5.蒼の死神
コンクリートの上に置かれたスピーカーが複合音声を拾う。
『×××帝国、蒼の死神により壊滅』
スピーカーの向こうでは『×××帝国は不滅である!』と高らかに詠い上げる声と共に銃声が響く。
聞いていた青年は苦笑を浮かべてスピーカーの電源を切った。
「お国のプライド……か。しかし恐ろしいな、蒼の死神。いくつの地域が敗北した?」
「しらね」
「だよな。数えるだけで虚しいだけってもんだな」
「ねぇおにーさん。蒼の死神ってなに?」
ジェスビスを頭に乗っけてニアは問う。聞けと指示したのはジェスビスだ。
ラジオで何回も繰り返される言葉。初めて乗車した時も流れていた。頭に残った単語は妙に引っかかりジェスビスを突き動かした。
(あいつの導きじゃなければいいけどな)
魔女が妖しい笑みを浮かべたようで、ジェスビスは頭を振って消した。
「なんかやばい軍隊ってことしか知らないな。エトなら詳しいことを知ってんじゃないのか?」
「そーなんだ、ならエトに聞くよ!」
バイバイと青年に手を振ったニアは、ジェスビスにだけ聞こえる声で言った。
「エトだって」
「ならエトのところ行ってくれ」
「ジェスが言うなら」
ニアはジェスビスとの秘密の作戦にいつもどおりの脳天気さを醸し出していたが、彼は気が気でなかった。何故か心音が嫌にうるさい。魔女の言葉が脳内を反芻する。
(あいつ、余計なこと言いやがって)
毒づいて聞こえるものではないだろう。
どんどん支配されていく漠然な恐怖に、ジェスビスはニアの髪の中へ潜る。
「寒いの?」
「…………」
ニアの笑い声がして彼は髪から引き抜かれた。両手に優しく持たれ、間近で彼女の笑顔が広がる。
「こっちの方が暖かいよ」
両手に持たれたまま、彼女はエトがいるであろう車庫に急いだ。
「エトーいる?」
「どうした?」
車の陰から顔を出したエトは少しだけ汚れていた。
「ジェスビスが聞きたいことあるって」
「おう、俺が答えられることなら何でも訊け」
「……蒼の死神って何だ?」
ニアの温もりで溶けていた不安が少しだけ顔を覗かせる。それでも口からこぼれ落ちた言葉は撤回できない。
エトは頬を掻いてぽつりと呟く。
「あれは化け物だ。白と蒼を纏った天使のような風貌なのに中身は真っ黒でその名のとおり死神だ」
(白と蒼を纏った者……!)
ジェスビスの中であの地獄の日々が蘇る。あいつらは蒼と白でできた悪魔だった。
「それって……白い髪に蒼い瞳をもってるのか?」
「そうだな、白い髪だけじゃなくて白と蒼のグラデーションの奴もいたな。俺が見たと時は真っ赤に染まっていたけどな。どうしたらあんな非道なことができるのか……」
吐きそうになる感情を呑み込む。どう考えても奴らだった。死神が蔓延る世界で地獄を見たのだ。
「……ニア、その人達知ってる」
頭上からこぼれた声に温度はなかった。ジェスビスが顔を向ければ、ニアには表情がなかった。ジェスビスの中で心音がひとつ響く。
「おかーさんを殺した人」
こぼれた言葉にジェスビスは酷く後悔した。彼女の前で訊いてはいけないことだった。虚空を見つめている彼女はあの時のことを思い出しているのだろう。母が死んだ日のことを。
「ニア。ごめん」
謝る言葉はすんなり出たがそれだけでは足りなかった。平穏を壊すのは魔女ではなく、自身であった。魔女に罪を擦り付ける気にもならない。
漠然とした恐怖は姿を形成してジェスビスに襲いかかってくる。
ニアは目線を落として首を振った。
「ジェスがいるからいい」
「俺もごめんな」
エトが彼女の頭を撫でる。自分は撫でることもできない体だ、とジェスビスは悔やんだ。ニアの瞳から涙は零れなかったが、もしも雨のように降ってきたら彼は懺悔の念とそれすらも拭えぬ自身を恨んでいた。
「ジェス聞きたいことは聞けた?」
「……あぁ」
「なら散歩しましょ!」
先ほどの憂いを振り払うかのようにニアは彼を頭に乗っけ駆けだした。
「おい、空元気なら必要ないぞ」
もっと責めればいいと思う。
「さっきも言ったよ。ジェスがいるからいい」
「俺は何もできないカエルだぞ」
「おかーさんが言ってたんだ。その人と一緒にいて楽しいって思えるなら幸せだって。ニアはジェスといられて楽しいよ。だから平気」
(本当にか?)
脳内に消え去ったはずの囃し立てる声。
『終焉を産む子』
「それに覚えてるよ。おかーさんが抱きしめてくれた温もり」
ニアはジェスビスを鷲掴むと、腕の中に抱きしめた。
「いなくなっちゃった日にもね、抱きしめてくれたの。一瞬だけ見えた蒼い人がすごい顔で見てたけど、おかーさんがいたから怖くなかったよ。その後のことあんまり覚えてないけど……」
「もう喋るな」
何があったかなんて、言葉にされなくとも分かる。ニアの母親はその身で庇ったのだ。蒼の死神から最愛の娘を。
辛い記憶は思い出さなくていい。自身を壊す可能性があるのなら封じてしまった方がいい。
(俺は鮮明に覚えちまっているけどな……)
平穏は突然終わりを迎えた。扉を割るように開いた男達に母は血相を変えた。それでも声は平静を装って、ジェスビスを庇いながら母は前に出た。
「何か用でしょうか?」
「やっと見つけたぞ、使用人風情」
「今、何を隠した?」
「何も隠しておりませんよ。今更私に何かございますでしょうか?」
「あったり前だ。お前には聞きたいことがあるからな」
「それでは何なりとついて行きましょう。しかしながら今は夕時というものです。火を止めたりいたしますので、少し部屋から出ていってもらえますでしょうか」
「ふざけんじゃねぇぞてめー。俺らの父を失ってなお使用人気取りかぁ? お前には必要ねぇことだろうが!」
毒づいた男は母を容赦なく殴り倒した。盾がなくなり、ジェスビスは眼前に晒される。
「逃げなさい!」
ジェスビスの瞳に驚いた男に向かって母は体当たりを繰り出した。もつれ合い床に倒れた彼女はジェスビスをまっすぐな瞳で射抜く。
「逃げなさい! 母の言うことを聞くのです!」
わななく唇が何かを言い掛けたが、母の悲鳴で飲み込まれる。逃げなきゃと思う気持ちとは裏腹に足は恐怖で動かない。
「母だぁ? おい、お前本気でふざけんじゃねぇぞ!」
母を痛めつける男にやめろと言いたい衝動がジェスビスに沸き起こるが、拳で殴られた箇所から割れた音が聞こえ、また竦み上がった。
「おいおい、話聞く前に壊すんじゃねぇよ。いいからこいつ共々連れて行くぞ」
腫れ物を扱うかのように一瞬だけ男は躊躇したが、ジェスビスの赤い瞳に嫌悪感を露わにして彼を殴り倒した。頭の中で鈍い音と母の悲鳴が混じり合い、ジェスビスは意識を失った。
光を見たのはいつだったか。
牢獄の中で鎖に繋がれ一人。母はいない。無事だといいと願うが、瞬いた母との日のことを思えば、それは望み薄だと悲観する。
男も女も老人もこの場所にきたが、向けられたのは総じて憎悪だ。訳の分からないことを言う彼ら。
『終焉の子』『気持ち悪い眼球持ち』『鍵は、どこだ』
(鍵……)
何度も問われたことだが、ジェスビスには思いつくものがない。母が使っていたものは小さな家の鍵のみだ。知らないと答えれば、殴られ蹴られ、酷い時には金物を振り下ろされた。瞳と同じ赤色が飛び散り、彼らは慄いた。
(自分達でやっておいて……そんなに赤色が嫌いか……)
自分の血で塗れた床は酸化して黒くなっていた。
(終わりは、自分で、選んだ方がいいのか?)
黒い床を見つめながらジェスビスは一つのことを考える。終わりの見えない地獄ならこの手で終わりにしよう。
息を吐き出し開いた口から舌を出す。
鼓膜が鍵の開く音を拾う。
「犬の真似事かぁ?」
母を殴ったあいつだと思う前に、拳が頬にめり込んだ。口の中で鉄の味が広がり、思わず吐き出す。
「おい、こいつを連れて行け」
壁と繋がっていた鎖が外れたが自由などなかった。髪を鷲掴みにされ無理矢理檻の中から出される。もう既に身体は限界を迎え痛みはなかった。ただ男に引きずられる形で歩を進める。
(何をした訳じゃない)
母と小さな家の中で二人、外の世界をほとんど知らないまま過ごしていただけ。
(生まれてしまったから。この目を持ってしまったから)
生を受けた瞬間から、罪人であるのなら、何故この世界は自分を創り上げたのだろう。
囚人のように連れて行かれた先には無骨な鉄の扉。重たい、錆び付いた音を軋ませ開いた向こう側は光に溢れていて、ジェスビスは中央に何があるのか最初は分からなかった。地下に閉じこめられていたせいで晴天の中の光は中々風景を映してはくれない。
「……え」
顔をしかめながら目を慣らしていると、中央にいる人物と目が合った。全貌がジェスビスの眼前に広がる。
「おか……さん……」
十字架に磔にされた母はジェスビスを見て微笑んだ。その顔に無情に振り下ろされる鉄製の棍棒。
「お母さん!!」
両腕を屈強な男達に掴まれ母のところにはいけない。
だらりと下がった首を無理矢理持ち上げられ母は呻いた。まだ生きていると安堵したがすぐにこの苦痛がいつまで続くのかと気が気でなかった。一度で済むはずがない。棍棒がまた振り上がり、宙で止まった。
「息子の前でなぶり壊されたくないだろう? なら言え、これが最期だ」
母の口から嘲笑じみた音が漏れる。男の眉根があがり、棍棒がまた振り下ろされた。割れる音と共に欠片が床に落ちる。
頭を押さえつけられ、目を逸らすことは許さないと指先の力で伝えられたジェスビスは絶叫した。
何も救うことの出来ぬ自分を呪った。
棍棒は無情に振り下ろされ続け、散らばった欠片がジェスビスの足下に転がる。
「鍵はどこだ!」
(また、あの、問いだ)
ジェスビスは駄々をこねるように頭を振る。母は沈黙したまま。
(知っていたら話したのに、俺は、何も知らない!)
分からない問いの答えを求めても無駄だった。答えはジェスビスの中になければ、ないのだ。ひっくり返しても奥底を見ても、無いものは、ない。母を救うことなど不可能なのだ。
「ねぇ」
不意に母の唇が弛緩した。頬は元の美しい肌を削ぎ落とし中身を晒している。それでも母は言葉を紡いだ。
「ジェスビス……」
息子の為だけに。形作られた唇は。
一際鈍い音がして、母の首が完全に項垂れた。
ジェスビスの絶叫が静かになった部屋に響いた。
月明かりが差す窓辺でジェスビスは目を覚ました。部屋として与えられた金魚鉢の向こうでは、カラフルな布に包まってニアが寝息を立てていた。
ジェスビスは音を立てずに金魚鉢から跳躍すると、窓辺から外に出た。外壁を伝い、ニアお気に入りの場所から眼下を見下ろす。欠けた月の光はどこか頼りなかったが、暗闇の中で誰もが穏やかに寝ていることは明確だった。
(それを壊すのが俺達)
背後で気配がしてジェスビスは振り返った。現れたのは想像どおり彼女だった。
「なかなかこの月も綺麗ね、ジェスビスちゃん」
「それって少しは愛してるってことか」
「難しいことを知ってるのね。貴方のことは少しじゃなくて、抱きしめてしまいたいほど大好きよ」
魔女は両腕で自分を抱擁して身をくねらせる。
「気持ち悪い」
「愛されてるって幸せなことじゃない」
「好いてる相手ならな」
「そう……そんなにニアちゃんがいいのね」
口を噤むと魔女は半目で口元にだけ笑みを浮かべた。
「それにしてもその体でどうするの?」
「やれるだけのことをするまでだ」
具体的にどうとかは分からない。それでも蒼の死神を止めることが出来るのは自分だとジェスビスは言い聞かせていた。人類を助けてやろうとか、そんな壮大なことじゃない。自分が気にくわないだけ、大切な人の復讐を代行したいだけだ。
「面白そうだから元の身体を返してあげるわ」
ジェスビスに目線を合わせて魔女は広角を上げる。
「その足じゃあの場所に戻ることなんて不可能でしょ? まぁ元の身体でもどうかしらってところだけど」
鼻腔に甘ったるい匂いが絡みつく。ジェスビスは瞳を閉じた。あの時とは違う感覚が襲ってくる。
殻を割るように。皮膚を突き破るように。過去の感覚が戻ってくる。
「ジェスビス、いきなさい」
魔女の言葉を背に、元の身体を取り戻したジェスビスは駆けだした。