史明の追憶 後編
濁流に翻弄されて意識を失った珀輝の頬に、何かがそっと触れていた。
どこか躊躇いがちなようでいて、労わるように優しく。誰かが倒れた彼の頬を撫でている。
その慈しむ様な暖かさと、彼の全てを受け容れ包み込むような気配がまるで、白龍王から貰った大切な記憶を再生しているかのようで、しばらくの間彼は目を閉じたまま、その感触に身を任せていた。
『黒龍の子』である彼を、こんな風に大切に扱う者は、この世にたった一人しかいない。
(・・・白龍王・・・?)
馴染みのある、眩いまでの純白の気に、珀輝の胸がとくん、と高鳴る。
けれども、まるで夢を見ているような心地で薄目を開けた彼の前に、王の姿はなかった。
代わりに、龍宮では見たことが無い、美しい黒髪の貴婦人が、心配そうに彼に寄り添っているのが視界に入って来る。
それが求めていた彼の人ではなかったことに落胆し、再度目を閉じた珀輝だったが、直ぐにあることに気付くと、再び心臓の鼓動が大きくなる。
(この気・・・やはり、白龍王に似ている・・・)
旺劉には山ほど子が居たから、彼女が彼の王女の一人だったとしても不思議ではない。
もう一度彼女の顔をよく見ようと頭をもたげると、優しく彼を撫でていた繊手がびくりと引っ込められた。
驚いた様子で彼を見詰めているその花顔が、やはりどこか白龍王に似ているような気がするのは、己の願望が見せる幻覚なのだろうか・・・。
軽い興奮と失望を同時に味わった珀輝はしかし、彼の周囲の異様な空気にようやく気が付くと、とたんに警戒心を強めた。
(ここは、どこだ・・・?!)
薄闇の中、遥か彼方に、朱色に輝く巨大な物体が土から頭をのぞかせている。龍宮周辺とは違う乾いた空間に、見たこともない草。どこまでも続く水が無い世界・・・。
辺り一面の平野に、無数の屍が強烈な腐臭を放ちながら転がっていた。ある者は首が無く、ある者は既に顔が判別出来ないほどに朽ち果てている。良く見ると土や草にも、所々にどす黒い塊が付着していた。恐らくここは戦場だったのだろう。
ということは・・・。
(ここは・・・人界か!)
白龍王は珀輝を旺李から逃がす為に、龍界に張り巡らせてあった結界を一気に破った。
結界がなければ、龍宮周辺のまるで空気の中で自在に泳げるような空間は、一気に水没してしまう。それによって龍達が死ぬことはないが、旺李の攻撃から珀輝を守るには絶大な効果があった。
(白龍王・・・)
珀輝を庇い、振りかざされた旺李の剣先に躍り出た偉大な王の背を、旺李の剣は容赦なく斬り裂いた。
王の骨肉を絶つあの音と光景を、彼は一生忘れられないだろう。
(あの剣は、ただの剣ではなかった・・・)
あれは、旺李がいつも自慢していた神剣だ。
「この神剣で、俺はいつでも黒龍を殺すことが出来るんだ」と、よく旺李は彼に誇示していた。
『自分がその気になれば、お前を葬ることが出来るのだ』という、あからさまな脅しを込めて。
いくら頑健な白龍王とはいえ、神剣で心の臓を斬り裂かれて生きていられる筈がない。
(我のことなど放って置けばよかったのだ・・・)と、珀輝は心の中で泣いた。
彼を拾って以来、王はただひたすら珀輝に全てを与えて来た。
どこの馬の骨どころか、黒龍の子であるかも知れない彼に、食事と住む家を与え、教育を施し、愛情を注ぎ、あげくの果てには王族の身分まで与えて、当の珀輝から呆れられたほど惜しみなく、見返を求めずにただ与え続けた。
そして、ついには彼自身の命でさえも・・・。
白輝はこれまで何一つ、王への恩に報いるような物を返せてはいない。
そのことがもどかしく思えて、ある日「いつか必ず恩は返すから」と、つい本音を口に出してしまったことがある。
王は少し驚いたような、それでいて嬉しそうな顔をして、「そうか。では、老後の世話はお前に任せるとでもするかな」と、ただ笑っていた。
その反応がまるで、はなから期待されていないようにも感じられて、思わず憮然とした態度で「一体あと何千年後の話しだ・・・」と、初めて口答えをしたのを覚えている。
けれども王は諌めもせずに、彼の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「心配せんでも、あと一万年は生きるつもりだから、覚悟しておけ」そう言いながら、再び眩しい笑顔を向けて。
まるで、この先一万年もの間ですら、王の傍で生きていて構わないのだと言ってくれているかのように。
今思えば旺劉には、例え何千年後でも、それこそ何万年長生きしてもらったって構わなかったのだ。
ついに恩を返すことが出来なくなってしまうよりは・・・。
「気がついたのね?」
目の前にいる娘が、白輝に話しかけてきた。
美しいが、随分とやつれた風貌の彼女が、微かに微笑んでいる。
「よかった・・・傷だらけだし、ずっと起きなかったから、もうダメなのかと思ったのよ」
(彼女は・・・龍なのか?それとも『人』なのか?)
龍ならば、珀輝の灰白色の鱗を見て接触を避けるだろうし、人ならば、龍を恐れて近付かない筈だ。
彼女からは確かに、人ではない気を感じる。白龍の王に似た、気高い白光のオーラ。
だが龍である珀輝に対して、彼女は明らかに人の言葉で話しかけていた。
(彼女は、もしや・・・?)
人間は、幼龍達にとっては警戒すべき相手だ。
小さな龍達は皆、成龍になって空を自由に飛翔出来るようになるまでは、決して人界に行ってはいけないと言い聞かされて育つ。
人間は成龍には怯えて逃げ出すが、小さな龍を見付けると、生け捕りにしたり、殺してその皮や角等を高値で売りとばしたりする、危険な存在だからだ。
ふと見ると、彼の体には、その姿を覆い隠すかのように大きな布が数枚掛けられていた。いつの間にか体の傷もきれいに洗われており、どうやら薬も塗ってあるようだ。
一体己がどれだけの間こうしていたのかは分からない。だが、今も自分が人界で殺されずにいるのは、彼女のおかげなのだろうと、おぼろげながらも彼は理解した。
少なくとも彼女からは、微塵も悪意を感じない。それどころか珀輝は、慈しむように彼を撫でていた彼女の手を、白龍王の物かと勘違いしたほどだ。
彼を人界に連れて来たのは誰だか分からない。恐らく厄介者の彼を、この機会にこっそり葬り去ろうとした、龍宮の者だろう。
だが、そんな事はもう、どうでもよかった。
旺劉の居ない龍界になど、未練はない。それに例え戻ったところで、あの旺李のことだ。すぐさま珀輝に白龍王惨殺の濡れ衣を被せるに決まっている。
旺李が龍王になる姿を想像すると、ぞわりと悪感が走った。
(この先そんな悪趣味な物を見なくて済むのが、不幸中のさいわいだな)
何れにしろ、己の命はもう長くはない。あの世で再び旺劉に会うのも時間の問題だろう。
今の彼にはそれが、むしろ唯一の楽しみであった。
黙りこんでいる珀輝に、娘が心配そうな様子で再度話しかけて来た。
「苦しいのかしら・・・?大丈夫?」
不思議な娘だ、と珀輝は思った。彼が死のうが生きようが、彼女に関係などない筈なのに。
もう百年以上は軽く経っただろうか。初めて白龍王と出会った時のことを思い起こす。
『大丈夫か、ぼうず!』
一目その姿を見た時、内心とって喰われるかと焦った位に、立派な体躯をした旺劉。
目の前で珀輝の瞳を気遣わしげに覗き込む彼女の瞳が、何故か当時の旺劉の真摯な優しさに満ちた瞳と重なる。
龍族は感情が希薄なのだ、と以前王から教えて貰ったことがある。
珀輝は中でもとりわけ感情表現に乏しいが、対称的に白龍王は、有り余る感情を抑えるのに苦労している、と密かに打ち明けられたこともあった。
旺李の方は残念ながら、父王からは負の感情の激しさだけを受け継いだらしい。
懐かしい瞳を思い出しながら、珀輝は娘の脳裏に直接語りかけた。
((そなたは、誰だ。なぜ我にかまう?))
驚いた娘がつい、左右を見回した。
彼女の周囲には、他に誰も居ないと確認すると、ゆっくりと彼女の視線が珀輝に戻って来る。
彼の目を真直ぐ見詰めたまま、彼女が言った。
「今のは、あなたね・・・?私の名は宝珠。白華族の白華帝の妻よ。先日黒華族との戦で行方不明になってしまった夫を探しているの」
『行方不明』と言ったが、この戦場にはもう明らかに、生きている人間は他に居ない。
つまり彼女はここへは、夫の死体があるかも知れないと思ってやって来たのだ。
「あなたをどうこうする気はないから安心して。私の家・龍家ではね、祖母が龍の嫁になったという伝い伝えがあるの。だから放っておけなかっただけよ・・・」
そして、悔しいとも悲しいとも区別がつかないような表情で、彼女が付け足した。
「本当に私が龍だったら、どんなに良かったかしらね」
それは間違いだ、と珀輝は思ったが、口には出さなかった。
龍族が人間達の戦に手を貸すということは、王ですら絶対にタブーだ。他の神獣達とて同様だろう。
もしも例外があるとすれば、それは・・・。
(黒龍・・・・・・)
どこからやって来るのかも分からない、呪われた黒い龍くらいのものだろう。
旺劉は以前、人界に今、何かが起こっていると話していたことがある。
最後に彼に会った日、旺李は彼が人界から戻って来たのだと言っていた。
王がここに来ていた理由は、この戦と関係があったのだろうか・・・?
自然に、珀輝は宝珠に訊ねていた。
((そなたの祖父の名は何という?))
「旺劉よ」
灰白色の小さな龍の心臓が一瞬、ドクン、と大きな音を立てて止まった。
(だが、旺劉という名の人間は、他にも大勢いる筈だ)
彼女の気は、確かに白龍王のそれと似ている。だが、彼女は紛れも無く人間なのだ。気が似ているというだけで、彼の孫と断定するには早すぎる。
(我はあまりにも彼に会いたいが故に、彼女の中に彼の血脈を見出そうとしているだけなのかも知れない・・・)
いつもの自分らしく冷静にならなければ、と彼は焦った。
あの、周りに与えることしか知らない王は、どんなに激しく求めたところでもう帰っては来ないのだから。
ドクン、ドクン。
何度言い聞かせても静まらない、激しい鼓動が鳴り響いている。まるで彼の全身が心の臓と化してしまったかのようだ。
(我はもうすぐ旺劉のそばへと逝こうというのに・・・!)
今更ながら、自分は狂おしいまでに彼に会いたかったのだと、珀輝は気付いた。
堰を切って溢れて来たような感情が、止められない。
王の面影を彼女の中に求めようと足掻く己を押さえ切れずに、彼はいきなり宝珠に向って理不尽な問いを投げかけた。
((我の命はもう長くはもたない・・・そなたの命を我に分けてはもらえぬか))
あの旺李ですら、見ず知らずの娘にこんな非情なことを頼みはしないかも知れない。心のどこかで珀輝は、そう自嘲した。
「・・・あなたに命を分け与えたら、私は死ぬの?」
((死にはせぬ。だが、確実に命は短くなる))
別に今さら生き長らえたかった訳ではない。
今すぐにここで白龍王の欠片にでも会えるのならば、命など惜しくはなかったのだから。
実際に彼女の命を奪う気など、毛頭無かった。ただもう一度、旺劉という存在の残照を目にしてみたいが故に、万に一つ程の儚い望みをかけて、彼は試してみたのだ。
彼の仕打ちと同じ位、手ひどい拒絶と罵倒が返されるのを覚悟していた珀輝にしかし、彼女は笑って答えた。
「いいわ」
((・・・?!))
ドクン、と彼の心臓が一際大きな音を立てて波打った。
「いいわ。それであなたが助かるのなら」
((・・・・・・白龍王・・・!))
珀輝の全身が、いつの間にか震えていた。
こともあろうに彼女は、彼が一番切望していた返事を、いともあっさり差し出してくれたのだ。
まるで、珀輝が敬愛してやまない、惜しみなく全てを彼に与えてくれた、あの白龍王のように。
この日、傷付いた小さな龍は、宝珠とある約束を交わすと、ほどなく彼女の前から姿を消した。
宝珠はその後『白龍姫』と呼ばれるようになり、龍家に更なる繁栄をもたらしたが、その名称の真の由来は誰も知らない・・・。
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珀輝が人界で宝珠と出会ったその頃。
龍界の暗く冷たい牢獄の中で、彼は独り呟き続けていた。
「許さない……珀輝だけは絶対に許さない…………!」
生きてここを出られる日が来るかは分からない。だが、もしも今一度彼がチャンスを与えられたのならば。
(その時こそは珀輝に止めを刺してやる……!)
継嗣であった自分を裏切り黒龍の子を選んだ、父の白龍王とともに。






