それでも、あの方は……。
江戸の空は、妙に白かった。
曇っているわけではないのに、どこか色を失ったような空だ。
浪人はその空の下で、ひとり立っていた。
『仇は、江戸の旗本』
そう告げられたのは、一月前のことだった。
地方の小藩で家老を務めていた男が、江戸で死んだ。
病とされたが、実際は違うという。
遺された書付には、ただ一行。
『無念。旗本某、これ討つべし』
それだけだった。
その男は、浪人にとって恩人であった。
父の代で禄を失い、士官の口を求めて諸国を渡り歩いていた頃。
食い詰めて、乞食同然にまで落ちぶれていた身を召し抱え、役目を与えてくれたのが、あの方だった。
厳しいが、筋の通った人だった。
同僚や領民たちに慕われていた。
だから迷いはなかった。
剣だけは人並み以上に振るえた。
諸国を渡り歩いた経験もある。
選ばれたことが、嬉しかった。
恩を返せる機会が、ようやく巡ってきたのだから。
そのためなら、ようやく得た藩籍など惜しくはなかった。
******
江戸に来て、一月あまり。
話は、少しずつ崩れ始めていた。
主君の江戸での評判は悪かった。
酒をたらふく飲み、酔えば下人を殴る。
役目筋の者たちとの揉め事も絶えない。
ときには幕府の大役人にまで刃向かったという。
「あのような者、居なくなってせいせいする」
そうとまで言う者もいた。
浪人は、耳を塞ぎたくなった。
そんなはずはない。
あの人は、そんな人ではない。
地元にいた頃の主君は、人徳者として知られていた。
同じ男の評価とは思えなかった。
どちらが本当なのか。
あるいは、どちらも本当なのか。
答えは出なかった。
******
旗本は、すぐに見つかった。
神君の代より続く名門。
無位無官の浪人では、門前に立つことさえ憚られる家柄だった。
江戸の中枢に近い屋敷を構えていた。
だが、屋敷の大きさに反し、派手さはない。
その暮らしぶりは驚くほど質素だった。
少なくとも、浪人が思い描いていた仇の姿ではなかった。
そして、若かった。
日々の通り道は把握していた。
大通りで待ち伏せ、正義を天下に知らしめることもできた。
だが浪人は、そうしなかった。
門を叩いた。
旗本は、浪人を拒まなかった。
客人として扱い、座敷に通し、茶を出した。
「私を探っている者がいるとは聞いていた。
貴殿が聞きたいのは、◯◯藩家老のことであろう?」
逃げる様子も、取り繕う気配もない。
浪人に帯刀を解かせようともしなかった。
「主君を……。なぜ」
浪人は、絞り出すように問うた。
旗本はしばし目を閉じた。
やがて、真っ直ぐに浪人を見た。
「江戸の秩序を乱したためだ」
それ以上でも以下でもない。
感情も言い訳もなく、ただ事実として語られた。
浪人は、目を閉じた。
調べれば調べるほど耳にしたのは、主君の乱行だった。
とりわけ、若い娘たちへの仕打ちは、受け入れがたかった。
放置すれば、より大きな混乱を招くものだった。
だから、世の秩序のため、処断された。
浪人は、目を開けた。
「それが、すべてか」
その声は、浪人自身が驚くほど乾いていた。
旗本はうなずいた。
「それが、すべてだ」
怒りは、確かにあった。
しかし、それはどこに向けたらいいのか。
この男か。
江戸か。
それとも、主君自身か。
あるいは、自分の記憶か。
思い出すのは、地元での主君の姿だった。
家臣に目を配り、叱りもすれば、笑いもする。
祭りとなれば、領民たちにまざって踊る。
子供に袖を引かれれば、足を止めた。
老人の長話にも、苦笑しながら付き合った。
あれは演技だったのか。
そんなはずがない。
生涯を捧げるに相応しい人だった。
だが江戸は、それを否定している。
同じ人間が、別の顔を持っていた。
どちらが偽りなのかではない。
どちらも、事実だったのだろう。
理解は救いにならなかった。
「討つか」
旗本が言った。
その声に嘲りはなかった。
浪人は、しばらく黙り、ゆっくりと頭を振った。
剣は抜かれなかった。
******
翌日、江戸の喧騒を背にして、浪人は歩いていた。
行くあてはない。
だが、ここに留まる理由も、もうなかった。
振り返ることはしなかった。
見るべきものは、もう見てしまった。
浪人は、流れた。
それでも、あの方はいい人だった。




