1000回目の求婚(プロポーズ)
この小説を読んで下さる全ての方に感謝をこめて。楽しんで頂ければ幸いです!
(・・・これが正真正銘、最後のチャンスかも知れませんもの。今日こそは絶対、恵秀兄様に私の愛を受け容れて頂きますわ!)
千年を超す歴史を誇る百華国の帝都・王華府。
かつては龍神の加護を受ける白華族が治めていたこの国の中心地であり、現在は黒鳳凰を守護神獣とする黒華族の宮城が偉容を誇る、栄華を極めた美しい都である。
その王華府の中でもひときわ豪奢な龍家の書庫で、隣接する科挙試の超名門私塾・明啓塾を見据えながら、龍麗宝は手にした書物をぎゅっと握りしめて、そう心に誓った。
龍家は白華族の王朝時代に「龍の花嫁」の家系として尊崇されていた旧家だ。現在は「十華」と呼ばれる名家の一つに過ぎないが、今でも龍神の加護を受けているに違いないと噂されるほどの繁栄ぶりは有名だ。
その龍家の書庫が、麗宝の生生世世の懇願で明啓塾の塾生達に開放されるようになったのは、十年ほど前のこと。
今日も麗宝は龍家の書庫で、開いた書物を一読もしないまま、いつも通り塾生の李恵秀の姿を探していた。その周りで他の塾生達が、本を読む振りをしながらチラチラと彼女を盗み見ている。
白絹に桃花の刺繍が散りばめられた上衣を纏い、お揃いの髪飾りを挿した愛らしい麗宝。塾生達の憧れである彼女だが、恵秀一筋の本人は彼等の秋波に一向に気付く様子もない。
白磁の頬に映える艶やかな長い黒髪と、生命力に溢れた宝珠の如き漆黒の瞳。宮殿に咲く芙蓉の花のような彼女の面が、山の様な書を抱えてフラフラと歩いて来る、紺衣の青年の姿を見付けると、一際華やかに輝いた。
「恵秀兄様!」
「その声は麗宝かい?・・・・ああっ!」
背の高い、タレ気味の糸目で穏やかな風貌の彼が、山積みの書物もろとも急回転して彼女に振り向く。と、その途端。彼の腕の中から振り落とされた書物が、威勢の良い音を立てて一斉に床に散らばった。
「ああっ、すまないね、龍家の大事な本が・・・あ痛っ!」
慌てて本を拾い上げようとする恵秀の頭が、目の前の本棚の角にぶつかった。よろめいた彼が後ろの本棚に体重を預けると、今度はその重みで本棚が倒れて行く。
幸い柱が障壁となり、本棚のドミノ倒しは避けられた。しかし、傾いた本棚から降って来る本に見事に埋められた運の悪い塾生が一人、他の塾生達に救出されながらやっとのことで這い出して来る。
出て来た彼の顔を見て、周囲の塾生達が皆気の毒そうに囁き合った。
「やっぱり・・・またしても、珀青慎が李恵秀進士の犠牲に・・・・」
「進士」とは、官吏登用の為の超難関国家試験・科挙試の最終試験である殿試に合格した者に与えられる称号である。
珀青慎は明啓塾でも恵秀と一、二を争う秀才だ。麗宝の双子の弟で超天才の龍史明に科挙を受ける意思が全く無い為、今回の科試では若干十七歳の彼が、最優秀者である状元として合格するのも夢では無いと誰もが思っていた。
品行方正、眉目秀麗、文武両道。「十華」の筆頭名家であり、白華族の旧皇族の血をひく珀家の長男である彼は、百華国の女性達にとっては憧れの貴公子だ。そして、生まれながらにして龍家の娘・麗宝の許婚でもある。
透明感のある紅茶色の髪に、同色の爽やかな澄んだ瞳。上品にバランス良く整った嫌みの無い美貌と、謙虚で真面目な人柄。
非の打ちどころの無い好青年の彼だが、恵秀が絡むと何故か必ず、不幸の影が差して来る。
どういう訳か、粗忽者の恵秀が何かヘマをする度に、他でも無い青慎が巻き添えを食ってしまうのだ。
今回の、科挙の一番の山場と言われる貢挙(会試)も、恵秀のせいで冬の凍った川に落ちた彼は高熱を出し、周囲の期待をよそに受験を見送る破目になってしまった。
だが一緒に川に落ちた恵秀の方は、風邪一つひかずに見事試検を突破して、その後進士の称号を得るに至っているのだから救われない。
今では「不運の百貨店」と陰で密かに囁かれるまでになってしまった哀れな青慎がようやく立ち上がると、今一つ表情に乏しい糸目の恵秀が、タレ目を一層下げながらオロオロと謝った。
「だ、大丈夫かい、青慎君。済まないね、また。今回も本当に悪気はなかったんだけれど・・・・」
ボサボサの黒い髪を無造作に束ねて、いつも実用重視の紺の長袍を纏っている、どこか冴えない風貌の恵秀は、武勇で知られる李家の三男坊だ。しかし李家の道場に彼が顔を出す事は無く、二十六歳にもなる彼の身のこなしは、奇跡的と言っていいほど鈍い。
これまでに通算五百回位は超えているであろう、恵秀からの必死の謝罪を受けながら、今回も命からがら助かった青慎が、ぼそりと小さな声で呟く。
「何不速殺我(いっそのことさっさと殺してくれればいいのに)・・・・」
「え、何だい、青慎君?」
「いえ『幸得李進士無恙』、李進士がご無事で何よりと言ったのです。この度は科挙での状元合格おめでとうございます」
姿勢を正した青慎が拱手してそう述べると、恵秀が糸目を更に細くして、嬉しそうに笑った。
「有難う。でもまだこの後吏部試に合格してからでないと、官途にはつけないけれどね」
本来なら恵秀は遥か昔に科挙に合格していた筈だった。しかし不運が重なって三年に一度しか行われない試験を二度も棒に振り、今回ようやく初めての受験、そして最優秀での合格となったのだ。その喜びは一際大きいに違いない。
青慎に負けじと、後ろに居た麗宝も恵秀に激励の言葉を贈る。
「恵秀兄様なら絶対に合格よ!兄様は不器用だし、方向音痴でヘタレで下戸で、稀に見る不運の持ち主だけれど、本来なら六年前に進士になっていた位優秀なんですもの!それに空気が読めないから、例え任官後にいじめに遭ったとしても、きっと気付かないまま無事にやり過ごせるわ。多少字が汚くても、片付けが苦手でも、身だしなみが整ってなくても、ちゃんと官吏としてやって行けると思うから、心配しないで!」
「はは・・・有難う、麗宝。何だか急に不安になって来たよ・・・」
「恵秀兄様が任官なさったら、忙しくおなりでしょう?だから今日はいつもよりも沢山教えて頂こうと思って、早く来て待っていたのよ」
麗宝は側の青慎を無視して、ここぞとばかりにさっきから開けておいた本のページを読み上げ始めた。
「力は山を抜き、気は世を蓋ふ。時利あらず、騅逝かず。騅の逝かざる、奈何すべき。虞や虞や若を奈何せん」
恵秀がいつものように、麗宝の為に解説する。
「『私の力は山をも引き抜き、気迫は天下を覆い尽くしていた。だが形勢は不利になり、馬も進もうとしない。馬が進まないのをどうする事が出来よう。虞よ虞よ、おまえをどうしたらよいだろうか』項羽が劉邦との戦いに敗れようとする時に詠った有名な詩だね。虞美人草(ヒナゲシ)の名の由来で有名な虞姫、つまり愛する女性を守ってあげたいが、それが出来ないという苦しさがよく表れている」
「虞姫は項羽が討たれた後、彼のいない世界では生きていけないと自害するのでしたわね」
麗宝が上目遣いに恵秀を見上げると、潤んだ瞳でここぞとばかりに訴える。
「私も恵秀兄様が居ない世界では、きっと生きてはいけませんわ」
この一言を言いたいが為に、わざわざこの漢詩を用意して待っていたのだ。周囲の塾生達には勿論、いつもこういう時に限って近くに居る青慎にもバレバレの告白作戦にしかし、当の恵秀だけが気付かない。
彼は麗宝が小さい頃からするように、彼女の頭をポンポンと優しく撫でると、あっさりこの発言をスルーして、至極真面目な顔で言う。
「麗宝は昔から本当に勉強熱心だからね。一度読んだ書物は全て記憶してしまうし、男だったら間違い無く状元で科試に合格しているだろうに。僕が居なくなったら誰が君に教えてあげられるのかと思うと、それだけが心残りでならないよ」
だが、これを聞いた麗宝は、引き攣った笑みを品良く浮かべたまま心の中で叫んだ。
(・・・科試の四書五経なんて退屈な物、好きで勉強する訳がないでしょう?!恵秀兄様と一緒に居たいからこそ、とっくに答えも全部暗記してしまった科試の過去問を持って、毎日書庫に通って来ているのに・・・!)
傍らで全ての事情を呑み込んでいるらしい青慎が、気の毒そうに麗宝を見ている。
彼は十歳の頃から明啓塾に通い、麗宝と恵秀の仲をずっと眺めて来た。麗宝が本当は恵秀が知っているよりもずっと優秀なのに、敢えて分からない振りをして教えて貰っている事も、好奇心の塊ではある彼女だが、官吏の仕事には見事なほど関心が無いというのも、幼馴染の彼には皆お見通しだ。
麗宝が科挙の勉学に熱心に見えるのは、ひとえに恵秀への一途な想いが為せるわざだ。なのに、皮肉な事に相手はそれに気付いていないどころか、傍目には彼女の桁はずれの能力を惜しむが故に、目をかけている様にすら見える。
出世への野心も薄く、朴念仁ぶりも状元級の恵秀には、彼女の家柄や美しさも武器にはならない。
可哀そうな麗宝は、恵秀の絶望的な鈍感さ+(プラス)間も無く塾を卒業してしまう彼との別れの予感に、涙を堪えながら震えている。
不意に彼女が、意を決した様に恵秀を見据えると、広い書庫中に響き渡る声で言った。
「恵秀兄様・・・私と結婚して下さい!」
((言ったあ、通算1000回目の求婚!))
静かだった書庫の中で、耳を澄ませて盗み聞きしていた塾生達のどよめきが沸き起こる。
だが、驚いているのは周りの塾生達と青慎だけだ。当の恵秀は動揺一つせずに糸目でにっこり笑うと、彼女の頭を撫でながら、定番の答えをいつも通りに繰り返す。
「うん、麗宝がもっと大きくなったらね」
「恵秀兄様、麗宝はもう子供じゃありませんわ!それに、もうこれ以上大きくはならないと思います!」
麗宝は必死に食い下がったが、誰が見ても彼女が再び玉砕したのは明らかだ。
((気の毒に・・・・))
皆に紛れてそう傍観していた青慎に、ふいに恵秀が間の抜けた声で話しかけて来た。
「・・・・だそうだよ、麗宝の許婚の青慎君?」
絶妙な間の悪さに、青慎が内心大声で叫ぶ。
(何で今ここで僕に振るんだ?!)
立ち去ろうとしたが遅かった。案の定麗宝が、涙で潤んだ目できっと青慎を睨みつけて来る。
麗宝は好きで珀家の息子である青慎の許婚になっている訳ではない。生まれながらの婚約を青慎が解消させてくれないが故に、無理強いされているだけなのだ。
無論恵秀が自分に振り向いてくれないのは、麗宝に許婚がいるせいではない事くらい、彼女だってちゃんと分かってはいる。
けれども・・・。
「青慎なんて大っ嫌い!」
いつにも増して盛大な泣き声を書庫に響き渡らせながら、麗宝が外へと駆け出して行く。
恵秀が細い目で責める様に青慎を見て言った。
「女の子を泣かせちゃダメだよ?」
麗宝の求婚後に青慎が、彼女を泣かせたと恵秀に責められるのも、これでとうとう1000回目となった。