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実験場

それでも、あの方は……。

掲載日:2026/07/26




 江戸の空は、妙に白かった。

 曇っているわけではないのに、どこか色を失ったような空だ。


 浪人はその空の下で、ひとり立っていた。



『仇は、江戸の旗本』



 そう告げられたのは、一月前のことだった。


 地方の小藩で家老を務めていた男が、江戸で死んだ。

 病とされたが、実際は違うという。


 遺された書付には、ただ一行。



『無念。旗本某、これ討つべし』



 それだけだった。


 その男は、浪人にとって恩人であった。


 父の代で禄を失い、士官の口を求めて諸国を渡り歩いていた頃。

 食い詰めて、乞食同然にまで落ちぶれていた身を召し抱え、役目を与えてくれたのが、あの方だった。


 厳しいが、筋の通った人だった。

 同僚や領民たちに慕われていた。


 だから迷いはなかった。


 剣だけは人並み以上に振るえた。

 諸国を渡り歩いた経験もある。


 選ばれたことが、嬉しかった。

 恩を返せる機会が、ようやく巡ってきたのだから。


 そのためなら、ようやく得た藩籍など惜しくはなかった。




 ******




 江戸に来て、一月あまり。

 話は、少しずつ崩れ始めていた。


 主君の江戸での評判は悪かった。


 酒をたらふく飲み、酔えば下人を殴る。

 役目筋の者たちとの揉め事も絶えない。


 ときには幕府の大役人にまで刃向かったという。



「あのような者、居なくなってせいせいする」



 そうとまで言う者もいた。

 浪人は、耳を塞ぎたくなった。


 そんなはずはない。

 あの人は、そんな人ではない。


 地元にいた頃の主君は、人徳者として知られていた。

 同じ男の評価とは思えなかった。


 どちらが本当なのか。

 あるいは、どちらも本当なのか。


 答えは出なかった。




 ******




 旗本は、すぐに見つかった。


 神君の代より続く名門。

 無位無官の浪人では、門前に立つことさえ憚られる家柄だった。


 江戸の中枢に近い屋敷を構えていた。


 だが、屋敷の大きさに反し、派手さはない。

 その暮らしぶりは驚くほど質素だった。


 少なくとも、浪人が思い描いていた仇の姿ではなかった。

 そして、若かった。


 日々の通り道は把握していた。

 大通りで待ち伏せ、正義を天下に知らしめることもできた。


 だが浪人は、そうしなかった。

 門を叩いた。


 旗本は、浪人を拒まなかった。

 客人として扱い、座敷に通し、茶を出した。



「私を探っている者がいるとは聞いていた。

 貴殿が聞きたいのは、◯◯藩家老のことであろう?」



 逃げる様子も、取り繕う気配もない。

 浪人に帯刀を解かせようともしなかった。



「主君を……。なぜ」



 浪人は、絞り出すように問うた。


 旗本はしばし目を閉じた。

 やがて、真っ直ぐに浪人を見た。



「江戸の秩序を乱したためだ」



 それ以上でも以下でもない。

 感情も言い訳もなく、ただ事実として語られた。


 浪人は、目を閉じた。


 調べれば調べるほど耳にしたのは、主君の乱行だった。

 とりわけ、若い娘たちへの仕打ちは、受け入れがたかった。


 放置すれば、より大きな混乱を招くものだった。

 だから、世の秩序のため、処断された。


 浪人は、目を開けた。



「それが、すべてか」



 その声は、浪人自身が驚くほど乾いていた。

 旗本はうなずいた。



「それが、すべてだ」



 怒りは、確かにあった。

 しかし、それはどこに向けたらいいのか。


 この男か。

 江戸か。

 それとも、主君自身か。


 あるいは、自分の記憶か。

 思い出すのは、地元での主君の姿だった。


 家臣に目を配り、叱りもすれば、笑いもする。

 祭りとなれば、領民たちにまざって踊る。


 子供に袖を引かれれば、足を止めた。

 老人の長話にも、苦笑しながら付き合った。


 あれは演技だったのか。

 そんなはずがない。


 生涯を捧げるに相応しい人だった。

 だが江戸は、それを否定している。


 同じ人間が、別の顔を持っていた。


 どちらが偽りなのかではない。

 どちらも、事実だったのだろう。


 理解は救いにならなかった。



「討つか」



 旗本が言った。

 その声に嘲りはなかった。


 浪人は、しばらく黙り、ゆっくりと頭を振った。

 剣は抜かれなかった。




 ******




 翌日、江戸の喧騒を背にして、浪人は歩いていた。


 行くあてはない。

 だが、ここに留まる理由も、もうなかった。


 振り返ることはしなかった。

 見るべきものは、もう見てしまった。


 浪人は、流れた。


 それでも、あの方はいい人だった。




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― 新着の感想 ―
読ませていただきました。 仕えた恩人の表と裏の顔。 仇討ちを固く誓った主人公でしたが、自重するのに至ったのは江戸での風聞そして相手を見ての判断でした。 ただ本人は信じる大恩人でも、心の何処かに思いあ…
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