母性、有給申請します!
午後三時のカフェ。
窓際の席に光が斜めに落ち、カップの縁が少しだけきらめいた。
この時間になると、どの街でも似たような空気が漂う。
少し疲れていて、でももうひと頑張りできそうな匂い。
私たちはそこに、甘いスコーンと重めの話題を持ち込んだ。
ミナ、サエ、エマ、そして私──ナオ。
この四人で会うのは、半年ぶりくらい。
けど会話は、3分もあればいつものスピードに戻る。
友達って、そういう存在だ。
「この前さ、ついに言っちゃったんだよ。母性休暇、取りますって。」
ミナがラテをひと口飲んで、唐突に言った。
カフェの空気が一瞬止まる。
「母性休暇?」と、サエが眉を上げた。
「なにそれ、そんな制度できたの?」
エマが笑いながらストローを回す。
「ミナが新しい概念作るときって、大体ろくでもない革命が起きる時だよね。」
「いや、マジで限界だったの。」
ミナは、目の下のクマを指差した。
「朝から“ママー!”“どこー!”“こぼしたー!”って連打。
で、夫はリビングでニュース観ながら、“ママ、落ち着いて”だよ?
落ち着いて、って言われて落ち着ける人、地球上に存在する?」
「存在しないね。」私は言った。
「それはもう、母性じゃなくて、感情労働。」
「でしょ?だから“母性休暇ください”って言ったら、夫が“俺が悪いの?”って。」
サエが吹き出した。
「出た!“俺が悪いの?”返し!」
「だから、“そうだよ”って言ってやったの。
で、リビングでアイス食べながらNetflix観た。イヤホンして、完全無視。
もう最高の休暇だった。」
その言葉に、私たちはみんな少し笑った。
でも、胸のどこかで小さく共鳴する音がした。
それは“わかる”の音。
「私もさ、“母性貧血”っていうか、最近、何も感じない日がある。」
と、サエがぽつりと言った。
「朝、子どもに“ママ〜”って呼ばれても、心が動かないの。
“はいはい”って口だけ動いて、魂が置き去りになる感じ。
で、夫に“疲れてる?”って聞かれるけど、違うの。
“尽きてる”の。」
“疲れてる”と“尽きてる”の違い。
その言葉が、静かに胸に落ちる。
前者は寝れば治るけど、後者は“補給”が要る。
エマがスプーンをくるくる回しながら言った。
「母性ってガソリンなんだね。
気づくと減ってるし、誰かが勝手に乗り回してる。」
「そうそう!」サエが笑う。
「で、ガソリン切れたら、“ママ機嫌悪い”って言われるの。
いや違うの、ガス欠なの。」
ミナが笑いながら頷く。
「だから母性休暇って、給油タイムなの。
“私は愛をお休みします”って、堂々と宣言してもいい。」
会話は冗談みたいに転がりながら、妙に深くなっていく。
“母性”という言葉が、誰の中でも少しずつ形を変えていく。
私は思った。
母性って、与えることじゃなくて、分け合うことなんだ。
ミナの“休暇”は、手放す勇気でもあり、回復の儀式でもある。
「でもさ、休むのって難しいよね。」サエが言った。
「“ママってそういうもの”って、ずっと信じてきたから。
罪悪感が自動で立ち上がるの。」
ミナが笑いながら、少し目を伏せた。
「私もね、“母性休暇”取った夜、ちょっとだけ泣いた。
でも、泣きながら思った。“あ、まだ泣けるんだ”って。
泣けるってことは、まだ私が私の中にいるんだなって。」
私の喉の奥が、少しだけ熱くなった。
たぶん、それが真実だ。
母性って、泣きながらリセットされるものなんだ。
「ナオは?」エマが聞く。
「母性、休んだことある?」
「あるよ。」私は答えた。
「返事しない日をつくるの。
“ねえ聞いてる?”って言われても、わざと静かにしてる。
だって、聞いてばっかりで、誰も私の声は聞いてくれないから。」
「それ、いいね。」ミナが微笑む。
「沈黙の休暇。」
笑いが少しずつ戻ってくる。
この空気が好きだ。
誰も他人を責めない。
誰も被害者ぶらない。
ただ、「疲れたね」って言い合える。
それだけで、救われる瞬間がある。
「でもさ、その母性休暇、申請先どこ?」とサエが言った。
ミナがすぐに答える。
「心の労基署。」
「ブラック家庭だと却下されるやつだ。」
「うちの夫、ハンコ持って逃げそう。」
全員、声を出して笑った。
笑いながらも、ちょっとだけ泣きそうだった。
愛って、回すものだと思う。
一方的に注ぎ続けたら、どこかが壊れる。
だからこそ、休むのも愛のうち。
“優しくしない勇気”って、実はそのためにある。
「ミナ、次の母性休暇いつ?」
「明日。」
「早っ!」
「夫の顔見た瞬間に、心のハンコ押されたから。」
「そのスピード感、好き。」
また笑いが起きる。
スコーンの欠片が皿の上で転がる。
冷めたカフェラテの泡が光に透けて消えた。
その光景が、どうしようもなく愛しかった。
「ねえ、これ本にしようよ。」エマが言う。
「“母性休暇のススメ”。」
「第1章、“皿洗い拒否から始める自己回復”。」
「第2章、“沈黙とNetflix”。」
「第3章、“夫の顔を見ない技術”。」
笑いながら、それぞれの中で小さな決意が芽生えていた。
“ちゃんと自分を休ませよう”という決意。
愛を休むことは、愛をやめることじゃない。
むしろ、もう一度ちゃんと愛せるようになるための準備期間。
私たちはみんな、今日、心のどこかで有給申請をした。
“母性、休みます”って。
そしてそれが、この恒例となっていく会議の最初の小さな革命だった。




