第2連
◆
「ただいまー」
家に一歩入るとクーラーの気配があった。うまく言えないけど、空気の透明感が違うんだ。
「おかえり」
リビングに入ると、キッチンから母さんが顔を出した。弟の秋佑はソファで寝ている。大方、小5の彼は今日も一日どこぞかを駆け巡り、夕方までにすべての体力を使い切ったんだろう。
「ん、ここまで汗のにおいがする。さっさとお風呂入っちゃいなさいよー」
「うーす」
キッチンと通り過ぎた俺の背中に「弁当箱出しておいてね」と声が飛んでくる。もう一度、返事をして俺は風呂場に向かう。
至福の時。一日、自分の体についた汚れという汚れを熱いお湯が引きはがしてくれるような感覚。さっきまで、暑さにうだっていたというのにこれは気持ちが良いから不思議なもんである。俺は一通りすべて洗いきると湯船につかる。
「ふぅ」
靄が浮かぶ風呂場の天井をぼうっと眺めながら、俺はジェイクに見せられた動画のことを思い出していた。気味の悪い団地のような集合住宅の一室。写り込んだ子供のような背丈の影。撮影者の自殺シーン。どれをとっても決して気持ちが良いものではなかった。いたずらにしても余りタチがいいと言える代物ではない。とはいえ、もう関わらなければいいだけの話。忘れてしまおう。そう自分の中で区切りをつけて湯船から立ち上がる。
風呂から出たら父さんが帰ってきていてすぐに飯になった。俺は飯もそこそこに自室へ引き上げる。なんだかんだ今日の練習はハードで疲れてしまっていた。中3にしてはまだ身長が低めの俺はまだ体力的な不安がある。同年代は高校受験で忙しいこの時期、俺は高校進学はほとんど約束されているわけで体力づくりにいそしむだけなのだ。
ベッドに転がり、スマホを開く。通知が数件来ていた。
「ん、勇磨じゃん」
池田勇磨はひとつしたの後輩。とはいえ、近所に住む彼は俺に憧れて翔陽中を受験した、らしい。勇磨のおばさんから聞いた話だ。部活はテニス部だけど、一緒に遊ぶこともあるしバスケ部の中でも比較的顔が知られている存在だ。
通知を開くとそこにはリンクと勇磨の悲痛のメッセージが送られてきていた。
『洸佑くんごめん!5人に回さないと呪われちゃうんだって。ごめん!』
ん、これって少し前にまとめサイトで見たやつだ。10年前ぐらいに流行ったチェーメールとかいうヤツだろ。怖い画像とか呪いの文章みたいなやつが流れてくるんだ。
勇磨に返事を送る前にとりあえずリンクを開いてみる。
暫くの暗転。
見覚えのある集合住宅の廊下。
「これって…」
つい数時間前にジェイクに見せられたのと同じ動画だった。
こんな短時間でまた自分の元にこれが届くとはなんとも言えない。
俺は最後までその動画を見ることなく閉じると、勇磨に返事を送る。
『これ、見たことあるわ。どうせ作りもんだから、真に受けんなって』
すると即座に「既読」がついて勇磨から返事がくる。
『いやいや、これ本物だよ。ジェイク先輩から回ってきたんだけど、洸佑くんも誰かに回した方がいいよ』
『馬鹿言うなって、本物だって言える証拠でもあんの?』
『うん』
『もったいぶらないで言えよ(笑)』
『おれ、この場所知ってるんだ』
『冗談はいいから(笑)じゃあ写真の一つでも撮ってきてよ』
『分かったよ』
そんな勇磨の返事に俺は適当なスタンプを送って会話を終えた。
スマホをベッドの端に転がすと、不意に眠気がやってきた。
俺はいつの間にか眠りに落ちていた。
◆
ヴヴヴヴ
微かに部屋に響くヴァイヴレーション。
寝息を立てている少年は全く気が付く様子はない。
画面に映し出された小さな写真のサムネイル。
暗闇にうっすら浮かび上がる薄暗い部屋。
そして、『着いたよ』のメッセージ。
暫くして、画面の明かりが自動で消えると、また室内は少年の寝息だけの空間に戻る。
◆
「おいおい、これって…」
ジェイクが戦慄している。それは俺も同じだった。古ぼけたコンクリート群。
確かに、あの団地に見えた。
今日は部活がオフで、一日中家でダラダラ過ごす予定だった、でも、目覚めと共にその予定は雲散霧消した。
原因はもちろんこれ、勇磨からのメッセージだ。
しかも、受信の時間が明らかにおかしい。深夜3時だって?
あれから、何度もメッセージを送ったり電話をかけたりしたのだけど、一向に応答はなかった。
俺はすぐにジェイクに連絡をすると、学校の近くのスタバで合流した。そして、今日はもう一人、同じクラスでかつ、ジェイクとも勇磨とも面識のある賢哉も呼んだ。剣道部もちょうど今日はオフだったようで二つ返事で来てくれた。
改めて俺は勇磨から受信した写真を二人にも見せる。賢哉も別のやつから動画は回ってきていたようで話はすぐに分かってもらえた。
適当に頼んだ、なんちゃらフラペチーノの甘味はいつもに比べて恐ろしいほどに感じられなかった。
「勇磨はこの場所を知ってるって言ってたんだね」
賢哉が俺に確認をする。
「うん、ほら」
俺は昨日のトーク履歴を見せる。
「それで証拠を見せろって話か」
「まぁ、当然の流れだよな」
賢哉とジェイクが互いに納得しあう。
「でも、やっぱり動画と見比べても同じ所に見えるでしょ」
「でも、洸佑、団地って同じ時期に建てられたものだったら結構似ている形をとってるところもあると思うんだよね。ほら、駅前にある県営団地だって似てるって言われたら似てるよな気もするでしょ」
勉強ができて冷静な賢哉に言われてしまうと、どうしてもそんな気もしてきてしまう。
「んまぁ、現状この写真が動画の場所と同じかどうかが問題っていうよりは勇磨が無事かってことの方が重要だろ、な?」
ジェイクが少し会話の論点がずれてしまっていたところに、修正を入れてくれる。この辺はやっぱり年上なんだって感じる。
「でも、探しに行こうにも場所が分からないし、団地をしらみつぶしにって言っても足がないときつい距離感だしなぁ」
「いったんは、勇磨からの連絡を待つしかないかな――――」
ヴヴヴヴ
不意に響くバイブ音。俺のスマホだった。画面に表示されたのは、
『勇磨さんから1件の新着メッセージ』
「あ、勇磨からだ」
「お、良かった。さては休みだし、この時間まで寝てたんじゃね」
ジェイクが急に気の抜けた様子に戻る。
賢哉もなんだから少し肩の力が抜けたようにアイスティーをすすった。
俺はメッセージを開く。
『こおすきけんたつけ』
「ん、なんだこれ」
打ち間違いだろうか。少し待っても特に説明も送られてこない。
すべて平仮名なうえに、意味が分からない。
「おいおい、勇磨、まだ洸佑のこと怖がらせようとしてんじゃね。あいつ、意外と悪戯好きだからなぁ」
ジェイクが楽しそうに言う。俺は返事を送る。
『おい、ふざけてんならやめろって。本当に心配したじゃん』
ヴヴッ
『たけて』
また一言だけ送られてくる。『ふざけんな』って打ち込もうとすると、また、
ヴヴッ
『たそけて』
『たすけて』
『たすけて』
『たすけて』
『たすけて』
『たすけて』
『たすけて』
『たすけて』
『たすけて』
『たすけて』
「おい、これなんだよ!」
俺が気味悪くなって、スマホをテーブルの上に置く。賢哉とジェイクが画面をのぞき込む。見る見るうちに勇磨とのトーク履歴が『たすけて』で埋まっていく。しかも、凄まじいスピードで。とても人が打ち込んでいるスピードとは思えない速度だった。
「これ、やばいって、すぐに電話かけろよ」
ジェイクがただでさえ白い顔をさらに真っ青にして俺に言う。
「でも、でも、誰が出るか分かんねぇし…」
「もいい、俺がする」
賢哉が俺に見かねてテーブルに投げ出されたスマホを手に取ると、電話帳から素早く勇磨の電話番号を選んで電話をかける。
そして電話はほどなくして繋がった。
「おい、勇磨か!大丈夫なのか?どうした、どこにいるんだよ」
賢哉が矢継ぎ早に質問をしていく。そして、しばらくの沈黙の後、
「うわっ」
急に賢哉が耳からスマホを遠ざけると、
ザーーーーーーーーーーーーー
スピーカーホンにしていないにもかかわらずはっきりと聞こえる音量で砂嵐が聞こえた。そして、その音の中に本当に小さく誰かの声が混ざっているのが聞こえた。
「…けて……け……たす…」
勇磨だったかどうかは分からなかった。でも、最も可能性が高いのは彼だった。
「勇磨、そこにいるんだろ。助けに行くよ、どこだか教えて。頼む」
俺が身を乗り出して声をかけた。でも、通話はそこでむなしく切れた。
俺たちは一言も言葉を交わすことができずに30秒だか、1分だかを過ごした。
ヴヴッ
嫌なバイブ音がまた響く。俺のスマホだった。
通知を開くと、そこには勇磨から一つのリンクが送られてきていた。
恐る恐る開く。
真っ暗な室内。明かりは懐中電灯の円形の光だけだ。
例の団地の一室にも見えなくない。
手振れがひどいことを考えると勇磨が撮ったものなのだろうか。
室内をどんどん進んでいく。周囲に人の気配は感じられない。
恐らく、一番奥の部屋まで来て窓が映し出された。その窓も新聞紙が張られていて、外の様子は分かららない。
次の瞬間だった。
ギィッ。
「ひぃっ」
小さな悲鳴は紛れもなく勇磨のものだったと思う。
ガシャン。
それは紛れもなく、どこかのドアが開いて、そして閉まった音だった。
勇磨らしき人物は急に動き出すとどこか身を隠す場所を探しているようだった。そして、部屋の隅に押入れを見つけると、迷うことなくそこに滑り込んで静かにふすまを閉める。
「助けて助けて助けて助けて助けて助けて・・・・」
息を殺して小さな声で祈るように唱え続ける勇磨。
カメラのマイクはそんな侵入者の足音をしっかりとらえていた。ミシッ、ミシッとゆっくり室内を徘徊している。勇磨の息遣いはもう泣きださんばかりで悲壮感に襲われる。
そして、足音はふすまの前で止まる。
時が止まってしまったかのような長い沈黙。
すると、足音は諦めたように踵を返すとまた遠ざかり、ずうっと奥の方でまた玄関のドアが開く音がして、閉まった。
緊張から解放された勇磨が息を吐き出す。
「よかった…」
俺も勇磨と同じタイミングで息をついた。
カタッ
小さい音が近くでしたような気がする。
そして、次の瞬間だった。
カメラが不意に押し家の中を映す。もちろん懐中電灯の光と共に。
そこに映し出された異形の存在。性別はもちろん、人間なのかケモノなのかも定かではないソレが一瞬映ったかと思うと、ガコン!と大きな物音がして、カメラは急に床を映し出した。カメラは大きく投げ出されたようだった。そして、映像の奥の方には勇磨が見えた。もっと言うと、押し入れの中で必死に抵抗をしている勇磨の姿が映っていた。衝撃でコロコロと床を転がる懐中電灯が押し家の中をコマ送りの映像のように映し出す。
「やめっ、なんだよ、はなせよって、やだ、嫌だ、いやだ、いやだ、う、うわぁゎわわわぁぁぁぁっぁぁぁわぁぁぁ」
プツン。
映像はそこで切れた。
俺も、ジェイクも、賢哉も。何も言えなかった。
今確かなことは、目の前で友達が何かに襲われた。それだけは間違いなかった。
「け、警察に行こう」
言い出したのはジェイクだったか、賢哉だったかもう覚えていない。俺たちはしどろもどろになりながらスタバを飛び出した。