第75話 【音録石】異国への馬車
「ミレットさん。異国へ行きたい、と思ったことはありませんか?」
不意に声をかけてきたのは、村の入り口に佇んでいた馬車の御者だった。その男の腕は、冬の寒さのせいか、あるいは別の理由か、異様に太く、そしてどす黒い青色に変質していた。
「異国、ですか? 王都や、別の領地ではなく?」
「ええ、もっと遠い場所です。ここ――『拠点村』にいても、あなたはアイゼン氏の死を背負い、罪悪感に押し潰されるだけだ。いっそ異国へ行けば、すべてを忘れて楽になれる」
御者の言葉は、今の私の壊れた心に、甘い毒のように染み込んできた。
「楽に……。一理あるわね。でも、その異国へはどうやって?」
「この馬車に乗ればいい。目を閉じている間に、目的地へ着く」
御者が指し示したのは、一台の古ぼけた馬車だった。だが、その幌を見た瞬間、私は言葉を失った。それは布ではなく、いくつもの不揃いな「皮」が、赤と黒の糸で継ぎ接ぎされたものだったからだ。その表面は、まるで生き物のように、風もないのに微かに波打っている。
「なに、心配は無用だ。さあ、早く乗りな。出発の刻を逃せば、もう二度と行けなくなる」
私は、何かに誘われるように馬車へ乗り込んだ。
車輪が動き出すと、不思議と心が軽くなった。私は馬の歩みに合わせ、鼻歌を歌い始める。そうよ。これでいい。調査員という重荷も、ギルドへの責任も、すべて捨ててしまおう。さよなら、拠点村。さよなら、ギルド長。さよなら、スライムたち。私は今、あなたたちのいない「異国」へ向かっている。
(以降、数分間、車輪が軋む音と、ミレットの途切れ途切れの鼻歌だけが記録されている)
【研究員のメモ】
ミレットが「異国」と呼んでいる場所の解像度が、私の周辺と完全に同期し始めた。彼女が馬車で眠りに落ちた瞬間、私の部屋のドアを叩く音がした。
【研究員のメモ:追記】
学生が私の耳元で囁く。
「先生、お客様の到着です。『1970年代の服を着た、一番新しい荷物』ですよ」
窓の外を見ると、林の合間に、あの「継ぎ接ぎの皮の幌」を乗せた馬車が浮遊している。ミレットの手記には、これから「夢で見た不思議な異国」の様子が綴られるのだろう。彼女にとっての夢。私にとっての現実。そして、これを読んでいる読者にとっての、「これから起こること」。私たちは全員、同じ馬車の「荷物」になったのだ。




