(第二部) 史明の追憶 前編
水底にある不思議な空間の中で、彼は静かに血を流しながら横たわっていた。
灰白色の小さなその体が、激しい怒りに震えている。
到底勝ち目は無いと分かっている筈なのに、失血で朦朧とした頭をもたげ、毅然と起き上がろうと足掻いている。
その姿を嘲りながら、周りを囲む小龍達が、新たな一撃を彼の喉元に叩きつけた。
再び仰向けに倒れ、身体を捩り咳込む苦悶の表情を眺めながら、小龍達から歓喜の声が上がった。
「やったぜ!黒龍の子をやっつけたぞ!」
だが、彼等の興奮も長くは続かなかった。
ズルリ。自らの血で赤黒く汚れた地べたを這いずりながら、灰白色の小龍が、視線を彼等に定めながら進んで来る。
ズルリ。額から流れて来る血が右目に入り、真赤に染まった彼の眼に射抜かれた小龍達の背筋に、次第に言い表しようのない悪感が忍び寄る。
何か得体の知れない化け物に相対しているような錯覚が、圧倒的な力をもって弱者をなぶる興奮に支配されていた彼等の心底を、急速に冷やして行く・・・。
彼等は今更ながらに、自分達が何をしでかしているのかに気付き始めた。
そう、彼は不吉な黒龍の息子なのだ・・・。
「・・・・ひいっ!」
それまで他の龍の背後から覗き込んでいた深緑の小龍が、小さな悲鳴を上げて人形に姿を変えると、龍宮へと向かって駆け出して行く。
ズルリ。もはや立ちあがる力さえ残されていない筈の血だらけの龍が、真直ぐに彼等を見据えたまま、無言で迫って来る。
「ま、まずい。これ以上痛めつけたら死んじゃうよ」
一頭、また一頭とその場を去ってゆく中。ひときわ体の大きな白い龍が、ずいと前に進み出ると、大声で皆に向って言った。
「おい、こいつまだ懲りないらしいぜ!誰か人界にでも捨てて来いよ。そうすれば金輪際こいつの生意気な顔を見なくてすむ」
「でも旺李、いくら君が白龍王・旺劉様の長子だといっても、僕等は皆、成龍になるまで人界に行くのは厳禁なんだよ。それに、このまま人界へ捨ててきたら、こいつ今度こそ本当に死んじゃうよ!」
「おまえ達、みんな臆病だな。こいつには黒龍の血が混じっているんだぜ。龍宮に置いて居たら、いずれ禍の元になるに決まっている。さっさと人界に追いやる方が後々の為さ」
「じゃあ、君がやりなよ。僕達は黒龍を殺して呪いを受けるなんてまっぴらだからね!」
旺李の傍らで同じく人形に戻った紅龍が、腰に手を当てて彼に焚きつける。
その時。
ズルリ。旺李の正面まで近付いた小さな灰白色の龍が、僅かながらも頭を上げて、彼の目を見上げた。
『殺すなら、殺せ』
死への恐れを打ち消す強い意志を宿した瞳が、そう旺李に語っている。
「ひっ・・・!」
これを見て肝を冷やした紅龍が、びくりと飛び上がった。
だが、視線を真っ向から受け止めた旺李の方は瞬時、自身の瞳に憎悪の炎を宿すと、不遜な目で彼を見据える龍の顔に、長い尾で一撃を加えた。
小さな龍の頭が、地べたに叩きつけられ動かなくなる。
「この、死にぞこないめ!父上の温情をいいことに付けあがりやがって!龍王の息子である俺様に対して、よくも・・・よくもそんな不遜な態度を!」
彼の鋭い爪が、今度こそ灰白色の龍の息の根を止めるべく振り上げられた、その時。
彼の背後から、龍宮を揺るがす程の咆哮がとどろき渡った。
「何をしておる!」
小龍達の頭上に差していた弱い光が影に飲まれ、視界が薄闇に飲まれたかと思うと、代わりに白く巨大な鱗をまとった白龍の胴が現れ、旺李の体を突き飛ばした。
「まずい!龍王様だ!」
次々と人形に戻り、散り散りに龍宮へと逃げて行く小龍達には目もくれずに、龍達の王は真直ぐに息子の目を睨みつけている。
幾千年もの歳月を経た堂々たる体躯は、それ自体が絶対的な威厳を放っており、いまだ成龍ですらない旺李など、比べて見れば赤子のような存在だ。その偉大な龍王の尋常でない憤怒の様子を悟った旺李は、さすがに顔色を変えて起き上がると、しぶしぶ人形に姿を変えた。
横柄な言動とは裏腹に、青年姿の旺李は白皙の見目麗しい青年だ。だが、白龍の化身そのものといった端麗な容姿すらも、苛烈で残忍な彼の瞳の光だけは隠し切れない。
白龍王も彼に合わせて姿を変えると、見る者に圧倒的な畏怖を感じさせる壮年の偉丈夫が、憤怒も露わに我が子を見下ろしていた。
足元に転がっている薄鼠色の龍を一顧だにせず、旺李が白龍王に礼をとる。
「父上、人界へ行かれてたにしては、随分早いお帰りですね。やはり龍華祭の準備の為ですか?」
「・・・・・・」
龍王は息子に向ってただ眉をひそめると、無言でその背後に横たわっている瀕死の龍に近寄って行き、その傍らに膝をついた。
「父上?そいつなら心配ありませんよ。父上がいらっしゃったものだから、憐みを誘おうとして、大袈裟に死にそうな振りをしているだけです」
王の背中に向って話しかけている旺李は、父の表情がますます険しい物になっていることには気付かない。
白龍王は、深い憐憫と慈愛を込めた瞳でそっと傷付いた小龍の頬を撫でると、苦しげな声で一言小さく呟いた。
「すまぬ・・・珀輝よ」
珀輝と呼ばれた小さな灰白龍は、首を横に振ろうとして頭を持ち上げかけたが、その力さえも無いのが分かると、代わりにそっと両眼を瞑って見せた。
再び開いた彼の双眸には、痛みを堪えながらも王への敬愛と思慕の情が映されている。それが彼の王に対する、精一杯の返事だった。
王の背後から、旺李の不満そうな声が聞こえて来る。
「父上、なぜ貴方がそいつに謝らなければならないのです?!そもそも何故、父上はこんな黒龍との混血児などという不吉な者を、養子になどしたのですか?!父上には私を始め、既に多くの息子がいらっしゃるというのに!」
「珀輝に黒龍の血が混じっているというのは、ただの噂だ」
「ただの噂、ですか?!この、紛れもない灰色の鱗が?!少なくともこいつは白龍ではありません!いくら父上が自ら拾われた孤児だからといっても、白龍王の息子になる資格など、到底ある筈がないんです!」
珀輝は半ば沈みかけていた意識の中で二人のやり取りを聞きながら、この時ばかりは旺李の言い分はもっともだと心から賛成した。
彼は物心ついた時から、餓死寸前のところを白龍王である旺劉に偶然拾われるまで、ずっと一人だった。自分の両親が誰なのかも、自分が本当は何者なのかも分からない。
龍宮に住まう龍族達は皆、基本的に原色しかいない。だから自分のような灰色の龍はきっと、白龍と黒龍の間に生れたに違いないと、皆に言われるまま当り前のように思っていたし、それが何を意味するかということなど、深く考えてはいなかった。
少なくとも、はじめの内は。
黒龍が呪われた存在であり、忌避されるべき物だということは、日に日に大きくなる疑問から、すぐに察しがついた。
どんなに自分が皆に受け容れて貰えるように努力しても、どんなに冷たい目を向けて来る龍達に親切に振る舞っても、返ってくるのはいつも、手ひどい拒絶かいじめの、何れかしか無かったからだ。
白龍達のいじめは特に酷かった。白龍が黒龍と交わったという恐怖が彼等を駆り立てているのかも知れないと、ぼんやり理解し始めたのは、彼がもっと成長した、ずっと後のことだった。
『この薄汚い、不吉な黒龍の子が!』この罵倒を、幾たび白龍達から浴びせられたか知れない。
そんな中で唯一人、白龍王だけは違っていた。珀輝を蔑む者達に向って、彼はいつも必ずこう言い聞かせるのだ。
『珀輝に黒龍の血は混ざっていない』
『珀輝』という名前も彼が命名した。くすんだ灰白色の龍には皮肉としか言いようの無い名で、始めの内は(何て名前を付けるんだ!)と心底呆れたりもしたが、それでも何だかとても尊くて大切な贈り物をもらったような気がして、どうしても嫌いにはなれなかった。
王の言葉を信じる者は、龍宮には恐らく一人もいないだろう。だが誰もが上辺だけは、彼の言葉に従った。
例えそれが、王の前でだけ珀輝を白龍として扱うことに過ぎなかったとしても。
今日も旺李の言葉に、旺劉はいつもと同じ科白を返した。
「珀輝に黒龍の血が入っているというのは、ただの噂だ」
「ただの噂、ですか?ではこの灰色の鱗は、どこから来たというのですか?!少なくともこいつは純粋な白龍ではありません。いくらこいつが父上にとりいっても、こいつを真に白龍王の息子として認める者など、父上以外にいる筈がない!」
「何度でも言う。珀輝に黒龍の血は入っておらぬ」
「何故そんなことが言えるのです?!では、こいつは一体何龍の子だとおっしゃるのですか?!」
「それはまだ、余にも確信がない。だが黒龍の子でないことだけは確かだ。一度でも黒龍をその目で見た者ならば、直ぐにそれは分かる」
「・・・・・・」
肯定とも拒絶ともとれる沈黙を返す旺李に対して、押し殺した声で王が言った。
「今後再び珀輝を害することがあれば、二度とお前を許さぬ。覚えておけ」
「父上・・・?!」
「それから旺李よ、白華祭ではお前が考えているような、王太子の披露などは無い。例え長子であっても、王の資質が無い者を太子の座に就かせる気も無い」
「父上、それはどういう事でしょう?!まさか私が旺輝に少し躾けをしたくらいで、継嗣の地位を剥奪するとでもおっしゃるのですか?!」
『躾け』という軽い言い回しに、それまで理性で押し殺していた怒涛のような感情が、一気に噴出した。
「大勢で弱い物を瀕死の状態まで痛めつけることが、『躾け』だと言うのか!」
龍宮が、そして彼等の棲む海底に、雷鳴の如き咆哮が轟いた。
旺李は父がこれほど激しく怒るのを、見たことが無い。
(これはまずいぞ・・・!)
素早く頭の中で計算をすると、いかにも神妙な顔つきで旺李が謝罪する。
「申し訳ありません、言葉の選択をあやまりました。私が申し上げたかったのは・・・」
「もうよい」
いまだに憤怒を押し殺しながらも、再び静かな口調でそう呟いた父王の様子に、旺李が心中でホッと胸を撫で下ろしていると、ふいに彼が言った。
「旺李よ。お前は余の息子達の中でも、抜きんでて優秀だ。学問のみならず、武勇、血筋、そして政治的手腕ですら、お前の右に出る者はいない。この度の龍華祭でも、己が王太子に指名されるとの噂を流させて、他の候補を擁立しようとする臣達を、結果として見事に牽制していた」
「な、何のことでしょうか。私は・・・」
「責めているのではない。上に立つ者には、政治的手腕もなくては到底やってはゆけぬ。だが、以前から父は言って来た筈だ。王太子には、長幼の序に係わらず、最も相応しい者を選ぶつもりだと。余は少なくとも、今度の龍華祭でお前を王太子に指名するつもりは無い」
旺李は全身の血管に、氷を放り込まれたような衝撃を受けた。
「なっ・・・何故ですか?!私はこれまで、将来の王となるべく、兄弟達の誰よりも努力して来たつもりです!私よりも王に相応しい者が居るなどとは、到底納得できません!」
「確かにお前が優秀なのは誰もが認めている・・・だが、何れにしろ、王太子になるのは成龍になってからだ。まだ数百年も先のことを、今回の龍華祭で決めるつもりは毛頭無い」
「ですが、父上が私の年には既に、王太子であらせられたではありませんか!何故私にはまだ早いとおっしゃるのですか?!」
「・・・本気でその理由が分からぬというのか?」
「納得がいきません!」
それまでずっと息子に背を向けたままだった白龍の王が、徐に立ち上がると、振り向きざまに横たわったままの珀輝を指差して言った。
「理由は、これだ!」
「こいつが・・・?まさか、父上、長子である私を差し置いて、血の繋がらない珀輝を王太子になさるとでも・・・?!」
驚きと焦り、そしてあからさまな呆れを隠しきれずに動揺している息子に対して、龍王が再び一喝した。
「この、愚か者が!」
旺李の体が、びくりと震えた。
「まだ分からぬのか?!確かに、上に立つ者は有能でなければならぬ。父は常々、王が無能であることは罪だと子供達に教えて来た。だが同時に、民の心を思いやれぬ者に、彼等の上に立つ資格などないとも繰り返して来た筈だ!」
(また始まった)
神妙な仮面を被ったままの旺李は内心、ヘドが出そうな位げんなりした。
(心配しなくたって、俺は十分民には優しい筈だ。少なくとも、俺に従順な間はな。王に従わないような龍は、もはや『民』などではない。どうやらそんなことすらも、偉大な白龍王様には分からないらしい)
心中で密かにそう毒づく息子の心を読んだのだろうか。白龍王が冷たく言い放つ。
「お前は確かに優秀だ。だが、弱者を慈しむ徳というものに決定的に欠けている。徳の無い者が王位に就けば、全ての者が不幸になる。例え余が今のお前を王太子に指名したとしても、天は決してそれを認めるまい」
息子の視線を真っ向から受け止めたままそれだけ言い終えると、王は再びその双眸を珀輝へと戻すべく背を向けた。
一人、その場に立ち尽くしている旺李だけが、食い入るように父の背中を凝視している。
「天が・・・私を認めないとでも・・・?!」
龍は紛れもない神獣だ。その王である龍王には、人間界はおろか、神獣の世にすらかなう者はいない。
ただ、唯一の例外である天帝を除いては。
天界は日頃よほどの事が無い限りは、龍達に干渉しない。だが、彼等にも天帝からの使者を迎える機会は訪れる。
その一つが、新しい龍王の承認時だ。
天帝が認めない龍王は、決して龍界の王にはなれない。例え一族の全ての者が認めていたとしても。
その事実は、父王が旺李を諌めるべく諭して来たどの言葉よりも、遥かに彼の心に衝撃を与えた。
(私が王になれない・・・?!こんな・・・こんな薄汚い黒龍の子のせいで・・・?!)
白龍王が現れて以来、初めて旺李は珀輝に目を向けた。
王が、静かに彼に語りかけている。
「・・・珀輝よ、誇り高くあれ。己の価値は、己で築き上げ評価するものだ。決してそのことを忘れるな・・・」
血に汚れた卑しい灰色の小龍が、目を閉じて横たわったまま、龍界で最も尊い旺劉にそっと頬を撫でられ続けている。
あたかもそれが、彼の息子として受けることが出来る当然の権利であるかのように。
その印象が真実であるかは別として、少なくとも、それが旺李の目に映った珀輝の姿であった。
嫉妬にも似た激情が、旺李の体を駆け抜けた。
迸るどす黒い感情に駆り立てられた旺李の震える手が、彼の腰元にゆっくりと移動し始める。
腰に佩いた神剣の柄を探り当てると、決意と伴に、指に力を込めてそれを握りしめた。
(父上は黒龍に惑わされているんだ・・・!あいつはこの龍宮に災いをもたらす呪われた存在だ。父上には分からなくても、俺には分かる!)
父王が黒龍の子を始末する気が無いのであれば、自分が災いを葬るしかない。
そう心に決めた旺李が、宝飾で輝く鞘から剣を抜くと、足音を極力消して一歩一歩、珀輝に近付いて行く。
その、ひそめた足音が逆に、珀輝の注意を引いた。
閉じていた両目を薄く開くと、右手を後ろに隠して忍び寄る旺李
の姿が視界に飛び込んで来る。
真直ぐに、珀輝は彼の目を見た。
その双眸に映し出されているのは、言い知れぬ怒りと嫉妬、決意、そして・・・。
いつもよりもケタ外れに強い、殺気だった。
「う・・・」
頭を持ち上げて旺劉に警告しようとしたが、どうしても体が思うように動かない。
「どうした、珀輝?」
急に声を上げようと足掻いた彼の様子に、王が気付いた瞬間。
「死ね、珀輝!」
彼の背後から、旺李が剣を振り上げて叫んだ。
王のまさに目の前で、瀕死の珀輝の頭上に神剣が振り下ろされようとしている・・・。
「・・・珀輝!」
それは、止める間もない一瞬の出来事だった。
人形をとっていたが故に、珀輝を突き飛ばすことが出来ない旺劉が、珀輝を守る盾の如く、彼の上に覆いかぶさる。
王の肉を絶つ鈍い音が、珀輝の頭上に響いた。
偉大な白龍王の血が、彼が纏っていた豪奢な白い衣に迸り、深紅に染めて上げて行く・・・。
最悪の出来事が、不自然にゆったりと流れる現の時の流れの中で進行していた。
あまりのことに、目の前に見ている現実が、悪夢であると信じ込んでしまうほどの。
けれども、その場を支配していた異様な非現実感は、珀輝の声から絞り出された悲痛な声により、直ちに消滅した。
「・・・白龍王・・・!」
珀輝と同じくらい驚愕している旺李が、震える手で剣を手にしたまま、呆然と立ち尽くしている。
「あ・・・あ・・・ち、父上・・・」
背中を深く袈裟がけに斬り裂かれた王が、珀輝に抱きついたまま、声を絞り出して言った。
「・・・誇り・・・忘れるな・・・」
「・・・王・・・!」
「逃げよ・・・」
「父うえええええええーっ!」
旺李が絶叫と伴に、震える足を一歩彼等に向って進めた、その瞬間。
王の玉体がぐらりと傾くと、突然、彼が龍宮の結界を解き、元の白龍の姿に戻った。
水中の不思議な空間に、一気に水が押し寄せて来る。
それまで水底で静かに佇んでいたあらゆる物が、その勢いに巻き込まれて舞い上がり、彼方に吹き飛ばされてゆく。
「うわっ・・・!」
水流をまともに受けた旺李が、たまらず龍の姿に戻ると、珀輝を残して逃げて行く。
「白りゅ・・・お・・・!」
王の命を案じて、ほとんど声にならない叫びを上げた珀輝の体は、
逃げ出す力も無く舞い上げられた物体にぶつかりながら、それ等と共に激しい水の流れに翻弄され・・・。
やがて全てが深い静寂の闇へと消えて行った。