたのなら……晃は従業員たちに、どう顔向けしたら良いのだろう。
出版社が潰れた後、中卒扱いの自分は、どう生きていったら良いのだろう。
支倉と一緒に暮らし、家事をするのか……
しかし晃には、そのような能力は無い。第一、支倉は将来、自分の家庭を持つかもしれないのだ……。
家事について考えた時、晃の脳裏に、法水家に居る使用人……ばあやの顔が浮かんだ。
家に帰るといつも、温かい料理を用意してくれていたばあや。
小学校から、暗い気持ちで帰って来た時、黙って頭を撫でてくれたばあや。
自分がこうしている今も、きっとばあやは、洗濯物を干したりしているのだろう。
出版社の収入が無くなった後、ばあやはどうするのだろう……。
そう考えた時、晃の目頭が熱くなった。
「すみません、粉雪さん。
出過ぎた事を……。」
晃の視界の端に、自分に無言で懇願する、蕗屋の姿が見えた。
可哀想に……今この場に、蕗屋の味方は居ない。
晃は、蕗屋の不幸の上に、出版社の安定を作ろうとしている。
その事に気が付いた時、晃の頬が、カアッと熱くなった。
……心臓の鼓動が速い。
気付けば生え際から、ダラダラと汗が流れている。
出版社の従業員、支倉、ばあやを選ぶか……。
蕗屋を選ぶか……。
激しい板挟みに苛まれた晃は、俯いて、目をギュッと瞑った。
「……俺からもお願いします。
粉雪さん。」
晃には、聞き馴染みがある声だった。
晃は、目を開けて、顔を上げた。
支倉が、粉雪に向かって、頭を下げていた。
「は、支倉くん……。」
晃の目頭が、また熱くなった。
粉雪は、怒りで耳まで赤くなっていた。
「は、は、はあああッ!?
あんたら、私の推理にケチつける為に、来たわけじゃ無いでしょうねッ!?」
粉雪は、八重歯が剥き出しになるほど、口を開いて、目もカッと開いて、晃と支倉に怒鳴った。
物静かな美少女の仮面が、音を立てて崩れた。
粉雪は元来、激しい気性を持った少女なのだ。
「それは違います!」
上半身を起こした支倉は、キッパリと否定した。
「俺たちは、粉雪さんと顔を合わせたくて、将来的な繋がりを作りたくて、ここに来たんです。」
「将来的な、繋がり、ですって……?」
「俺たちは、四海堂出版社の者です。
粉雪さんに関する出版物を、うちでも出せるように……。」
「四海堂出版……四海堂出版……。」
粉雪はブツブツと、その社名を呟いた。
「ああ……最近、社長が替わったとか言う。」
「そうです。」
支倉が答えた。
「ええと、社長の名前は……。」
考え込む粉雪に、笠森が答えた。
「法水晃さんです!
あの名探偵……もとい迷探偵、法水麟太郎の、子孫なんですよ!
そして、その前に居る、背が高いのが、支倉心……
支倉肝の子孫です!」
「なにッ、子孫……!?」
いち早く反応したのは、麟太郎シリーズの愛読者である、蕗屋だった。
粉雪の顔には、何故か切なげな、静かな困惑の表情が浮かんでいた。
「笠森さん……それは……本当なの?
証拠は……。」
「ははは、粉雪さんは、証拠がお好きですな!
頼まれれば、何時でもお見せしますよ。」
「……別に、見たくありませんッ!」
粉雪は、扇子で顔を覆った。
「……私は、再調査する気は、ありません!
貴方たちが、調査されたらッ!?」
自分たちが、調査をする……!?
予想していなかった返答に、晃は戸惑った。
粉雪は、扇子を下ろした。
「法水晃。
あなた、法水麟太郎……黒死館殺人事件の……彼の子孫なんでしょう?
なら、こんな小さな事件を解決するくらい、何て事無いわよね。」
「えっ、いや、僕は推理なんて……!」
晃は、推理小説を読んだ事はあった。
ただ彼の場合、素直に読み進めるだけで、自分も一緒に推理した事は、一度も無かった。
「ふふふ……蕗屋さんを、見捨てるって言うのかしら。」
「そっ、それは……!」
「嫌なら、頑張りなさいな。」
粉雪は、自分の体を、ドアの方へクルリと向けた。
「笠森さん。
とりあえず、蕗屋さんと斎藤さんを、留置場へ入れておいて下さい。
そして、1週間経ったら、斎藤さんを解放して……
蕗屋さんは、裁判所へと送って下さい。
……裁判にかけられたら、あなた、間違いなく刑務所行きよ。」
粉雪は、テーブルに置かれた資料の束を見やった。
蕗屋は、背中をブルッと震わせた。
「法水晃。
貴方が呼んだら、ここに来てあげる。
ただし、チャンスは1度だけ。
もし、蕗屋さんが犯人だという結論に至ったなら……
貴方の推理が、外れたなら……
私は、四海堂出版社とも、貴方とも、一切関わらない事を、ここに宣言するわ。」
粉雪の目つきが、一層鋭くなった。
「これは、決闘よ……。
名探偵の子孫と……
私との。」
粉雪はそう言い残すと、尋問室から颯爽と去って行った。
*お読み頂き、ありがとうございます。
*原作
『黒死館殺人事件』著・小栗虫太郎
『二十世紀鉄仮面』著・小栗虫太郎
『ドグラ・マグラ』 著・夢野久作
『心理試験』 著・江戸川乱歩
*絵は自分で描いています。