2.荒野
鮮やかだった世界はいつの間にか一転していた。ジェスビスが断片ながら知る世界は蒼と白しかなかった。白い壁に蒼い屋根が連なる家々。そしてそこに住む人々も蒼と白を纏っていた。髪の色は白か、白から蒼へのグラデーション。瞳は必ず蒼。ジェスビスの持つ瞳は唯一あの世界の中で赤だった。
母はそれを庇ってジェスビスを極力家から出さなかった。存在すら、呼吸を押し殺すほどにないものとした。
不満がなかったといえば嘘になる。それでも見つかって牢獄に入れられた後のことを考えれば母の選択は間違ってなかったと思う。それよりも後悔することは、この色の瞳を持ってしまった自分だとジェスビスは再生された『あの時』を思い、頭を振った。
(しっかしここは何もないな)
広がるのは雑草すらまばらに生える程度の荒野だった。太陽は出ていたが風景のせいか寒々しく感じる。カエルだからか? と一瞬だけ別なことを考えたが、それだったらとっくに干からびていたかもしれない。飛び跳ねてきた距離は計り知れない。
このまま、魔女の力でとこまでも行けると思ったが、明らかに跳躍距離が縮まっていた。足の感覚はもうない。疲れに気づいてしまうと平べったい口から息が漏れた。
もういいかな、と思ったところで潰れるかのように地面に這い蹲った。もう、ジェスビスに動く気力は一ミリもない。
「カエルさん?」
頭上から振ってきた声にゆるゆると首をあげる。
少女の大きくきらきらした瞳があった。
「カエルさんだぁ!」
少女はカエルの体勢になり、ジェスビスと同じ目線になって『ゲコッ』と一声鳴いた。
「カエルじゃない。ジェスビスだ」
見た目はカエル同然だったがジェスビスは訂正せずにはいられなかった。この姿は不可抗力だ。
少女は大きな瞳で一回まばたきをすると、歓声を上げた。頬を高揚させてジェスビスの体を両手で持ち上げると間近でまじまじと見つめる。
「カエルさんは喋れるのね」
「だからジェスビスだ!」
「ジェス…………あたしはニア!」
「何で略すんだよ!」
なんかツッコミ役が体に付いてきたなとジェスビスは溜め息を吐いた。魔女といい外の世界にはボケた奴しかないのか?
ニアは目を輝かせたまま駆けていく。
「エト!」
呼ばれた青年は水を口に含みながらニアに振り向く。
「この子ペットにするよー」
「あ? ペ……何だよそれ! 捨てろ!」
「何で?」
「そんな色のカエルなんて毒持ってるだろ、毒! いい子だから捨ててくれ!」
「持ってねぇよ!」
男のくせに情けなく慌てふためていたエトはジェスビスの声に固まる。
「今、喋りました?」
「この姿は不可抗力だ」
「ニア。俺は触れてもいないのに毒にやられたみたいだ」
そういうと頭に手を翳しよろよろとしゃがみ込む。カエルが喋ったという事実はあまりにも衝撃的すぎた。
「だから毒なんて持ってねぇって!」
「可愛いよー」
ねぇ、と同意を求めたニアにジェスビスは唸りながら睨んだ。可愛いなんて言われるなんて恥だ。それも不本意に手に入れた体なら余計に。
「エト、もう少ししたら出たいんだけど……どうしたの?」
それぞれがそれぞれに言いたい放題やりたい放題な中に入ってきた女はぐるりと見回すと、とりあえずとエトの肩を叩いた。
「俺はもう駄目みたいだ……」
「おーい、死ぬなー、運転手ー」
女は棒読みで言葉を続ける。
「元からダメダメだから安心しろー」
「お前って時々ヒドいよな」
「そう?」
「そこは心配するでしょ、普通」
「返答しっかりしてるし。それにエトだし」
「後半おい待て」
「エトー、ニアはこの子ペットにするよー」
「そいつは幻覚を見せるから捨てなさい!」
「現実見ろよお前」
ジェスビスが口を開くと女は目を丸くしてニアの手にいるカエルをのぞき込んだ。
「今、喋った?」
「喋った」
「ジェス喋るのー。可愛いでしょ?」
「だから略すなって。ジェスビス」
女はおそるおそる指先でジェスビスの体に触れる。エトが後ろから『毒が回るぞ! やめろ!』と喚いていたが、彼女は気にとめずぷにぷにと突っついた。
「うん。冷たくて気持ちいい」
「保冷剤にするなよ」
「それよりも喋るカエルでーす、って芸させた方が儲かる」
「ジェス売っちゃダメ!」
女の真面目なトーンにジェスビスは悪寒を覚える。ニアが言ったとおり最悪どこかへ売られる可能性がある声色だった。
彼女の涙目に『冗談だって』と女は苦笑を漏らした。
「売らずに飼いながら芸をさせる方が儲かるからね」
「ジェスはニアのペットなの」
「・・・・・・飼うのは決定なのね」
エトはぼそりと呟きながら伸びをする。
ジェスビスはそっと三人の顔を順に見た。こいつらの関係は親子か? と思ったが、とても顔は似ていないし、大人といえどエトと女は若すぎる。兄弟という線もないだろう。
共通点は見えないが仲のよい三人にジェスビスは少しばかり気を許していた。あの日々とは比べものにならないぐらい平和だ。
その時、金物を拳で叩く音がした。
「おっさんやめてくれ!」
焦点の合わない老人が金属の塊に乗っかり、金色に輝くボディを叩き続けていた。
「もう少しで行くからな! だから叩くのやめてくれ! そいつはデリケートなんだ!」
エトの嘆きに女とニアは互いに顔を見合わせ肩を竦ませた。
車という単語すら知らなかったジェスビスにとってその速度は目眩がするほどだった。しかしニアの頭に乗っかり風を浴びているうちに慣れてきた。
その車に天井はなく、運転席と助手席だけがあった。それぞれにエトと女は――――トーワというそうだ――――座っていた。彼らの前には奇怪な大小さまざまなボタンとハンドルがあり、エトは器用にそれらを使い安全で快適な車内を保っていた。
荷台部分でもある車体にニアは頬杖をついて流れていく風景を見ていた。
「何もねぇな」
頭の上でだらけていたジェスビスはそうこぼす。
先ほどから風景は荒野から一転しなかった。
「うーん? 木があるよー」
「そういうんじゃなくて……」
「木が増えれば林、林が増えれば森じゃぁぁ」
焦点の定まっていない老人は外見どおりにイかれていた。ジェスビスは老人の言葉を無視して瞳を閉じた。
エトがボタンを上げてスイッチを入れた。スピーカーから複合音声が流れる。
『××王国は蒼の死神の増員を決定いたしました』
「蒼の死神ねー……」
エトの呟きは風に煽られ消える。
「お偉いさんはいつまでドンパチやってるつもりかね、クソが」
「ドンドンドンパチ、ドンパチパチ……同じドンパチなら花火がいいぞぉぉ」
「花火?」
「夜空に大輪の花だぞ、綺麗だぞぉ」
「…………うるせ」
ぼそりと呟いたジェスビスをニアは両手で掴み目線を合わせる。
「花火って知ってる?」
「しらね」
「そっかー。ニアも一緒」
仰いだがあるのは高すぎる晴天だけだった。夜には満天の星空が見れると思うが、大輪の花がある空間は想像できない。
「艶やかなんだぞぉ。おうおう、そのカエルみたいにカラフルなんだぁ」
「ジェスビス」
何度も言っているがこの老人はずっと『カエル』と呼んでいた。見た目は言われるとおりカエルなのだが……
「白に蒼、それに赤色だぁ。そういやカエルのその赤はドロップみたいだの」
老人は皺だらけの指先でジェスビスの瞳に触れようとして、彼は慌ててニアの腕に飛び乗った。彼の行為は読めず、眼球を抉り取られる危険もある。バクつく心音を聞きながらジェスビスは老人に唸った。
「ドロップ?」
「あっまいお菓子だぁ」
「ジェスの目も甘い?」
「甘くねぇよ! 舐めようとするなよ!」
ジェスビスの然りの一言でニアは出しそうになった舌を慌てて引っ込めた。
(甘いもんじゃねぇよ……呪いだ)
敵の囃し立てる声が脳内でこだまする。飴だったら人を幸せに出来るだろう。しかしこの瞳は不幸しか連れてこない。
(あの魔女、瞳の色はそのままにしやがって)
舌打ちしたい気持ちだった。変えてくれればどれだけ気軽なものだろう。
ジェスビスの負のオーラを気にせずニアは多方面からのぞき込んだ。
「でも綺麗ね」
そっと胴を撫でられる。その手の優しさが誰かに似ていて、ジェスビスはそっと溜め息をこぼし、彼女に身を委ねた。