姫と大梟
赤い星の国と青い星の国との間には、ゆったりと、それでいて割れた硝子のように尖った山がそびえたっておりました。大きな山は大きく、どちらの国からでもいつも見ることができます。空を無尽に駆け回る鳥さえ、山の向こうの景色を知らず地に落ちてゆきます。
山を最も美しく見られるのは、赤い星のお城でした。ちょうど富士山の表裏のように、みなそれぞれ一家言あるのでございましょうが、愛着を除いて考えたならばやはり赤い星の国側から見るほうが美しいに違いありません。
なんといっても雪のころには山を白く染めますし、暖かくなれば雪はぱっと溶け見苦しく残ることもありません。しかし、かつてはどちらがまこと美しいかしばしば言い合いが起こり、温厚な二国の唯一譲れぬところだったと申します。実際皆さま知っての通り、赤青の表山ということわざもこのことが理由で言われ始めたものであります。
今もお城の部屋のひとつから、赤い星の姫、名前をリューリエといいますが、彼女がまっすぐに山を見つめておりました。山は雪のすべて溶け切ったころ、こちらからは光に黒い肌を見せる山肌がよく見えます。冴え渡った光は、山に続く道を歩く人影さえ照らしています。雪解け水の下るふもとには豊かな森が広がり、彼らもそこへ行くのでしょう。今はぶどうの終わる頃でしょうか……、しかし姫の頭に瑞々しいその好物のことはちっともありませんでした。
姫は、赤みの紫をした髪が艶やかに波打つかわいらしい少女です。姫は、頬杖をついて物憂げに溜息をひとつ。下で花の世話をしていた庭師の少年が、悪くなってきた視力をうんと集めて思わずその息の中に星を探します。
ため息の理由は、庭師さえ、町の路地を駆け抜ける痩せた子供でさえ知っておりました。リューリエ姫は青い星の国、山の向こうに許婚があるのです。ほんの小さなころに決まった関係で、昔は、あの険しい山を越え越えられ幾度も顔を合わせて遊んだものでした。しかし、それも七、八年前に途切れることとなりました。なぜかといえば、ほんとうにおそろしいことに、山を越える唯一の道に人食いの大きな化け梟が居座るようになったからです。
姫は十を迎える前に青い星の国へ移り住むことになっていましたのに、姫を末尾に置いた長々しい輿入れ行列の先頭が山の半ばに差し掛かったころのこと、例の大梟が現れたのでした。
化け梟は鋭い鉤爪と広い視野、毒の羽を持つそうで、あの視界の広い丸い目がぐるりすべてを見回し、行列の頭はいくらも帰路に辿りつけません。姫らは遠くにその姿を見て急いで逃げ帰りました。その後、姫の輿入れはもちろん、山向こうに商売に行くにも難儀することとなります。青い星の国に家族が居るものだっております。
赤い星の国は、すぐに大梟を殺してしまおうとしました。ですけれど、多勢に無勢と余裕を湛えて大勢で挑んでも無残に散らされ、また、それは青い星の国でも同様でありました。
殺さないままに梟の側を抜けるのはひどく難しいもので、いくら身を潜めても、この後に山を越えられたのは十人も居たかわかりません。大梟はけして山を下りないのですから、国もとうとう山を越える道を諦めました。親しい青い星の国との別れはつらいものですが、倒せないもののためにいつまでも戦っていてはあわれな魂が増えてゆくだけでしょう。
けれど、婚約をなくすには話し合いをしなければならない決まりがございます。国が縁を絶ったその自然でゆるやかな別れと異なり、こちらは世界のみなで決めた終わり方があるのです。そのため今も姫は青い星の国の王子の許嫁のまま、あわれにも、もう王子の顔をうまく思い出せません。王子を思い出そうとすると、あの黒くて大きな翼の影が浮かぶのです。指の触れただけで頬を染めた日は今や風切り羽の向こう、あるのかどうか朧げに霞みます。それでも姫は名残惜しげに記憶を辿り、漆黒の翼を胸に残すのでありました。
それから、そろそろ姫の新たな婚約者を決めなくてはと言う者も現れたころのことです。青い星の国だって、きっともう新たな許婚を決めてしまっていることでしょう。いいえ、やもすれば、すでに結婚してしまっているかもしれません。待っていてはくれていないかもしれません。かの国では十二の歳から結婚できるのです。だったら、姫がしてしまってなにが悪いでしょう? 確かめられない約束なんて、ないと同じなのです。
くるりとかつて王子に頂いたきれいな青色のストールで身を包み、姫はやっぱり山を見ておりました。
そんな姫を部屋の口から立って見ていたものがあります。テオフィードという、静かな鳶の髪をした赤い星の騎士です。
騎士はむかしから姫の側に立ち、またやんごとない身分の方でもありますから、新しい婚約をするとなればきっと彼に決まるはずです。しかし、テオフィードはそれをあまりうれしく思ってはおりませんでした。
テオフィードは姫のことが好きです。昔から、ずっと大好きでした。ならば喜んでしかるべきではありますが、大好きだからこそ知っているのです。姫はむかしから、なにか辛い、悲しい、我慢しなくてはいけないことのあるとき、布に包まるくせのあることを。毛布、カーテン、騎士のマントに潜り込んだことだってあります。大きくなるとその癖もほとんどなくなりましたが、無意識に、大きな布に包まれるようなドレスを選ぶようになりました。
いま姫が大きなストールに包まれているのも、まさにそのひとつでしょう。
テオフィードにはわかっていました。わかってしまいました。姫はあの山に心を向け、愛おしいかの方にすべての思いを捧げているのです。騎士は思います、姫はしあわせになるべきだと。姫がしあわせになるには、想う王子と結婚するべきなのだと。
ならばどうしたらいいのでしょう? 何が邪魔をしているでしょう?
テオフィードの脳裏に浮かぶのは、あの黒い羽、嘴、ぎょろり動くめだま、鋭い鈎爪、おぞましき大梟です。
大梟さえ居なければ。同じことをいったい何人が思ったでしょう、けれど、彼の気持ちはそれまですべての者の気持ちを合わせたよりきっと強いものでした。騎士は決断いたしました、己が姫を幸せにしてさしあげよう。
己が、あの大梟を打ち取ろう。
静かな決意を胸に抱いて、テオフィードはリューリエを見つめました。誰も成しえなかった偉業です。うまくいけば英雄にもなれる、その功績はたったひとり愛する姫に捧げるものでありました。騎士は騎士であって王子ではないのです。たとえ己が鉤爪に引き裂かれようと、たとえ命を落とそうと、彼は姫の幸せだけを望むのです。
その夢は、誰に知らせるつもりもなくテオフィードの心を固めました。彼がわずかな仲間だけを連れて城を去ったのは、それからすぐのことです。
その後の彼の冒険──大梟の弱点を知るべく西果ての賢者を訪ねただとか、大梟の嫌うという砂漠の蛇の鱗を探しただとか、どのような毒もたちどころに消す天樹の実を大鼠から手に入れただとか──そういったことはきっと、他の詳しい者が語るでしょう。ここではただ様々な冒険を驚くべき短い期間で遂げたのだ、と言うに留めます。我々が語りうるのはリューリエ姫様のことだけなのであります。
姫様は、テオフィードが遂げた冒険の成果と逞しい仲間たちと供に硝子のような山に挑むのを、そうとは知らず眺めておりました。だってうんと遠いのですから、人影は拾えても見分けなんてつきません。彼女は以前と同じに、じっと山を見つめ、記憶をなぞっておりました。雪の溶け始めた山から流れる水が、川の流れを速めています。やはり赤い星の国から見ると、日々広さを増していた積もった雪がふたたび身を隠し始め、白と黒をもののみごとに分けたうつくしい姿をしています。青い星の国は、そろそろかわいらしい薄黄の花が満開になっている頃でしょうか。こんなことになる前は、毎年王子が栞に押し送ってくれておりました。姫のもとのそれは、今や色褪せたまま文箱に重ねられています。
かの山頂では、黒い羽から雪を払った大梟が、毎年と同じように、無事に冬を越えてしまいました。今年もきっと姫の望むものは見られないだろう、と、誰もが思っております。テオフィードの冒険は、どうやら結末を迎えてから語り始められるようで、このとき今は誰一人にも知られないままだったのであります。
そしてその結末というのは存外早く、その日、姫様がマントのようなドレスを脱いで寝台の縁に腰掛けたころ、迎えられました。外はすっかり月の時間となり、子どもたちは布団の中だけが居場所です。大人だって、城の外じゃあほとんど帰路を辿り終えているでしょう。街の隅では目を光らせた野良猫が寝ぼけた鼠を追いかけ、星々は寝息を立てております。
それなのにざわざわと門から広がる騒がしい空気に姫様は首を傾げ、御身をすっぽり包む薄黄のショールを纏いました。あの日から、大梟を思い出させる黒は部屋にひとつもありません。室内履きの刺繍さえ色が変わったのですから、この城の使用人は優秀なものです。嫋やかな白い爪先を緑の刺繍から離し、表に出られる簡易な靴に履き変えます。格好は人前に出られるものではありませんが、これくらいならば目を溢してもらえるだろうと気にしません。
そうっと扉を開けば、こんなに声がするというのに不思議なことに、広い廊下にはがらんと誰もおりませんでした。恐ろしい気配もございませんでしたので、そのままふらりと外に足を向けます。声は城の門に集まっております。近づいてようく見てみますと、みな安堵を複雑にした顔をしておりました。人垣のうちには旅装の男が立っています。赤茶の髪をしています。リューリエはぎょっとし、踵が脱げるのもいとわず走り寄りました。
「テオ、テオフィード?」
男が振り向きました。人垣もみな瞳を向けます。いくつも対がある、けれど中に姫が思う色はありません。テオフィードはそこに、おりませんでした。
赤らんだ髪の男は、それでも姫の知る人です。雪待草の瞳が、ぱちり瞬いて彼女を見つめました。背には大弓、空矢筒を携え、嵐を越えた様相をして、テオフィードの旧知であった弓使いはゆっくりと目を伏せます。ひとつ、ふたつ、唇を合わせては閉じ、一度引き結ばれて、ようやく言葉の紡ぎ方を思い出したようでした。彼の大きな瞳にはきっと姫様が写っていたのでしょうけれど、幻像の少女がどんな表情をしているか、彼女自身に確かめることはできませんでした。
彼は長い挨拶をして、姫様もなにかを答えたはずです。誰もその話を覚えていなかったのは、仕方のないことでありましょう。
賢しい方なら、もう気付いているやもしれません。それはひとつの物語の終わり。
怪物と英雄、ふたつの大いなる命が喪われたことを告げる報でありました。
喪われた恐怖と安堵は、選り分けること叶わないものです。姫ならば、よかった、というのが正解でした。正解のはずでした。
けれどどうしてこの悲しみに、そんな言葉を告げられるでしょう。
誰かがそっと、姫の背中に触れました。姫様の記憶はそこまでです。次に目覚めたときは、また太陽と顔を合わせることとなりました。
それからのことはあっという間でした。騎士テオフィードの遺体は、毒で一切余すところなく黒く染まっていたそうですが、姫様の眼には触れさせられませんでした。
同じ日に、あの大梟も運ばれてきたそうです。大梟の羽根でマントを作るのだと聞きました。青い星の国に持っていくのだそうです。きっと、姫様の身を包むことになります。彼の羽根は憎らしいほど艶やかで、まるでまだ生きているようにしっとりと湿っていました。
それから三ヵ月が過ぎました。こちらの国にも春の息吹は響き渡り、動物らが子と連なって雪解けの川に口をつけます。リューリエ姫の愛した花はもう花弁を落としてしまいましたが、山の向こうにはきっと新たな花が咲いていることでしょう。姫様は黒い羽に身を包んで、たくさんの宝石に飾られ、山へ向かう輿に乗っていました。
輿の轍を子どもたちが踏み、道は柔らかく続きます。
なんにしても、この物語はこれでおしまい。もしかしたなら、続きは青い星の国で語り継がれるかもしれませんが、またいつかのお話です。もう雪が降ってきました、ほらほら、窓を閉めたら布団にお入り。声に応えてはいけないよ。