第76話 【音録石】異国のナガノにて
目が覚めると、私は「ニホン」という異国の、「ナガノ」と呼ばれる場所に立っていた。
馬車の御者に金貨を渡そうとしたが、男は青く膨れ上がった腕でそれを遮り、「役目を果たしただけですから」と無感情に言い残して、皮の幌を揺らしながら闇の中へ消えていった。
馬車が遠ざかる音を聞きながら、私は初めて見る「異国」の景色をじっくりと観察した。山々に囲まれた荒涼とした地。そこには、村の石造りの家とは似ても似つかない、銀色の壁を持った「プレハブ」という名の不思議な小屋がポツポツと立っている。即席の天幕にしては頑丈そうだが、どこか仮初めの、死者の住処のような冷たさがある。
私はプレハブの合間を縫うように、泥に足を取られながら歩いた。少し進むと、雪の中に1本の石碑が立っている。刻まれた異国の文字は読めない。けれど、そこに何が眠っているのかは、すぐに理解できた。
石碑の根元には、枯れかけた花束。そして目の前には、巨大な「土砂崩れの爪痕」。
ここでも、誰かが「収穫」されたのだ。規模は分からない。けれど、近くにある洞窟の口からは、あの「安らぎの洞窟」と同じ、甘い花の香りが漂ってきていた。ここは拠点村であって、拠点村ではない。鏡合わせの、歪んだ双子のような場所。
ふと、1つのプレハブから、1人の男がふらふらと這い出してきた。男は「あーでもない、こーでもない」と、髪の毛が抜けるほど激しく頭を掻きむしっている。
その手には、青白く発光する薄い板――タブレットが握られていた。光る板の表面には、信じられないことに、今この瞬間の「私」の姿が映し出されている。私は息を呑んで男を覗き込んだ。
男の眼球は、すでに濁った青色に染まり、その瞳孔の中には無数の「記録」が、まるで滝のように流れ落ちている。
「あ、私の姿だ」
男が読んでいる文字が、私の意識と重なった。
その瞬間、私の喉の奥から、数え切れないほどの「私」たちの声が溢れ出し――世界は、どろりとした青い闇に暗転した。
【研究員のメモ】
今、プレハブの窓を叩く音が止まった。
代わりに、私のタブレットの画面に、ミレットの指紋がついている。青い、粘り気のある指紋だ。
【研究員のメモ:追記】
学生が、私の眼球をピンセットで弄りながら呟く。
「先生、おめでとうございます。ミレットさんと『同期』しましたね。これで先生の文章は、彼女の喉から直接書き出されることになります」
私はもう、自分で筆を執る必要はない。私の肉体は、ミレットという「記録」を現像するための、ただの暗室になったのだ。




