その愛に花束を 弐
問い続けるのは一つの言葉の意味。
わからない。
どれだけ向けられようとその言葉の意味がわからない。
21gの魂ではやはり理解できないのだろう。
『想い』などという脆く儚く夢のような、薔薇のような言葉を。人は理解する事など到底できないのだろう。
だから人は、わからないからこそ、人に『想い』を求める。二人なら、三人なら、四人なら、もっともっと大勢の人同士ならば、わかるかもしれないから。誰か教えてくれるかもしれないから。他力本願だけれど仕方がない。きっと神様は人をそういう風に作った。きっとそうするしかなかった。多分、神様も『想い』が何なのかわからないから、自分が作った人に聞こうとした。自分以外の何かならわかるだろうから。
「魂が21gなら、その魂から造られる『想い』は何gなのでしょうね」
21という数字に込める事のできないモノは一体、何gだろう。
それはきっと、”私達”が死んだらわかるかも、しれない。
◇□□□□□□□
店内は相変わらず薄暗い。写真館というのはみんなこうなのだろうか。
一日ぶりに手にする鞄に軽く付いている埃を払いながら美和子はそう思う。寝かされていたソファに今度は座っている、なんだか不思議な気分だ。扇赤は台所から戻ってきて美和子に湯のみを渡す。香りからして、玉露だろうか。懐かしい匂いだ。
「ねぇ、本人に会ったってどういう事?だって、晴海さんは、もう、ずっと前に死んでるんでしょう?」
「ああ、死んでいる」
美和子はここ数分ずっと聞きたかった事を聞いた。だが帰ってきた言葉は答えでも何でもなかった。
ただの、肯定だった。
「じゃあ会えないじゃない」
「ああ、会えない。だがそれは永遠じゃない。そしてそれはあくまでも仮初め。ただの、思念体だ」
「思念…」
扇赤はずっと美和子に背を向けていたがこの時初めて、店に戻ってからその端整な顔を見せた。ひっそりと息を呑むような静謐の中に佇む、砂糖一粒程の好奇心と儚さ。それに惹きつけられない人など、いないだろう。かくいう美和子もそうだった。
「パンドラの匣の噂は?」
「ないのに、ある、だったかしら?」
そこであおれを問われるとは思ってもみなかった。美和子は湯呑みに口を付け一口、飲む。美味かった。美味いが故にこの目の前の人物が何者かわからなくなる。玉露などという高級茶を出せるような人物には、店には見えないからだ。
「ないのにある。それは結局、存在しているという事だ。ない、が表すのは普通。あるが表すのは異常だ。『普通がないのに異常がある』。こには、「写真館パンドラの匣」には普通なんてありはしないんだ」
扇赤はまるで自分に言い聞かせるかのように美和子に言う。ことり、と円卓の上に自分の湯呑みを置き店の奥に消えた。半開きの扉の向こうに写真機が見える。だがそれは扇赤が扉を閉めた事に寄って見えなくなり、代わりに扇赤と一枚の額縁に入った写真が姿を現した。
ずいと無遠慮に押し付けられたその写真を見て美和子は絶句した。
「はる、み…せんぱい…」
そこには、幼いが確実に晴海の、正確には晴海であった晴海に似せられた成海に、とてもよく似ていた。
肩に着くくらいの切りそろえられた髪に、大きく清廉な瞳、綺麗な言葉が紡がれるであろう唇。そのどれもを今はもう見る事が叶わないが、似ることを強要されていた人物をつい先程まで見ていた。
「知り合い、だったんですか…?これ、ほんとに、晴海先輩?」
「ああ、知り合いではないが、確かに海苑寺晴海だ。六年前の、中崎恵が海苑寺邦臣を成海で殺そうとした日に死んだ時のな」
「ええっ!?そんな、無理に決まって」
「俺には無理じゃない。言ったろ、俺は特別。この店に普通はないって。いい加減、覚えろ」
あっ、と声を上げる間も無く写真を取り上げられる。扇赤は愛おしそうにそれを見ると、もう一寸の隙間もない壁に写真をかけた。そうして織り重なっている写真は幾つもあるようだった。
「起きろ…お前ら」
パチン、と指を鳴らすと扇赤はそう呟いた。
『おかえりなさぁい、主さま』
すぅるりと、天井をすり抜けて香織が扇赤の目の前に降り立った。
それを見た美和子はわなわなと震えている。
「けっけっ、傾国の遊女っ、かっかっ、香織っ!?」
『あらぁ。その名前で呼ばれるのは随分と久しぶりだわぁ。貴女、お名前は?』
扇赤から軽やかにその身を離すと美和子の頬をその美しき掌で包み込んだ。
「なんでっ!?貴女はもう、随分前に死んでっ」
『あら、この子、知らないの?主さまの職業』
「いや、半分だけ知らない。だからお前を呼んだ」
『へぇそうなの。知っていい子なのね。で?お名前は?』
香織はまた同じ事を聞き返してきた。動揺を隠せず、美和子は何回目かの、つっかえつっかの自己紹介をした。やはり、香織も美和子の名前を聞くと一瞬驚いた顔をしたが、すぐに花のような笑顔を綻ばせた。
「香織」
扇赤が呼ぶ。呼ばれた、向こうが薄く透けて見える体の香織は扇赤の首元に腕を回しぴたり、と密着した。
「もう、わかったとは思うがこいつは生者じゃない。死人だがそれとも少しだけ違う。こいつはな、思念だ。そこに置いてある腕の持ち主だ」
扇赤はそう言って洋箪笥の上に置かれた物を示す。それは美和子が初めてここに来た時に円卓に置いてあったものだ。
「”モノ”に宿った思念をこうして可視化するのが、俺の仕事。写真機で思念の宿った”モノ”を撮り、それを具現化し特殊な方法で現像する。そうして、生前語られる事の無かった言葉を聞く」
「じゃあ、晴海さんも…」
「そうだ。やっと繋がったか、馬鹿め」
いつもなら。
扇赤の言葉に反応して声を荒げていただろう。だが今はそれすらしない程、美和子は呆気に取られていた。
そんな、思念など、存在していたのか。
それを可視化具現化する事など、できるのか。
まさか。
まさか。
こんな現実があるだなんて思いもしなかった。
「晴海の事を成海は愛していたようだ。それはもちろん姉妹愛だが、故意では無かったとしても自分の行いに寄って”愛する者”を死なせてしまったわけだ。成海は深く落ち込み、成海の誕生日贈答品として小遣いを貯め買ったあの、緑柱石のネックレスに晴海の思念は宿ったのさ。残された姉が心配で、”愛されて”いなかったという事を知っていたから。そうだろう?晴海」
くるり、と向きを変え先程壁にかけた写真を扇赤は視る。そこには晴海が立っていた。美和子は目を見張る。この状況下でそれ以外何ができよう。
「もう、いいのか?まだ後四年は時間があるぞ?」
『いいのです。もう、いいのです。私が見ていたかった人はもう、この世におりませんから』
晴海は芯のある声でそう言うと、扇赤に一礼をし、ぱしんっ、と薄いガラスにひびが入ったような音を立てて消えた。消えて、額縁の中の写真も消えた。
「思念にももちろん寿命がある。その、心残りを、思念になってまで思っていた事がなくなった時だ。晴海はもういいみたいだな」
「じゃあ、香織さんはまだ…」
『ええ、まだまだ心残りがたぁくさんあるわぁ。まぁでも。普通の思念は十年が期限よ。可視化できるのも消えるのも。十年以上前の思念はとても高い代償を払わないといけないのよぉ』
「普通の…十年経っていない思念は代償無くあ、あらいぜんず?できるんですか…?」
「まぁな、俺から出す代償はない」
「は?」
扇赤はゆっくりとこちらに近寄ってきた。ゆっくりと、だが確実に。美和子は何故かぞわりと寒気を覚えた。それほどまでに扇赤の表情が冷たいのか。否、この店自体が寒いのか。
「人は魂、肉体、精神の三つの要素で出来ている。そこから一ずつ派生してできたのが、魂から思念、肉体から行動、精神から自己だ。俺はその内の一つである思念を可視化出来る。確かに十年というとりあえずの期限はあるが可視化できない思念は無いと言っても過言ではないな。で、お前の言った十年経っていない思念の可視化だが、勿論代償は必要だ。俺からは出さないが。では出すのは誰か。お前だ」
「っ!?」
扇赤は美和子の前にかしずく。それはそれはとても優雅に。
美和子はまたもや固まった。ピタリと一寸も動かない。動かないどころか息をしているのかも定かではない。些かまずいか、と扇赤は香織に美和子を正気に戻すように言った。香織はとりあえず平手打ちを食らわせた。結果、美和子は正気を取り戻した。
「説明がまだ終わっていない。十年経っていない思念を可視化するには若い女の血が必要なんだよ。何でも一番最初に思念を可視化した奴曰く、『若い女の血は可視化するにあたって必要不可欠なものであり最も思念の状態がよく可視化できる』とか言ったんでな」
「なっ、だからってなんで私っ!?」
「運悪く依頼を受けた俺の所に来たからさ。もう一つ運が悪い事がある。高遠原と知り合いだった事だな」
「高遠原先輩がなんで出てくるのよ」
「そこは置いとけ。ともかく、ほんの少しの血でいい。まだ湿板は洗っていないから間に合う。本当は撮るときに必要なんだよ」
「ま、待ってよ!私の意思はっ!?確定事項なのっ!?」
美和子はあたふためくが扇赤は聞く耳持たず。美和子のやわい手のひらを上向きにすると、細い指に針を刺した。鋭く細い痛みが神経を伝って美和子の目に涙を浮かばせる。
「よし…」
「何がよしっ、よ!ありえないわ…」
「まあまあ。俺は可視化するのに代償は払わないがお前には血の代償を払うから安心しろ。そうだな…美和子君だったら…父上の事でもお教えしようか?」
扇赤は不敵に笑い針をくるりと手で弄んだ。香織はそんな扇赤から針を受け取り奥へと消えた。美和子は何故?と扇赤を見る。何故、ここで父が出てくるのかと。その扇情的な目がゆらゆらと揺れる。あまりにも唐突すぎた。自分はほとんど父を知らないのだから。そして、そうであるが故に自分は写真館都市に近寄らなかったのだ。
「美和子君の父上が、何故こんな所に、千籐という政治都市の中でも筆頭の家柄の者が、何故こんな学生都市の片隅で慎ましく暮らす事を強要されているか。教えようか?」