その愛に花束を 参
更新できずに申し訳ありません。今回で第1章が終了です。
過去とは総じて語り語られたくないものである。だが過去が無い者にとっての過去はただの言葉に成り下がる。過去とはいわば自らの痕跡だ。いつどこで誰と誰が何をどのようにどんな言葉を放ったか。全ての記録だ。そしてそれは誰しもが必ず持っているモノだ。
だが。
と、例外的に。
扇赤にはその前置詞を使う事ができる。
だが。
扇赤には過去が無い。
そう、このように。前の言葉を扇赤は、「過去が誰しもが必ず持っているモノだ」という言葉を打ち消す事ができるのだ。
そう。この男程過去という言葉が似合わない奴はいない。
そしてそれこそがパンドラの匣がパンドラの匣である為に最も重要な事だった。
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美和子は。
首を降る。
その事は知りたくないし知る必要も無い、そう、思っていたからだ。扇赤はそうかとだけ言って「じゃあ何がいい?」と尋ねてきた。美和子は少しだけ口を開いたがまたすぐに閉じてしまった。
「俺は君に代価を払わなければならない。何でも言ってくれたまえ」
扇赤は若干急かすようにそう言う。だが問われている人は下を向いて一向に答える気配を見せない。
美和子自身。そう問われると困ってしまう。確かに父親の事は気になる。誰も教えてくれなかったし、物心ついた時には母もいなかった。それから下宿先の沙々(ささ)の所に預けられるまで父親と二人っきりだった。当の本人は仕事で日中は家におらず、夜も美和子が寝てから帰ってきた。一日中顔を、一日どころか三日も顔を合わせない事なんてザラだった。
だから、知りたくないと言えば嘘になる。
だが今は聞くべきでは無い。
美和子はそう直感していた。
その時。美和子は気がついた。知りたい事がある。それは目の前の男の事、この写真館の事だ。
「私は…あなたと、この、写真館の事が知りたい」
顔を上げ、しっかりとした口調でそう言う。
「普通の写真館ならあんな事…思念を可視化するなんてできないでしょう?貴方は特別だと言ったわ。ならその特別を私に教えて」
扇赤はこの「代価」は予想外だったらしく面食らっていた。だがすぐにいつも通りの顔つきに戻り笑った。
「いいだろう。教えてやる。だがな、知ったら君、専属の採血係になってもらうぞ?それでもいいなら教えてやる」
「せ、専属?」
「ああそうだ。まぁようするに血だけじゃ特別を教える代価には合わないという事だ。特別は何もかもとは違うからこそ特別でいられるんだ」
扇赤はかたんと椅子に座りにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「…いいわ。教えてくれるのよね?なら専属とやらになってもいいわ」
「は…?」
美和子が意を決したようにそう言うと扇赤は予想外の反応に思わずアホ面になった。
「いいのか?君は何かある度に俺のとこに来なきゃいけないんだぞ?」
「いいわよ。刺激的な毎日で最高だわ」
「…はぁ。やはり血は争えないか」
「何か言った?」
扇赤がため息をついて何かを言ったが美和子には聞こえなかった。扇赤は問われても答えず、席を立った。一旦奥に入って何かを持ってきた。
「この店はずっと昔から、写真館都市ができた時からある。ある一家を監視するのと同時に人々を哀しませないように。ある一家っていうのはまだ言えない…というよりもこれだけは何があろうとも絶対に言えない事になっていから勘弁してくれ。で、哀しませないように、というのは人はいつか死ぬだろう?急に、言いたかった事が言えない、なんていうのはよくある事だ。だからこの店の代々の店主には可視化できる術をかけてもらえる。この店の店主にだけな」
扇赤は持ってきた銀盤を撫でながら語る。その口調はとても優しくて暖かくて、赤子に話しかけているようだった。美和子は思わず聞き入る。
「パンドラの匣にはいろんな人の思念が可視化された痕跡がある。それがこの店にかけられた営業指定範囲を歪ませてしまって「無いのにある」という現実を作っている。実際美和子君も気がつかなかっただろう、霞んで見えにくかったはずだ、俺が声をかけるまで」
「え、私には最初からはっきり見えていたわよ…?」
「あー、君は例外だったな。君、眼が良すぎるだろ。きっと視力検査する時に見えすぎて訳分からなくなってるだろ」
扇赤にそう言われ学校で行われる視力検査の時の事を思い出す。確かにあれのどこが視力検査なのか分からない。何せ美和子はそれを長い廊下の突き当たりから見たって見えるのだから。逆に美和子にとって視力検査の時の距離は近すぎて眼が痛くなってくる。だから教室の席は逆に後ろにさせてもらっているのだ。
「まぁ本来は霞んで見えないんだ。明確な目的がある人はそれが軽減されるみたいだが。この店自体が思念の様な感じでもあるしな。で俺の事、だったか?悪いがそれはまた今度にしてくれ。今は、駄目だ」
予想以上に真剣な眼差しでそう言われれば、誰だって頷くだろう。美和子は頷く。そして礼を言う。店について教えてもらった礼だ。
誰も知らない写真館の事。
それが知れてなんだか気分がいい。美和子はもう少しここにいようとしたが扇赤に言われ帰る事にした。
「じゃあまた」
「ああ。頼むよ、専属さん」
玄関先でそう言い別れ、美和子の背中が見えなくなると扇赤は店の中に戻った。
『あなたっていつもそう』
香織が目の前に降りてくる。彼女ももちろん思念で、消える事はない。他の思念とはまた違うのだ、彼女は。千籐の名字を持つ、彼女は。
「何が」
『大事な事はいつも言わない。あの娘に言わなくて良かったの?パンドラの匣に関わる人間は…普通じゃなくなる事』
「いい、言わなくても」
言わなくても。
関わらなくても。
彼女は既に普通ではない。それは香織も分かっているはずだ。分かっていて彼女は言っている。だから扇赤としてははやく消えて欲しいのだがそれは本心ではない為消えない。
「あいつは千籐の血をひいている。なら、この地に縛られているという事だからな。ふっ、美和子君の奴、俺に怪異の封術の事で説教してきたっけな。怪異はほとんど君の為にあるというのにまるでそれを知らない。確かに封術は学生都市ならではの術だが…」
まだ手に持ったままだった銀盤に眼を落とす。そこには名が彫ってあった。パンドラの匣の代々の店主の名だ。もちろん扇赤の名前もある。だが扇赤が見ているのはそこではない。初代、一番上の名前だ。
『初代、千籐雅。私をまだ離してくれないのね…』
「美和子君がいるという事はそうなんだろうな。はてさて千籐の血が絶えるのは一体いつの話になる事やら」
扇赤は呆れた様にため息を吐く。
扇赤は千籐雅の事をよく知っている。その思念の元となる屍がパンドラの匣の地下に埋まっているからだ。
写真館都市が成立して間もない頃。千籐雅は大罪に手を染めた。が、故に千籐の血の者は学生都市から出る事を許されていない。が、故に怪異は学生都市にのみ生息する。
「お、客が来た様だ」
扇赤は銀盤を机に放って玄関扉を開ける。
「いらっしゃい。どちらに用かな?」
美和子がその事実を知るのはまだまだ先の話。
少なくとも、扇赤が次の依頼をこなすまでは教えられる事もないだろう。
《四月は絵画の季節 了》