4.ジャンクストリート
老人がふらふらとした背で車の進行方向とは逆へ進んでいく。誰も止めず、ニアはその背に手を振った。
彼の目的地は誰も知らない。しかしここで降りると言った時、ジェスビス以外はぎょっとせず、その言葉を受け入れていた。
最初から行く方向が一緒なだけで乗車していた仲だった。彼の焦点の合わない顔に一抹の不安が宿るが、この世界で別れは付き物だ。
ジェスビスの中に残ったのは花火とニアが『結婚したのよー』と報告した時の笑顔だった。
人数の減った車はそのまま人を増やすことなく、目的地へたどり着いた…………
人が、いっぱいいた。大都市を知らないジェスビスにとってこの人数でも大人数だった。
お椀状のコンクリートの中で人々はそれぞれの営みをしていた。共通なのは誰もが彩度の低い、上質とは言えない服を着ていた。襤褸同然の格好をしている者もいる。それでもその顔は死んではいなかった。
ジェスビスは人々の格好を見て、安堵の息をひっそりとはいた。地獄だった世界の者は真白い服に青い線が入ったものを共通して着ていたが、ここでは誰一人として着ていなかった。蒼い瞳や白い髪の者はいたが、共通して持っている者は見受けられなかった。見つけたとしてもきっと関係ない者だろう。
(雰囲気が全く違う)
ここにいる者たちは、生きていた。
トーワに手を引かれ、ニアは初めて来た世界に目を輝かせていた。
「ここ、元はゴミ箱だったのよ。見えないでしょ」
「大きなゴミ箱ね! でもゴミなんてひとつもないよー」
「あたし達が街に変えたからね。みんな余所から来た人達だからニアもすぐに受け入れられると思うよ」
元は廃棄場として使われる予定だったここは、結局紛争の方を優先させられ、完成間近でとある国に棄てられた。それを見つけたのは紛争で帰る場所を失った者達だった。エトとトーワも例に漏れず、しかも初期の頃からの住人である彼女達はトレジャーハントしつつ、自分達と同じ境遇にある者を見つけてはここ……『ジャンクストリート』に連れて帰っていた。
「部屋はあたし達と近いところがいいかな? それとも要望ある?」
「ジェスと一緒がいい!」
「そうねー新婚さんなら当たり前よね」
「そういう言い方するな」
「結婚式あげたんでしょ? こんなに可愛いお嫁さん他にいないわよ」
「面白がってるだろ……」
トーワは口元を覆ったが、目はどう見ても笑っていた。
「じゃ、ここをニアの部屋にしよう! あたしの部屋に直通できるわよ!」
話を切り替えるために声量を上げたトーワにニアは目をぱちくりさせた。
「部屋、ないよ?」
眼前にあるのはコンクリートの壁だけ。さすがにトーワはここで野宿しろなんて言わないだろうとジェスビスはニアの頭から身を乗り出したが、あるのは壁と床だけだ。天を仰げば蒼い空、天井はない。
「なんと! ここに部屋が!」
そう言ったトーワはしゃがみ込み床を拳で叩いた。痛くないのかとニアは首を竦めたが、トーワは平気な顔のまま反動で突き出た突起を掴むと引き上げた。一人一人分は簡単に入れそうな穴が開き……
「これがニアの部屋!?」
まるで秘密基地のように足下に部屋があった。
「この蓋はコンクリじゃないからニアでも簡単にあげられるわよ」
さぁどうぞ、と招かれた手に導かれるようにニアは縄梯子に手を掛ける。天井までの高さはあまりなくすぐに部屋の床に足が付いたが、それでもニアにとっては十分な広さがあった。小さく切り取られた窓からは空と荒野が見えた。
「すごーいすごーい!」
灰色の空間にニアの黄色い声が響く。
「横にある小さな扉を開けばあたしの部屋があるから、困ったことがあったら何でも言ってね」
「部屋、どんな風に使ってもいいの?」
「人に迷惑がかからないことなら」
「ニア良い子にするー!」
両手を挙げぴょんぴょんと飛び跳ね始めたニアから避難するように、ジェスビスは窓に飛び乗った。
(あの時が夢みたいだ)
流れ込んでくる風がジェスビスのつるんとした体を撫でる。
「ジェスー、ニアちょっと出かけてくるから留守番よろしくね」
「はいはい」
生返事をして微睡むように体を潰れさせた。お出かけのチューとか言われるかと一瞬思ったが、ニアの関心は別にあるのかあっさりと縄梯子を上っていった。
数時間後、ジェスビスが目を覚ました時、部屋は色鮮やかに変化していた。中心では満足そうに鼻を擦るニア。
「どうしたんだ?」
「町外れにあるゴミ捨て場から綺麗な布をもってきた!」
元廃棄場のゴミ捨て場なんて本当のがらくたしかないだろうに、ニアの持ってきた布はこの部屋に飾られるためにあったかのように色を蘇らせていた。
「で、ジェスにはこれ!」
含み笑いを浮かべながら背に隠していた物を窓辺に置く。端の欠けた金魚鉢には石と薄く水が入れてあった。
「ジェス用のお家」
いらないな、と思いながらも跳躍して金魚鉢の中へ入る。これぐらいのファンサービスはいいだろう。
ニアは頬を手で押さえてきゃーと歓喜の声を上げた。
「ジェス、一緒にいようね」
おう、とこぼした言葉はガラスの膜によって届かなければいいとジェスビスは思っていた。
お椀状の中心、一番深いところでは朝と夜に人が集まる。これで全員だろうと思う人は列をなし自分の番を思い思いに待っていた。
この街でご飯は配給だ。電力も食材も紛争のせいで少ないこの場所ではこれが一番効率がよかった。元々満足に腹に溜めたことのない人の集まりである、最初の頃に来たものは暖かい物を食べられる喜びに涙した者も多い。
ニアは全く逆の顔で、わくわくした気持ちをさらけ出して配給場に並んでいた。頭にはジェスビスを乗せていて今日も一緒だった。
「ジェスって苦手な物ある?」
「ない」
「そうなんだーニアもないよー」
前を並んでいた男が振り返りきょろきょろと辺りを見回すのを横目で見ながら、ジェスビスはニアの頭の上で潰れた。多分彼はニアの他に聞こえた声の主を探しているのだろう。カエルが喋っている事実は必要であれば話せばいいとジェスビスは思っていた。無駄に広げる必要はない。
配給に立っていたおばさんは、ニアが元気よく皿を出すのに微笑んで少しばかり多くよそっていた。
「ここで食べるのは気持ちいいね」
お椀状の一番上、ニアはご飯を貰うと必ずここで食べていた。あつあつのご飯は少しばかり冷めてしまうが彼女は気にせずここを選んでいた。
風はニアの髪を揺らし、空は一番近くにあった。下を見れば貰ったばかりのご飯を食べる人々が米粒のように見える。
「はいジェス、あーん」
スプーンで掬った雑炊をニアはジェスビスに分け与えた。
「美味しい?」
「美味しそうね」
頷こうかと思ったが、思わぬ声にジェスビスは反射的に身を捻った。
(何で今現れた……!?)
紅をさした口元がにやにやと形作っている。あの時と全く同じ姿。胸を強調した服に自信ありげな顔。
「おねーさんももらってくればいいよー」
ニアは相手の異様な気配が全く気にならないのかにこにこと魔女に声を掛けた。
「お姉さん?」
「うん、おねーさん。綺麗なおねーさんよ」
「なにこの子、可愛い!」
魔女はそう言い出すと突然ニアを抱きしめた。
「……社交辞令にはしゃぐなよ」
「ジェスビスちゃん? 貴方がタイプじゃなければ今頃消し炭よ」
振り向いた顔は笑顔だったが、どす黒いオーラを纏っていた。おばさん、と言ってやろうとか思ったがひっそりとその言葉は呑み込む。
「ジェス知り合い?」
「こいつが俺をこの姿にした原因」
「?」
「魔法の旦那様ってことよ」
「うん、ジェスはお婿さんだよ」
「……ってお前何でそのこと知ってるんだよ!?」
スルーしそうになり慌ててツッコんだ。ジェスとニアが挙式をあげたことはあの車に乗っていた者しか知らない。トーワが言いふらすとも思えない。
「見てたから」
魔女はあっかんべーをするように瞳を指差した。
「末恐ろしい奴」
「おねーさん、ニアはもう少しで食べ終わるけど、ご飯一緒に取りに行く?」
「いいわ。それよりもジェスビスちゃん少し借りても良いかしら?」
「ニアが帰ってくるまでならいいよー」
(待ってくれ! こいつと二人きりにしないでくれ!)
しかしニアはいつもの調子でジェスビスの心情には気づかない。魔女はにやにやしながら彼女が食べ終わるのを静かに待っていた。
ジェスビスはせめてもの抵抗に睨み続ける。
(ニアが消えそうな時になったら頭に飛び乗ってやる)
そう決意したのに……
「ごちそうさま!」
ジェスビスが跳躍した瞬間に赤く塗った爪が襲いかかり、彼の体をその手に納めた。見上げる位置に『逃げるのは許さない』とにやつく顔。
「おねーさん、ジェスをよろしくね」
「おい、ま、ちょ」
「危ないからゆっくりでいいわよ」
手の中で抵抗するががっちりと掴まれていてとても逃げることはできない。
小さくなっていく背から『はーい』と声が聞こえて、ジェスビスは泣きたい気持ちだった。
「お嫁さんとずっと一緒がよかったかしら?」
「お前と一緒がイヤなんだ!」
「久しぶりなんだからそろそろ愛の告白が聞きたいのだけど……お嫁さんがいたら不倫よね」
「しねぇよ!!」
「あら、こんなに否定してくれるなんて彼女は幸せ者ね、妬いちゃうわ」
「お前に告白なんてしねぇって言ってんだよ!」
「心変わりがあるかもしれないでしょ。可愛いロリ奥様から」
「デカ乳ババアなんていかねぇよ」
魔女は一瞬だけ表情を崩してジェスビスを指先で弾いた。頭の中で光が瞬いてくらくらする。
「ジェスビスちゃんは良かったわね、私好みの顔をしていて。じゃなきゃ今頃頭は破裂していたわ」
ぐっと睨みつけるが、有利なのは完全に魔女だった。今の状況がそのまま力の差を表現している。きっと全ては魔女の手の上。生かすのも握りつぶすのも彼女の気持ち次第だ。
「ねぇジェスビスちゃん、刺激が足りないんじゃない?」
甘く囁く声は毒だ。
「俺は今の生活で満ち足りている!」
「本当に?」
真っ赤な唇を舌なめずりして魔女は呪文よりも呪詛と云った方が正しい言葉を紡ぐ。
「退屈じゃない? 貴方には力があるのに? ねぇ、生きてるものって『生きてる』って実感がないと死んじゃうのよ。体は例え入れ替えて延命しても心が枯渇してしまえば、それは死んでるのと同意なの。貴方は」
「あの世界にいた奴に聞くことか? 俺が生きているのは今だ、お前、ニアに何かしたら許さないからな」
「あんなかわいこちゃんに何かするほど私の心は枯渇してないわ。でもね、共有している以上、私はおもしろいものを見たいのよ」
「共有?」
「さっき言ったでしょ。私は貴方の見ている風景を見ているのよ。貴方のその瞳に映る風景は私の瞳にも映るの」
「気持ち悪い」
「私は貴方に面白さを見いだしてやってるの。あまりにもつまらなかったら……どうなるかしらね?」
魔女が目線を逸らしたところで足音を響かせてニアが戻ってくる。
彼女が言いたいこと……ニアがどうなるか貴方次第。
(そんなことを言っても俺にこれ以上何をしろってんだ)
『真実の姿を』
真の姿はこれではない。しかし、元の姿に戻せるのは目の前にいる女だけだ。
(何かあるっていうのか?)
「私を楽しませてよね」
「断る権利は」
「その人の生まれた意味って本人の意志とは別にあったり……なかったりね」
「お前って予言もできるのか」
「それは専門外かな? 私の手の中に納めることはできるけど」
ぱたぱたと駆け寄ってきたニアは難解なことを喋る二人にただ目をぱちくりとさせ首を傾げた。
「ジェス返してもらってもいい?」
「どうぞ」
彼女の手から離れても安堵はできなかった。いつまでも魔女の手のひらの上。最悪な者に救済された。