1.名探偵の名を冠する少女
――夜の神戸。
南京町の裏通り、細い道を、一人の細い男が走っていた。
その男の目は異常に血走っており、時折後ろを振り返っている。
……誰かに追われているのだ。
「追えっ!! 逃がすんじゃあないぞッ!!」
追っているのは警察だ。
逃げている細い男は、3日前、民家に忍び込んだ、こそ泥だった。
細い男は走った。
中華料理屋の裏の換気口から、生臭さを伴った、ムオンとした暖かい空気が漂ってくる。
男はその臭いに、やや顔をしかめつつ、頭を瞬時に働かせた。
そして、店の裏にあったゴミ箱を、脚で蹴飛ばした。
ゴミ箱は、ガコンと音を立てて、倒れた。
蓋が外れ、食べ残しや野菜の屑が、冷たいコンクリートにぶちまかれた。
――なるほど。
この男は、追って来る警察を足止めする為に、こんな真似をしてみせたのだ。
……しかしこんな事をしては、自分がこの道を通ったのだと、警察に知らせてしまうのではないか?
この細い男は、追い詰められている為に、そこまで気が回らなかったのだろうか……。
否。
そもそもこの男は……[逃げる道がバレたところで、何も問題が無かった]のだ。
男は、自分の行く先に、[目当ての物]があるのを、目で確認した。
それは、[秘密の出入り口]だ。
誰にでも見える……しかし、誰にも気付かれない入り口。
そこに入ってしまえさえすれば、後はそこから続く通路を走って、隠れ家へと逃げてしまえば良い。
追って来た警察からすれば、男がフッと道の真ん中で、姿を消したように映るだろう。
倒されたゴミ箱と、散在している食べ残しが、彼らの頭を悩ませる材料となるだろう。
――果たして、[秘密の出入り口]とは、何なのか……。
男はしゃがみこむと、手で蓋を押した。
蓋はクルリと、90度回転した。
男は、蓋と縁の間にある隙間に、脚を突っ込もうとした。
「…あははははっ!」
女の子の、可愛らしい笑い声だった。
その声は、隙間の奥から聞こえてきた。
笑い声は、隙間の中で反響し、外へと漏れている。
夜の街で、ワンワンと響く少女の笑い声は、いささか不気味だった。
男はギョッとして、隙間に入れようとしていた脚を、蓋からサッと離した。
そのまま逃げようとしたが……脚に何か、固い物が巻き付いた。
店から漏れた、淡い光で、男はその正体をみとめる事が出来た。
――鎖だ。
鎖が、男が入ろうとした隙間から、男の脚へと、伸びている。
男の脚に巻き付いた鎖の端には、中身が詰まった、リレーのバトンのような物体がくっついている。
これは、ヌンチャクだろうか……。
男は、よく回らない頭で、ボンヤリとそんな事を考えた。
「うふふ……お馬鹿さあん。」
まるで、子供をあやす母親のような言い方だった。
声自体が持つ、甘さや可愛らしさも相まって、男は脳みそが、柔らかくなっていく感じがした。
カン、カン、カンと、こちらに上って来る足音がする。
「隠し通路に、[マンホール]を使おうとしたのね。
なるほど。良い選択だとは思うわ。」
やがて、甘い声の主は、梯子を上りきり、コンクリートに足を付けた。
丁度その時、月に掛かっていた雲の位置がずれたので、声の主の姿を、男はハッキリと見る事が出来た。
声の主は、男が声から想像したように……やはり、少女だった。
十代前半だと思われる、少し幼い、けれど幼すぎない少女だ。
少女が纏っている、黒い衣装は、中華と西洋が混ざったデザインで、華やかな外見だった。
ブラウスや膝丈スカートには、白いフリルがあしらわれ、胸元のリボンには、宝石が付いたブローチが留めてある。
ジャケットのような上着は、白い襟が大きく開き、そこにもブローチがある。
袖はブカッとしていて、手首付近で折り返されている。
衣装が大きいのでは無く、元々のデザインなのだ。
頭に被った帽子は、宝石と鳥の羽で飾り付けられている。
暗い茶色のツインテールは、強い癖っ毛の為に、ゆるゆるとウェーブが掛かっている。
癖っ毛だと知らない人が見れば、手間暇を掛けて、髪をセットしたのだと思うだろう。
……このような少女の風貌は、外国帰りのお金持ちを、男に連想させた。
彼女の小さな、桃色の唇が開かれた。
「でもね……私には通用しないわ。
[明智]の名を冠している、私にはね……。」
それを聞いた男は、ハッとして、地面に尻餅をついた。
さっきまでの甘い微睡みは消え、忘れていた夜風の冷たさを感じた。
「知ってる……知ってるぞ。
俺達の、丁度真横にある、この店の……テレビで見た。
名探偵・明智小五郎の血を引く、少女探偵……
明智 粉雪……!!」
黒い衣装を着た少女……明智粉雪は、男の声に答えるように、静かな笑みを浮かべた。
そして再び、口を開いた。
「今時、蓋が回るマンホールなんて、無いわよ。
だから、この細工に私が気付いた時点で、貴方の逃走経路はバレバレ。」
粉雪の手元で、金属が触れ合う音がした。
ヌンチャクの手で持つ部分の、片方を、粉雪が持っていたのだ。
「……逃げられないから。」
粉雪は、氷のような冷徹さをもって、男に言い放った。
*お読み頂き、ありがとうございます。
*原作
『黒死館殺人事件』著・小栗虫太郎
『ドグラ・マグラ』 著・夢野久作
『心理試験』 著・江戸川乱歩
*絵は自分で描いています。