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第4章:根の国へ(後編)

4

果てしなく続くように思われた下り坂は、足元の木の根が大きくうねりを見せたところで、唐突に終わりを告げた。その先に、漆黒の空間が口を開けていた。ノイズは今や、木の根の脈動する音を掻き消すほどに強くなり、二人の耳を掻きむしった。ガラスが擦れ合うような、硬質で不快な共鳴音だ。


トゥリッキは、カンテラの明かりを強くした。その光が照らし出したのは、想像を絶する光景だった。


そこは、トゥリッキが暮らす森を丸ごと飲み込んでしまえるほど、広大な空洞だった。闇に溶け込む天井は、聳え立つトウヒよりもさらに高い。そして、地上の森から伸びてきた太い木の根が、大空洞の天井と壁を支える巨大な(はり)のように縦横無尽に走っている。それは、森そのものが、地下深くに眠る「心臓」を崩落する土砂の重みから必死に支え、守ろうとしている巨大な肋骨のようにも見えた。


「……行こう。」


トゥリッキとペッカは、行く手を阻む太い根をくぐり、時には乗り越えながら、空洞の中心へと進んだ。


その中心で、何万本もの光ケーブルが天井を突き破って垂れ下がり、梁となった太い根と複雑に絡み合い、融合し、一つの巨大な球体を成していた。それは、森と機械が長い時間をかけて作り上げた、揺り籠のようだった。


「あれが……『母なる木』なの……?」


トゥリッキは身体を縛られたように、その場に立ち尽くした。


「……信じられない。」


ペッカが足元を見て、呻くように呟いた。空洞の底を這う木の根の隙間から、床に刻印された『NORN - SKULD』という文字列が覗いていた。


巨人は顔を上げ、重苦しい鼓動を響かせて脈打つ球体を見た。ペッカの脳裏で、断片的な知識が瞬時に繋ぎ合わされていく。古の神々になぞらえて「ノルン」と名付けられた、「時の記憶」の集積体。世界で三基のみ構築され、旧文明が滅びるまで、百数十年に渡って数百億人の人生を記録し続けてきたシステム。激化する世界規模の紛争の中で二基が滅び、未来を司る女神の名を冠する「スクルド」だけが、奇跡的に残ったという。


「ノルン……人類の記憶を未来へ残すために作られた記録装置。極秘裏に建造されたとは聞いていたが、まさかこんな森の地下深くに眠っていたとは……。」


「記憶を……残す……。」トゥリッキが押し殺すように声を出した。


「ああ。私は破壊された街で、人々の記憶を収集していた。集めたデータは、この背中の円盤からノルンに送信された。」


「ペッカは昨日、集めた記憶を『大きな箱で保管する』って言ってたよね。これが……その箱なの?」


「そうだ。ノルンは記憶データを結晶に変換して蓄積していたんだ。その頃は世界の至るところで戦争が起きていて、人類は滅びの淵に立っていた。だから、記憶を結晶の形で凍結し、遥かな未来、争いの無くなった世界で蘇らせようとしたんだよ。」


トゥリッキは、目を凝らした。光ケーブルと木の根の僅かな隙間から、巨大な結晶のようなものが覗いている。カンテラの光を受けて、複雑な色を反射するその透明な輝きは、彼女がよく知るものだった。冬の森で時折見かける、あの儚く美しい光の欠片。かつて生きた人々の、行き場のない想いが凍りついたもの。


(……そう。「迷い魂」だ……。)


トゥリッキは確信した。あの結晶の中では、膨大な数の人間の記憶が凍りついて身を寄せ合っているのだ。森が、そしてペッカが守ろうとしてきたものの正体。それは、忘れ去られないように結晶となった、世界中の人々の「魂」だったのだ。


その時だった。空間を揺るがすほどの地響きとともに、岩盤が崩れ落ちた。


「危ない!」


ペッカがトゥリッキを庇うように覆いかぶさる。直後、二人が見上げた天井の一部が、音もなく灰色に変色した。崩れた岩盤の中から落ちてきた岩が、空中で灰色の砂に変わり、雨となって降り注いだのだ。この砂の雨と同時に、天井と側壁の岩盤を食い破って、漆黒の濁流が雪崩れ込んできた。


「『黒い錆(ムスタルオステ)』!もうこんな地下深くまで来ていたとは……!」


ペッカが叫ぶ。黒い泥のような奔流は、天井を支えていた太い木の根に触れた。数百年もの間、この空間を支え続けてきた巨木のような根が、黒い錆に触れた瞬間、一瞬にして風化した古木のように灰色に変わり、自重に耐えきれず砂となって崩壊した。


守りを失った空間に、破壊への意志が具現化したかのような黒い波が押し寄せる。その切っ先が狙うのは、二人ではない。空間の中央に鎮座する、あの球体――「母なる木」――「ノルン」だ。


「やめて!」


トゥリッキの悲鳴と共に、黒い錆が球体に襲いかかった。子宮のようにノルンを包み込んでいた光ケーブルと木の根が、黒い泥に飲み込まれていく。網の目のように絡み合っていた保護層が、次々と灰色の塵となって剥がれ落ちる。


その下から、無防備な結晶体が露わになった。美しく透き通った肌に、黒い濁流が直接触れようとしている。


(あれが壊されたら、みんな消えてしまう!)


数百億の魂が、二度と思い出されることのない虚無の砂になる。


(そんなこと、絶対にさせない!)


トゥリッキは恐怖を振り払い、駆け出した。


「トゥリッキ!下がって!」


ペッカが吼えた。彼は近くにあった金属の支柱を軽々と引き抜くと、それを長柄の武器のように構え、トゥリッキとノルンの前に立ちはだかった。巨人の心臓とも言えるバイオマス炉心が臨界まで燃焼し、全身から陽炎のような高熱が立ち昇った。


雄叫びをあげて、ペッカが金属柱を薙ぎ払う。高熱を帯びた打撃が、迫りくる黒い波を物理的に蒸発させた。水が瞬時に沸騰するような音が響き、白い蒸気が爆発的に広がる。だが、黒い錆は止まらない。蒸発した端から、空気中の塵さえも取り込んで自己を再構築し、さらに体積を増して押し寄せてくる。


「量が多すぎる……!」


黒い飛沫がペッカの肩に触れた。その瞬間、強靭な装甲が、まるで風化した彫像のように灰色に変色し、さらさらとした砂となって崩れ落ちた。


苦悶の声をあげて、ペッカが膝をつく。溶解する痛みではない。体の一部が、一瞬にして数千年の時を経たかのように朽ち果てていく感覚。


トゥリッキは息を呑んだ。あれはただの黒い影ではない。ペッカが言う通り、物質の在り方を書き換え、強制的に土へと還してしまう、極小の機械の群れなのだ。


(……やはり、そうか。)

巨人の脳裏に、あの夜、焚き火の前で導き出した答えが、冷酷な現実として突き刺さった。ペッカの信号が誘発した、「錆びた都市」郊外の研究施設に眠っていた実験用結晶体の暴走。


(私の産声が、この悪夢を呼び覚ました。目の前の惨状は、すべて私が招いたものだ……!)


「ならば、私が終わらせなければならない!」ペッカは、迫り来る黒い泥に向かって突き進んだ。


「ペッカ!」


「来るな!」ペッカが叫ぶ。「触れれば、君も砂になる!……私は『時の守り手』だ。この身が砕けようとも、時を、人々の記憶を、滅ぼすことなどさせはしない!」


彼は人工筋肉が剥き出しになった腕で再び金属の柱を振るった。だが、「黒い錆」は、ペッカという「障害物」を排除し、静寂なる砂の世界へと還そうと殺到した。


「ペッカを置いてなんて……!」


「行くんだ!……私には、彼らを破壊することしかできない。だが、彼らは壊れているんじゃない。ただ命令に忠実すぎるだけなんだ!」


「黒い錆」の姿に、避難民の命が次々と消えてゆくのを知りながら、指令のままに、地下鉄の入り口でただ待機するしかなかった自分が重なった。ペッカは気づいていた。この敵が、単なる怪物ではなく、植え付けられた機能のままに、壊れた世界を修復しようと「正しく働きすぎてしまった」システムであることを。だからこそ、力では解決できないのだと。


「過去の清算は私が引き受ける。……トゥリッキ、君なら、魂を巡る時の中に還してきた君にしか、できないことがあるはずだ!」


その言葉に背中を押され、トゥリッキは走り出した。涙を拭い、全てを灰へと変える暴風の中を、黒い結晶の嵐の隙間を縫って、「母なる木」の根元へと向かって駆けていった。


5

トゥリッキは、巨大な結晶が乱反射する光とノイズの暴風の中、根をかいくぐりながら駆けた。ペッカが背後で黒い波を食い止めている。その熱波と衝撃が背中を焦がすが、彼女は一度も振り返らなかった。振り返れば、巨人の覚悟が無駄になる。


小柄な魔女は、大空洞の中心に抱かれた岩山ほどもある結晶体――「ノルン」の根元へと滑り込んだ。見上げると、透明な山塊が間近に迫り、押しつぶされそうだ。無数の光ケーブルと木の根が複雑に絡み合い、ノルンの表面を覆っている。しかし、「黒い錆」はすでにその覆いを半ばほどまで侵食していた。結晶の内側では、赤い警告灯のような光が不規則に点滅し、苦しげな脈動を繰り返していた。


トゥリッキは、杖を脇に置くと、懐から「鎮めの石」を取り出した。青い結晶の中で、雪の結晶のような回路が鋭く明滅している。


これをノルンの本体に接触させ、師アイラから教わった呪歌を唱えれば、強制的に深い眠りにつかせることができる。その時、内側に記録された膨大な記憶はどうなるのだろう?


(わからない……。)


お師匠様は、「鎮めの石」は森の心臓を「本来のリズム」に戻すと言っていた。それは、深い眠りの中で永遠に凍りつかせることなんだろうか?そうなれば、人々の記憶は、みんなの「魂」は、いつまでも時の巡りの中に戻ることはできない。あの地下鉄の駅で亡くなった人たちみたいに、恐ろしさや苦しさや憎しみを抱えた魂は、ずっと結晶に縛り付けられたままだ。


それに、ノルンが眠りについて、結晶が凍りついたとしても、それで「黒い錆」が止まるとは思えない。凍りついた魂もろとも「母なる木」を喰らい尽くしてしまうだろう……。


(だめ……そんなのは違う……!)


石を握りしめたトゥリッキの手が震える。それでは、私が彼らを消してしまうということになる。ここに眠る数百億の人々の生きた証を、二度と蘇ることのない虚無へと葬ることになってしまう。


(どうすればいいの……どうしたら!)


アイラの言葉が蘇った。『石の力で黙らせるのではなく、まずは相手の声を聞くこと』。そしてペッカの言葉も。『記憶と時は同じことなんだ。』


トゥリッキは石を握りしめたまま、そっとノルンの表面――冷たい結晶の肌に、もう片方の手を押し当てた。冷たい。物理的な温度ではない。そこには、誰にも思い出してもらえない孤独、行き場を失った膨大な記憶の集積が、何百年もただ過ぎ去った時間が、凍てついた寂しさとなって渦巻いていた。


(……聞こえる。)


ノイズの奥底から、無数の声が響いてくる。恐れ、痛み、憎しみ、悲しみ、喜び。それは、迷子になった子供のような、見つけて欲しいという、切実な魂の叫びだった。彼らはただ、自分が生きたことそのものを、誰かに認めてほしいのだろう。


そして、「黒い錆」もまた、壊れているわけではない。ペッカが言っていた。『ただ命令に忠実すぎるだけなんだ』と。彼らは、変わり果てた街と、至るところに満ちた行き場のない憎しみや悲しみを「世界の過ち」だと判定し、静寂な死で塗りつぶすことで「正そう」としているだけなのだ。


トゥリッキがこうして思いに沈む数瞬の間も、黒い泥は、ノルンを覆う木の根や光の管を灰色の無機物に変えながら、近づいていた。


(怖い……!でも、絶対に、ここからは逃げない!)


トゥリッキは、ノルンに当てた手に力を込めた。記憶を凍りつかせる必要も、全てを灰にする必要もない。世界は壊れてなどいない、間違ってもいない。ただ、冬の寒さに凍えているだけ。春が来れば雪は溶け、水となって流れ、新しい命を育む。世界はその「巡り」の中で、変わることなく息づいているのだから。


(私にできること……。私にしかできないこと……。私は『魂の狩り手』。さまよう魂を巡る時に還すのが私の役目。きっとできることがあるはず……!)


トゥリッキは目を閉じた。暗闇とノイズの中で、彼女はたった一つの鮮やかな記憶をたぐり寄せていた。それは、雪解けの季節に必ずアイラが奏でてくれた、カンテレ(竪琴)の優しい音色。暖炉の火の粉が舞う中で、師が教えてくれた、世界を目覚めさせるための古い古い祈りの歌。その言葉が、調べが、そこに籠められた温もりが、小さな魔女の心に蘇ってきた。


トゥリッキは「鎮めの石」を、ノルンの結晶に強く押し当てた。彼女の唇から、春を呼ぶ歌が溢れだした。


「……ノウセ、マー、マコアマスタ!」(大地よ、まどろみより覚めよ!)


少女の凛とした歌声が、「根の国」に響き渡った。


その言葉は、魔力を持った波形となって「鎮めの石」を震わせ、増幅され、ノルンの結晶構造へと染み渡っていく。


「ルオヤン、ヌルミ、ヌックマスタ!」(創造主(つくりぬし)の若草よ、眠りから!)


ノルンが大きく脈打った。石を通じて流し込まれた「歌」は、システムにとって未知のコマンドだったが、巨大な結晶体はそれを「春の到来」すなわち再起動と生長のシグナルとして受容した。


「パネ、コッレト、コルトゥマハン、セカ、ヴァッレト、ヴァルトゥマハン!」(幹を幹に伸ばし、また茎を茎に育てよ!)


ノルンを覆い尽くそうとしていた黒い泥が、動きを止め、結晶の繋ぎ目が解けたように、粉々になって剥がれ落ちていく。その下から現れたのは、無機質な鉱物の光ではなく、新緑のような、瑞々しく柔らかな輝きだった。


「トゥハンシン、ネニア、ノスタ、サオイン、ハーロヤ、ハヨタ!」(何千という若芽を生やし、何百という枝を広げよ!)


トゥリッキの歌声に合わせ、地下空間を満たしていた数万本の光ケーブルが一斉に明滅する。それはもはや、悲鳴のようなノイズではなかった。風に揺れる葉擦れのような、あるいは小川のせせらぎのような、多様で美しい和音へと変わっていく。


「キュンノスタニ、キュルヴォスタニ、ヴァルシン、ヴァイヴァニ、ナオスタ!」(わたしの耕作、種蒔きにより、なかでもわたしの骨折りにより!)*注


トゥリッキが最後のフレーズを歌い上げると同時に、「鎮めの石」が砕け散った。螺旋を描いて舞い上がる青い粒子と共に、ノルンの中心から、眩い光の奔流が噴き上がった。それは世界を灼く炎ではなく、巡りゆく季節を言祝ぐ祈りの声だった。


光は、地下空間を満たし、天井の岩盤を透過し、厚い土の層を突き抜け、地上の森へ、そして鉛色の空へと真っ直ぐに伸びていった。迷子のような叫びは、「私たちはここにいた」という確かな記憶に溶け合い、新たな季節の養分として、巡る時の中へと還る喜びだけがあった。


「黒い錆」を構成していた結晶も、その光に触れ、次々と微細な砂粒へと変換されてゆく。結晶構造に書き込まれた指令から解き放たれ、透明な粒子となって光の柱の中を昇っていった。


嵐のような光の中で、トゥリッキは見た。傷だらけになりながらも仁王立ちするペッカが、その光を眩しそうに、けれど愛おしそうに見上げているのを。彼もまた、自分が守り抜いた「時」が、正しい場所へと還っていくのを見届けているのだ。


光の粒の一つ一つが、囁くように地上の世界へと旅立っていく。長く、あまりにも長く続いた冬が、今、終わろうとしていた。


【注】

『カレワラ』第2章所収「種蒔きの呪文」(309〜316行)より転載。原文は以下の通り(Elias Lönnrot "Kalevara" 1849, 'Toinen runo', Project Runeberg 参照)。

Nouse, maa, makoamasta, / Luojan nurmi, nukkumasta! / Pane korret korttumahan / sekä varret varttumahan! / Tuhansin neniä nosta, / saoin haaroja hajota / kynnöstäni, kylvöstäni, / varsin vaivani näöstä!

日本語訳文はリョンロット編・小泉保訳『フィンランド叙事詩 カレワラ(上)』(岩波文庫745-1、岩波書店、1976年)29頁による。

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