その愛に花束を 壱
寧ろ、最初からこうすればよかった、と扇赤は車の中で考えた。いやでも海苑寺の屋敷に行かなければこのネックレスを手に入らなかっただろう。このネックレスと、鷹臣の話、深紅の薔薇、そして中崎女中達に出会っていなければこの事件は迷宮入りしていただろう。放火事件が起きたのがまだ六年前でよかった。十年を過ぎていたら、本当に迷宮入りしていた。たとえ先ほど言ったもの達に出会っていたとしても。
「美和子君、」
不意に、車内の冷たい静寂を破った。美和子は自分の隣に座っている。何、と小さい声を返してきた。だが芯はしっかりしている。晴海の声とは違う。
「君は…魂…いや、思念の存在を信じるか」
「シネン?シネンって、思う念の、思念?」
「ああ」
「どうかしら…微妙だわ」
美和子の答えに扇赤は思わず笑みをこぼす。笑みと言っても嘲笑の類だが。美和子はその反応にむくれて何よ、とちょっと声の大きさをあげた。
「じゃあ、その思念を見ることができると言ったら、君はどう思う」
今度の問いには直ぐに反応できなかった。一瞬、美和子の思考回路は止まった。見る?見るって、あの見る?と自問自答する。そして思念を見ることなどできない、という答えを導き出しそれを扇赤に伝える。扇赤は軽く頷いただけでそれきり、屋敷に着くまで何も喋らなかった。だが、一緒にいる、海苑寺晴海は一言だけ喋った。
「とても迷惑ですわ」
と、だけ。
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叶うのならば
もう一度あの竹林に行きたかった。もう二度と行くことは叶わないだろうから。だからもう二度と行かぬ覚悟で、”姉”の言葉を理解した。あの時”姉”が薔薇を捨てたのは自分を捨てたことに等しかった。少なくとも、歪っていても、『愛』は向けられていたのだから。
人は『愛』無しでは生きていけない。『愛』ある故に人は過ちを繰り返す。
学校で聞いたことがある。
魂の重さは21gだと。
生きている時の体重と死体の体重とでは21gの差があるそうだ。それは、所謂、魂の重さだと。だが、”姉”の魂はもっと重いはずだ。あんな小さな体で必死に戦ってきた魂が21gなわけが無い。
学校で先生に頼み込み、20gと1gを分銅で体感させてもらった。私は20gはきっとすごく重いから1gの差なんて大したことない、それに、子供の眼では20gの分銅と1gの分銅の大きさの違いは凄まじかった。だから最初に20gを体感した。
そして、確かに凄まじかった。
20gは確かに1gよりも重い。だが、だが、確実に靴よりは軽く、ワンピースよりも軽く、飴の入った缶よりも教科書よりもジュースの瓶よりも大きな花束よりも、そして玩具よりも、私の知っているモノただ一つを除いて、その20gは軽かった。そして1gはもっと軽かった。20gでも21gでも、1gでも大差なかった。
これが”姉”の魂の重さだろうか。
こんなものが魂の重さなのか。
私の目の前にいる男は魂と言ってから思念と言った。私は魂も思念も変らないと思う。魂という、人が人でいるのに必要なそれが変化して思念になったのだと思っているからだ。
だが、それらはやはり明確に違う。
魂はただの、生きる為の器でしかなく、思念は生きているが故に生まれた想いだからだ。二つは明確に違う。
私は窓の外を見る。きっと、最後になる。だけどそれでいい。
その本を書いた人は夭折してしまった。だからもう二度と会えない。だが、魂が存在しているのなら蘇るだろうか。21gを戻せば戻るだろうか。小さなチョコレート5個と小さな錠剤3つ分の重さを、戻せば。だけれどそれは無理だろう。
きっと、死人は21gの魂の中に想いを含まず、死んでしまったのだから。
人は『想い』無しでは生きて逝けない。
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海苑寺家の屋敷の食堂には扇赤加賀智、千籐美和子、海苑寺晴海、海苑寺雅臣、海苑寺鷹臣、中崎恵、荒木登、他に女中二人と料理人が一人、集まっていた。雅臣曰く、この家に今現在いるのはこれだけ、だと。その人数は赤の他人の扇赤と美和子を除いても明らかに少なく屋敷の広さと反比例していた。
扇赤以外の人物は全員食堂の長卓と同じデザインの椅子に腰掛けていた。きっとそれらは特注だろう。
「まず、申し上げねばならぬのが、我が知り合いの軍警が全くの役立たずであった事と、この、とりあえずは平穏であった海苑寺の生活を壊す、という事です。そしてそれらに対して予め謝罪しておきます。申し訳ありません」
扇赤は窓の下に立ち、頭を下げた。そして充分な間を取ると嬉々とした面持ちでパン、と手を打ち話し始めた。
「それでは、ここにお集まりくださった皆様にお教えしましょう。海苑寺邦臣密室殺害事件について」
扇赤はにっこりと笑ってパチン、と指を鳴らした。それは、この海苑寺の家に関わる者全てを破滅に堕とす音であった。
「まず、始めに犯人を明確にしておきましょう。この事件の犯人は海苑寺晴海さん、海苑寺雅臣さん、海苑寺鷹臣さん、中崎恵女中、そして、荒木登執事です」
場の空気は固まった。否、そうならざるを得なかった。水が一瞬にして氷になってしまうかのように食堂の空気は固まった。そしてそれらが融解するのかわからないほど、美和子は困惑していた。やっとのことで美和子は震える口で言葉を放った。
「ほ、とんど…全員、じゃない…!」
美和子は嘘であってほしいという想いを込めて扇赤にその眼差しを向ける。だがその想いは届かない。
「そうだ。知らぬはここに勤めて六年経っていない者のみだ。いや、それでは少しだけ語弊がある。この家で海苑寺成海を知っている者以外は誰も知らない」
「なっ、じゃ、じゃあ中崎さんは知らないんじゃないのっ!?だって、六年前外国に行っていたんでしょっ?」
「ああ、だがあの中崎だぞ?お前だって知ってるだろ。六年前の放火事件の犯人の名前くらい。意外と鈍感なんだな」
そう言われてハッと気がつく。確か、犯人の名前は、
「中崎勉…」
「私の末弟でございます」
不意に扇赤と美和子以外の声が聞こえた。それは美和子の後ろからでその位置には中崎女中が座っているはずだ。
どうして、気がつかなかったのだろう。六年前と言われた時。中崎の名を聞いた時。その二つはどんなに当人たちが嫌がっても離れる事などできないのに。
「この事件、全ての始まりは海苑寺成海が生まれた時にまで遡る。鷹臣殿が昨夜話してくれた通り、海苑寺邦臣は仮にも娘に向けてはいけない感情を向けていた。恋慕、というこの世で最も愛しく不要な感情をね。いろいろな事を要求していたそうじゃないか。もちろんとても幼い子供に要求する事ではない事をさ。明らかに他の子供達とは違う待遇。部屋に大事に大事に匿われ、男兄弟には会わせず晴海さんしかまともに会わせてくれず。母親にも会えず、学校にも行けず、世界を知らない哀れな子供。ああ、また語弊がありました。部屋ではなく、蔵に、ですよね、晴海さん」
晴海は俯き頷く。
「そして六年前、何を思ったか邦臣は成海を外に連れ出した。多分、ほんの気まぐれでしょう。成海さんも知らないようでしたし。そしてちょうど運悪く…」
「ちょ、ちょっと待って!成海が知らないってどういう事っ!?成海はもう存在しないのよっ!」
晴海がその容姿からは想像できないような大声で扇赤の言った言葉に刃向かう。そしてその形相はまるで鬼のようだった。その時、ふわり、と晴海の髪が動き露わになった。何かの痕が。
「いいえ、存在しますよ。思念、として、ね」
しゃらり、と扇赤は上着から緑柱石のネックレスを取り出す。今扇赤が立っているところから最も近い窓の下に落ちていた、否、置いてあった物だ。
「そ、それは…」
まるでどこかの三文小説めいた台詞(言葉)を晴海はこぼした。そして他の、成海の存在を知っている人は皆、何かしらの反応を示した。雅臣は俯き、鷹臣は項垂れ、中崎女中は口元を手で押さえ、荒木執事は目を瞑った。皆、このネックレスを知っているようだった。
「これは、亡き海苑寺晴海さんは生前愛用していたものです。そうですよね、成海さん」
扇赤はしっかりと海苑寺晴海を見てその名を口にする。
間違いなどない、そう言い切れる表情をして。
「鷹臣殿の話では、海苑寺成海は放火事件のあと、本格的に蔵に閉じ込められた。以前は近くにある竹林や、許された時刻だけは外に出れていたようです。だが、その容姿がひどく変わってしまった事と、外に出た途端そんな不幸にあった事から邦臣は厳重に海苑寺成海は幽閉された。だが、女中を懐柔して脱出したそうです。事件の起きた三ヶ月後に。懐柔されたのは中崎恵女中、貴女でしょう?三ヶ月あれば留学先から帰ってこれる。わざとその素性を隠さず、どんな罰でも受ける覚悟でこの屋敷に勤め上げる事を誓った。だが、海苑寺の者は優しかった。何故か。それは海苑寺の体裁をよくする為ですよ。中崎女中」
そこで言葉を区切ると扇赤は長卓に包丁を刺した。だんっ、と勢いよく刺さったそれは、もう二度と抜けない気がした。
「自分たちを酷い目に遭わせた家の娘を雇い、待遇も破格の待遇。ああなんて海苑寺家は素晴らしいんだ、なんて海苑寺家は優しいんだ。そんな風にね。海苑寺の職業は輸入販売、客商売で一番大切なのは信頼だ。写真館だって同じ、いくら腕が良くったって客からの信頼が無きゃ誰も寄り付かない。だが、そんな海苑寺でも汚点はある。それはもちろん、成海の事だ。当主が幼い子供にそんな事やあんな事をしているなんて世間に知れてみろ、一気に没落する。邦臣から蔵の中で生活をする成海の存在を聞かされた中崎女中は成海を殺す為外に出した。中で殺せば部屋付きならぬ蔵付きになった自分が真っ先に疑われるだろう。故に成海に包丁を持たせ邦臣を殺すように仕向けた。それを中崎女中が防ごうと体を張って躍りでる。だが成海から包丁を奪い取ろうとした際に誤って逆に刺してしまう。こういう筋書きだったはずだ。成海を殺す為の自作自演。だが予想外の事が起きた。それは二つ、一つは…」
「成海お嬢様が思っていたよりも狂っていた事、もう一つは晴海お嬢様が邦臣様を守ろうとし死んでしまった事でございます」
扇赤の言葉を中崎が引き継いだ。中崎は立ち上がり晴海、いや成海と呼ばれた女性の近くに移動する。利発そうな顔が今はただただ無表情だった。これ以上ないくらいに無表情で、儚く崩れ散ってしまいそうだ。
「成海様は私が思っていたよりもずっと、邦臣を憎んでおりました。私が蔵から包丁を持たせ出した瞬間、消えておりました。走って、すぐに皆様が集まっておられた居間に向かわれました。場所は私が教えました。成海様は居間に着くと躊躇いなく邦臣を斬りつけようとしました。が、晴海お嬢様は、邦臣が大好きでいらっしゃった。ですから身代わりになられた。そして呆気なく死にました」
少しだけ息を吐き、またさらに語り続ける。
「要らない鳴海が生き残り、誰からも愛されていた晴海お嬢様が死にました。普通ならば嘆くところです。ですが、邦臣は…」
言葉を詰まらせ俯く。何分そうしていただろうか。永遠にも思われる静寂が包み、息をするのも躊躇われ、もう少しで失神してしまうかと思った頃、ようやく中崎が顔を上げた。その顔は涙で濡れていた。
「晴海お嬢様の顔の皮膚を、体の皮膚を、同じ父の血を引いているから、死んでしまったから、成海に移植してしまえばいいと!移植し、かつてのその美貌を取り戻さんと!したのです!これ以上無い死者の冒涜です!あんな奴、殺されて当然ですわっ!」
激昂。
美和子は呆気にとられた。
人はこれだけ大きな声がだせるのかと。
人はこれだけ怒れるのかと。
人はこれだけ泣けるのかと。
人は、これだけ愛されるのかと。
どれも初めて見るものばかりで呆気にとられた。
成海であり晴海である女性はただ項垂れ隣の中崎の感情をもろに受けていた。
「この人は成海です。髪は目立つからと黒にいたしました。巷では成海は死んだものと思われていたそうですから。そして顔も晴海お嬢様そっくりにしました。まぁもともと同じ父親でしたから部品自体は似ていましたから。そうして、成海である晴海お嬢様が完成したのです」
「語る手間が省けたのは少しだけ嬉しいよ。中崎女中。だが、何故今になって邦臣殿を殺害した?まぁ俺はわかるが?そこにいる晴海殿が教えてくれたからな」
扇赤がそう言った瞬間に成海に目線が集まる。晴海は柔らかく微笑んだ。もう全ては貴方に任せる、そう言い目を閉じた。相変わらず小さな声だった。
「そうですか。じゃあ任されましょう。まぁ俺がこの事件に関わったのは鷹臣殿が俺に高遠原を通して依頼してきたからだ。その時は話を聞くだけ聞き、また後日屋敷に赴くという事だけだった。この包丁やシャツは受け取らなかった。では何故。俺の手元にあるのか。それは至極簡単、そこの晴海嬢が届けてくれたからさ。その時はまだ成海だと知らなかったからあえて晴海と呼ばせてもらうが…とにかく、雅臣殿の後をつけて俺の店に来店した晴海嬢は個別にこれの鑑定を依頼した。憎んでいるが、少なくとも『愛』は与えてくれていた邦臣の無念を晴らすために。俺はすぐに犯人がわかった。わかったが、わからない風を装っていた方が楽しいだろうと思い、昨日この屋敷に訪れた」
そして、夜、あの薔薇とネックレスを見つけた。
それは、晴海がわざとあそこに置いたものだった。
「海苑寺の者はみな晴海が好きだった。異人の子、慰み者の成海は嫌いだった。だから皆、成海の事が更に嫌いになった。愛する晴海そっくりの成海の事が。だから、成海はあれだけ嫌いだった憎んでいた邦臣の事を精一杯愛した。愛を変わらず向けてくれる邦臣の事を。成海は恐らく俺に依頼していた時には薄々気が付いていたのだろう?邦臣は家の者に殺されたのだと。だから俺が貴女に結果報告をする前に薔薇とネックレスをこれ見よがしに置いた」
晴海は頷く。晴海として生きる成海は扇赤の事をよく知っている。ここいる誰もが知らない本当の姿を。故にネックレスと包丁とシャツを置いた。成海はもう終わりかな、となんとなく思っていた。
成海は嘘を吐いた。
扇赤に事件の時の事を聞かれた時に。確かに中崎に軽食を頼み、部屋に入った瞬間に中崎も入ってきた。縄と手錠を手に。中崎は女性とは思えない怪力で成海を縛り上げ足首と寝具の脚を繋いでしまった。『今から邦臣を殺してきます。ので、そこから動かないでください。この阿婆擦れ』。中崎はそう言って、一時間後、血塗れで帰ってきた。本当に父親を殺してきたのだ。晴海は家に居たくなかった。高遠原が家を貸してくれるというのでそこに居ることにした。
「先月、邦臣を殺した理由。それは、晴海が今年で二十歳だからだ。成人し、大人になる年。もう親の籠が必要でなくなる年だ」
せめてもの優しさ、だったのだろうか。子供から親を奪うような事はしたくないという背徳感から、いや、憎らしい子供のために憎らしい人を生かしておくだろうか。
違う。
扇赤が言った言葉でも優しさでも、背徳感からでもない。今年でなければいけなかったのだ。海苑寺邦臣を殺すのは今年しかなかったのだ。
扇赤はそれがわかっている。わかっているが故に口に出さない。その理由はただ一人を除いて皆がわかっていた。
「俺の仕事はここまでだ、鷹臣殿。依頼料は銀行に振り込んでおいてくれ給え。犯人の方々は軍警に出頭するなり自殺するなりすればいいさ。行くぞ、美和子君」
美和子は扇赤に腕を掴まれ引きずられるようにして海苑寺の屋敷を後にした。
「ねぇ、」
もう少しで写真館都市との境、という所でようやく美和子は口を開いた。
「どうして、晴海先輩が成海先輩だって気が付いたの…?」
「ああ、それか。それは簡単さ。本物の晴海に聞いたんだよ」
至極当たり前のように扇赤はそう、言ってのけた。
伊藤計劃氏にささやかなる愛と、深い謝罪を。