窓の向こうはお好きですか
何も無かった。
というのが正しい表現だろう。事件発生から一ヶ月経った現場は綺麗に軍警が掃除していしまっていて手がかりとなりそうなモノは何一つとして落ちていなかった。
「邦臣殿は起床から就寝までずっとここにいるのか?」
「ああ。そういう事もあったな。あんまり蔵にいるすぎるのも健康に悪いからたまにはこちらに顔を出すよう我々は言っていたのだがな」
階段を降り蔵から出る。外はすっかり火が傾いていて情熱的な色を太陽は生み出していた。
「我々?」
「私と次男の鷹臣、三男の陽臣、長女の晴海だ。晴海が一番年下で十八歳、陽臣は今年の九月で二十歳、鷹は二十二歳。私は来月で二十五だ」
一番上と末っ子では八歳の差がある。雅臣は日頃から仕事が忙しいらしくほとんどこの屋敷には寄り付かないそうで、仕事場の近くに別宅を構えているそうだ。次男と三男の二人は”都市守護”の仕事に就いていると雅臣は説明した。
「へぇ!”都市守護”を二人も排出するとは、さすが海苑寺家ですね」
扇赤は感嘆の声を上げた。美和子もすごい、と感心している。
”都市守護”とは字面の通り「都市を守護する」事だ。これは一つの都市につき百人から千人必要で規模が大きいほど守護の人数は多くなる。具体的な守護内容は公にはされていないが、学力体力武力が高くなければ守護人にはなれない。故に広いが狭き門で所謂エリートしか就けない職であった。
「いえ、あいつらは…や、なんでもない。では一旦本館の方に行って一服しよう。日も暮れてきたことだ」
雅臣は懐中時計を出しながらそう言う。美和子は日も暮れて…という言葉が引っかかり雅臣の時計を見させてもらう。時刻はいつの間にやら夕方五刻を過ぎていた。
「やだっ、帰らなきゃっ」
美和子の下宿先は五刻半が門限なのだ。だがここから下宿先まで帰ろうとするとギリギリ間に合うか間に合わないかくらいに時間なのだ。路面電車や乗合車を使えば間に合うか、と思い鞄の中の財布を見ようとする。が。
「しまった…」
鞄はパンドラの匣に置いてきてしまったようだった。これでは一度パンドラの匣に戻らなければいけなくなる。到底、門限までに帰るのは不可能だった。しかも写真館都市まで行くと確実に六刻はすぎるだろう。たとえ今から急いで戻ってこちらに来たとしても家に帰れない。
美和子は扇赤に尋ねた。
「ここからパンドラの匣まで戻って、学生都市の鹿ヶ野までどのくらいかかると思いますっ?」
「戻って鹿ヶ野ぁ?ゆうに一刻半はかかるだろ。なんだ、君鹿ヶ野に住んでるのか」
「ええまぁそうなんだけど無理よね…やっぱり。どうしよ…」
「なんだ。帰りたいのか?ここからだったら鹿ヶ野くらいだったらギリギリ間に合うんじゃ…あ、鞄か。あー、無理だな」
扇赤も自分の懐中時計を見ながらそう言う。美和子は肩を落としてどうしようと嘆いた。
学生都市は夕方六刻以降は危険地帯となる。日が沈み街灯がつき始める頃、怪異が発生するからだ。怪異は、時には人を攫い、時には人を食い、時には人を取り替えたり、時には人を誑かしたり、時には人を己の仲間にする。元々この地にそういったものが溜まりやすかったのか、写真館都市の術の影響なのかはわからない。だが確かに怪異は存在し人々を不安に叩き落す。”境”の長でさえそれを封じきれず、故にこの措置をとっている。
「最近は怪異だけじゃなくて通り魔もいるらしいからな。女子を一人で帰すのは気が進まん。今日は泊まっていけばいい。家の方には電話をすればいいだろう」
「ほんとですかっ!?」
雅臣の意外な提案に美和子は飛びつく。雅臣が笑顔で頷くと美和子は「ありがとうございますっ」と頭を下げた。雅臣はいいんだよ、と優しく言うと後ろに控えている中崎と荒木に美和子の部屋を用意するよう言いつけた。
「扇赤殿は泊まっていくでしょう?」
「ええ、もちろん。美味しい夕食付きだと聞いたのですが?」
「ははっ、当家お抱えの料理人の腕がなりますね」
扇赤はどうやら元々泊まる予定だったらしい。泊まり込みで捜査をするつもりだったのだろうか。という事は、泊まる事を了承される程探偵(?)として信頼されているという事だ。美和子はそんな扇赤を訝しげに見つめる。
「なんだ」
「…別に」
美和子はぶっきらぼうに答え屋敷に行こうとしている雅臣の隣に行った。
成り行きで美和子も泊まる事になってしまったが、雅臣は別にどうって事ないようだ。こういう事は日常茶飯事なのかなぁと庶民の美和子は思った。
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海苑寺家は”境”学生都市の紫貴にある。学生都市の中でも北に位置し周りは山、川などの自然で溢れていた。海苑寺の屋敷はそんな紫貴の自然の豊かさを目一杯活用していた。一つは川に迫り出した舞台
(テラス)。ここで夕飯を食べたりするというのだから金持ちの気は知れない。まぁだが、夏は涼しく風流なのでこれはまだいいか、と扇赤は思ったりする。
「今日は風が強いから中で食べよう。美和子嬢、明日の朝はあそこで一緒に朝食はどうだ?」
「いいんですか!?ぜひそうさせてくださいな」
舞台に続いてる食事室の前を通り二階へと続く階段を上がる。二階の角部屋とその右隣の部屋が扇赤達に割り当てられた部屋のようだ。美和子が角部屋がいいと扇赤に言うと
「お前は俺と一緒に寝ろ」
と美和子を見ずにそう言った。
美和子は一瞬言葉が理解できなかったが、理解した途端顔に血が登っていくのがわかった。
「な、なに言ってのよ子の変態っ!!!!」
「いってぇな!とりあえずなんでもいいから俺と一緒の部屋にしろっ、同じベッドじゃなくていいから!俺は床で寝るから!」
「それでも嫌よ!なにが嫌って、なんで今日初めてあった意味のわからない写真館の店主と一緒の部屋に泊まらなきゃならないのよ!怪異よりも危ないわよ!」「いいから俺の言うことを聞いとけ!なっ!?」
扇赤は美和子の肩をがしっと掴みそう言った。その眼は変に真剣だったが美和子は取り合わず「嫌!私は角部屋を使いますっ!
」と言い切った。
「…そうか。ならなにが起こっても俺は知らないからな」
「なにかって…あんたかなり失礼な男ね!泊めてもらうのになによその言い方!」
もっと言い返そうと大きく口を開く、が今度は雅臣に肩を掴まれはっ、と我に帰る。
「いい。私の商売柄そういう事を言われても仕方ない」
「でも」
「美和子嬢は角部屋だな?中崎、成海の服出しておけ」
そう事付けられた中崎は一瞬、動きが止まったがすぐにお辞儀をしてかけて行った。
「さ、夕餉までは時間がまだ少しある。部屋でゆっくりしているといい」
雅臣はまた懐中時計を見て、美和子達に別れを告げ一階に降りていく。美和子は扇赤を一瞥して思いっきり睨むとバタンっと音を立てて部屋に入った。
一人廊下に残された扇赤も、辺りを一度見渡してから部屋に入った。
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「蔵はほとんど完璧な密室。窓は嵌め殺し。地下室無し、裏口無し、隠し扉無し、ついでに梯子の類も無し。特に仕掛けもなさそうだ…」
扇赤は豪奢な、自分の布団の何倍もある寝具に寝転びながら事件についてまとめた手帳を眺める。今の所、密室に特に異常はない。
「だが…机の中のあの紙切れ…今時勘合札じゃあるまいし」
蔵の一階にあった執務机の引き出しを開け調べた時だ。一枚だけ変な紙があったのだ。墨か羽筆の墨か、そのどちらかで書かれていたそれは紙の端に途切れて書かれていたのだ。まるで、漆町時代の貿易で使われていた勘合札のように。
その文字…と言っていいのかはわからないがともかく、それは指で書かれたようで鮮明ではなく、掠れていた。故に判読は難しく、また乾かないうちに擦ったのか所々ぼやけていてどこからどこまでが一文字なのかもわからなかった。
「そういえば、あいつ、名字がちとうだって言ってたな…ちとうってあの千籐の事か?だとしたら…高遠原が寄こしたのもわかるな。それも今日。怖い奴だ…」
千籐、と頭の中でもう一度復唱する。どうしてすぐに気がつかなかったのだろう。美和子が千籐ならば、確かに写真館に近寄らないのも容易に理解できた。自分も初めて見るが、確かにあれは例外的な美しさ持っていた。あれでは写真館店主が皆写真を撮りたくなるのがわかる。
「千籐美和子…営業指定範囲の中でだけその姿を現わす永久の都市。お上も罪な事をする。わざわざ学生都市に流したのだから」
起き上がり、口元をおさえる。おさえなければ、大笑いをしてしまいそうだからだ。それも隣の部屋に響いてしまいそうな程の。くっくっくっ、と何とか小さな笑いで済ましていると部屋の扉がノックされた。
「扇赤様、お夕食のお支度ができました」
「わかった」
がちゃりと扉が開きそう告げられる。のそりと寝具から降りると革靴を履き部屋を出た。ちょうど美和子も出てきた。目を合わせるとまださっきの事で怒っているようですぐにそらされた。
「美和子君。君は俺の助手だという事を夢夢忘れるなよ」
「あら、傲岸不遜な蛇が何か言ってるわ」
「へ、蛇?」
つん、とそっぽを向いて答えてくれない。それどころか「そんな無知で大丈夫なのかしら」とまで言われる。扇赤はよくよく考え、数秒後にはどうしてそう言われたのかわかった。扇赤の名前は加賀智という。加賀智は鬼灯の別名だ。そしてそれが転じて蛇も加賀智というようになった。
「俺はそんな獰猛じゃないぞ」
「どうだか。説得力が皆無ね」
あのなぁ、と扇赤が抗議しようと改めて美和子に向き直った、その時だ。
「キャアァァァァァァァァァァァァッッ!!!」
と耳を劈く様な悲鳴が聞こえてきたのは。
扇赤は考えるよりも速く駆け出し声のした方へと向かった。美和子も、扇赤達を呼びに来た女中二人も後に続く。
声の発生元は一回応接間の向こう、庭に抜けられる大扉があるところだった。
「どうしたっ!」
美和子が息切れをしているのに対し、一滴の汗も流しておらず寸分も息が乱れていない扇赤は、へたり込んでいる女中に声をかけた。若い女中は指で大扉の向かいの窓を指しながら口をパクパクさせていた。
「あ、あ、あ、あ…」
「あ!?なんかいたのかっ」
扇赤は怒鳴りながらも女中の指さす窓の外を見る。窓の鍵を開け身を乗り出し外を見るが誰もいないし何も無い。ただ殺伐とした庭が広がっているだけだ。美和子は扇赤が窓を開けたのを見て血相を変えた。
「何してんのよ!」
「はぁ?何ってお前、外を調べて…」
「馬鹿!もう少しで六刻になるでしょっ!?封術が弱まるでしょうがっ!」
美和子の怒号に若干青くなりながらも窓を閉めるのを手伝う。がちゃん、ときちんと鍵をかけると美和子はほっ、と息をついた。
「ほんとに無知なようね、貴方。封術は太陽の光を元に発動するのよ?日が暮れてから窓を開けたり閉めたりするとすごくその力を使ってしまうの。だから不用意に開けてはだめ!わかった!?」
「…じゃあ蔵の扉もか?」
「え?」
「その封術とやらは怪異を防ぐ為に張るんだろ?じゃああの蔵だってそうしているはずだ…それに開けてる間その力は減ってくんだろ、どーせ。じゃあ尚更夜はあの蔵の扉は開けられない。てことは…犯行は昼間、か…?」
「どうしたんだ、大きな声がきこえたが」
扇赤が女中と美和子そっちのけで考え込んでいると雅臣が登場した。雅臣は腰を抜かしている女中を抱き抱え、扇赤を見た。
「何があった?」
「それはそこの女中に聞いたらいい。窓を指指していたが」
雅臣は女中に目を移すと同じ事を問いかけた。女中は震える声で「お嬢様が…」と言った。雅臣も扇赤も他の女中も、首を傾げた。
「お嬢様が…成海お嬢様が、そこに…!」
成海。
それはさっきも聞いた名前だった。
だがその名前を聞いた瞬間雅臣の顔はとてつもなく歪んだ。
まるでこの世の全ての憎悪を見たような、この世の全ての汚物を見たような…
「そんな筈があるか!成海は死んだんだぞ!六年前に!」
「ですがですがですが!いたのです!成海お嬢様が!あのネックレスを…顔に火傷が…!あれは成海お嬢様でございます!あぁ、おいたわしや、あぁ、成海お嬢様…」
女中はそれっきり言葉を発しなかった。気を失ったのだ。
雅臣は失礼、と言い女中をどこかの部屋に運んだ。残されたのは扇赤と美和子と二人の女中のみ。
その四人のみだ。
「さて、飯だ」
扇赤は気を取り直し、と言わんばかりの口調でそう言った。扇赤が歩き出したにも関わらず、美和子は足に根が生えてしまったかのように動かなかった。
「成海…」
ポツリとその名を口にすると美和子は雅臣と女中の消えた方を見た。
螺旋階段の上を。
そこからちらと見える部屋の扉にかかっている札を。
成海と書かれたその札を。