5 『あたし』と『私』
『視えてるうちにモノにしろ』
これはハイヤム王国の子どもなら一度は聞かされる言葉だ。
契約者となるには精霊や妖精と関り、友人になる必要がある。
だが、そもそも『視えない』ものには関わることすら出来ない。
精霊はこの世界の自然の霊威が固まって意志をもったものだとされている。
妖精はその精霊の中から実態を持って現れた分身のような存在だ。
精霊や妖精の世界は、大人になればなるほど遠ざかる。
繊細で玄妙な世界だからこそ、先入観や思い込みのない子どもの頃の方が触れやすいのだ。
幼いころに精霊や妖精が視えない者は、その世界との親和性が低い。
ごくわずかな例外を除いて契約者とはなり得ない。
これは歴史的にも証明されているし、ハイヤム王国ではすでに研究されつくした問題だ。
だからハイヤム王国の親の多くは、子どもが幼い間に精霊や妖精と関わらせようと躍起になる。
精霊と妖精、契約者について、フリードが訥々と語る。
まるで初めて話を聞く子どもに言い聞かせるように。
そしてフリードは言った。
「ナディアがトゥーリを見たのは今日が初めてだ」
「つまり先ほどまで、私には契約者となる素質が見られなかった、と?」
移動してきた父の執務室で、私は困り切っていた。
『あたし』と『私』の記憶が統合された時にナディアの記憶も受け継いでいる。
その記憶の中で、私は覚えていた。
まだ話せもしない幼子の頃からヴィントやトゥーリに見守られていたことを。
家令や、我が家を守る騎士達のそば、花が咲き乱れる庭でも妖精を『見た』ことがある。
(記憶が食い違っているってこと?)
私は混乱していたが、兄や父は、私以上に混乱しているようだった。
ソファに腰かける私の隣に、レイモンドが眠っている。
兄は向かいのソファに腰かけて複雑な表情をしていた。
「大精霊の契約者との接触が、お前の素質を目覚めさせたのかもしれない」
沈黙を破ったのは亡き母の肖像画を見つめていた父だ。
「それしか考えられない。
暴走した魔力を全身で受け、精霊と関わる素質が目覚めたのだ」
父は私に背を向けたままで続けた。
「貴族の大多数が契約者であるハイヤム王国で、非契約者は生きにくい。
王国を守るという責務が果たせないと判断され、下級貴族であれば一般市民に降格される場合もあるほどだ。
そのため私もフリードも、幼いお前にトゥーリやヴィントと触れ合わせようと躍起になった。
今ここにいる、と教えたり、どんな姿かを伝えたりするだけではなく、妖精の方から話しかけてもらうことも試した」
父は一気に話してから深く息を吸った。
「大体の貴族や、契約者の素質がある一般市民は、そこまですれば『視える』ものだ。
どこにいるか、どんな姿かも分かり、それでも声が届かない。
それは契約者としての素質が全くないことを意味していた。
……リリーは、お前の母親は、そのことをとても心配していたよ」
私は、私の中にあるナディアの記憶をたどった。
記憶の中にある母の面影は、いつもベッドの上。
困ったような、苦しいような顔をして……。
「ぁ……?」
私は自分の頭を殴られたような感覚に陥り、思わず頭を抱えた。
母は、ずっと私に謝っていた。
『ごめんなさい、私が非契約者なばかりに……』
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。
「お母さま……私……ごめんなさい……」
「ナディー!」
フリードが駆け寄り、私を抱きしめる。
「ナディーは何も悪くない、母上は……」
兄は、父の背中をちらりと見やってから言った。
「母上は、ご自身の不安に負けたんだ」
「違う、私がリリーの支えになれなかっただけだ!
彼女は何も悪くない」
しん、と部屋の中に大きな塊のような沈黙が落ちた。
父であるエメスト=ウィルメットと、リリー=アデライデは、世間から見ると不釣り合いな夫婦だった。
エメストは四大公爵家の一翼を担う大貴族の一人息子であったのに、リリーという非契約者の伯爵令嬢を妻にした。
契約者の素質が血を媒介して受け継がれることが多いハイヤム王国にあって、高位貴族が非契約者と結婚することは稀であり、世間を大いに騒がせた。
それでも、エメストはリリーとの愛を選んだ。
ふたりの間に最初に生まれた子どもは、父に似た男の子で、フリードと名付けられた。
フリードは生後半年になるころにはヴィントと遊んでいたらしい。
そして物心つくころには複数の妖精が視えるようになり、その中で一番仲良くなったトゥーリと契約した。
今のナディアと同じ5歳のときだ。
リリーはどんなにか安心しただろう。
元々身体が弱かったリリーには、なかなか次の子どもが出来なかったが、フリードの誕生から10年たって、女の子を授かった。
母親によく似た女の子は、ナディアと名付けられた。
フリードはナディアの誕生が嬉しかった。
小さな手が自分の指を握ったり、あーうーと何か話しかけてくれるのが可愛くてかわいくて仕方がなかった。
エメストも妻に似た娘が何よりも可愛く、王宮での仕事を無理やり抜け出して家に帰ってくることもしばしばだった。
喜びと愛情に満ちた親子の中で、母親だけが常に何かを心配しているような浮かない顔をしていた。
生後半年がたち、1年がたつと、リリーの浮かない顔は青白くなっていった。
そのころにはナディアに『契約者の素質なし』という噂が立ち始めたのだ。
リリーは日に日に憔悴していった。
「娘に契約者の素質が無ければお前のせいだ。
お前のせいで、娘とウィルメット家は不幸になる」
憔悴したリリーに悪意のある言葉を吹き込む者もいた。
冷静に考えて、非契約者だと言うだけで必ず不幸になるわけではない。
フリードは妹が非契約者でも自分が守ると思っていたし、この件に関して言葉を交わしたことはないが、エメストも同じ気持ちだった。
だからナディアに素質が無いことを、そこまで深く問題視していなかった。
だが、リリーは違った。
自分自身が非契約者の貴族として生きてきたリリーは、その苦しみを身を持って知っていた。
自分を愛して守ってくれるエメストに会うまでは、地獄のように暗い日々を送っていたことを忘れられなかった。
娘を愛するあまり、絶望は深まった。
娘だけではなく、愛する夫や可愛い息子まで世間の批判や誹謗中傷に晒されるのではないかと、病的に思い込んだ。
リリーは、心身を消耗してそのまま儚くなってしまった。
ナディアが3歳を迎える目前の冬だった。
最後まで「ナディアを契約者に……」と祈りながら死んでいった。
ナディアやリリーを愛し、守ろうとする者がいることさえ、分からなくなったまま。
少年のフリードは、母の死に、悲しみよりも怒りを感じたほどだ。
「あなたを責める愚か者の言葉より、私たちの言葉を聞いてくれ!」
息子の言葉も届かないほど、リリーは心を病んで亡くなっていった。
「ナディアに契約者の素質が見られるようになったのは、喜ばしい事です」
重苦しい空気を破って、はっきりと言ったのはフリードだ。
ナディアを抱きしめたまま、父の背中に語りかける。
「過去は変えられませんが、未来は変わりました」
「そうかも、しれないな……」
エメストの呟きに隠れた「もっと早くに素質が目覚めていれば」という言葉をフリードは見逃さない。
「母上のことは過ぎたことです。
今はただ、ナディアのことだけを考えてください!」
再び沈黙が落ちた。
フリードの腕の中で、私は頭の痛みをこらえていた。
ナディアの悲しみと恐れが胸の中で、己自身を搔きむしるように渦巻いているのを感じる。
大好きな母が弱っていく姿。
自分自身に向けられる憐みの眼差し。
会えば聞かされる謝罪の言葉。
幼い子どもなりに考えたことがあったのではないだろうか。
『私は、産まれてこなければよかったの?』
(そんなことないよ!)
痛む頭の中で『あたし』はナディアを、『私』自身を気持ちごと抱きしめる。
(そんなことない!
お兄ちゃんも、お父さんも、こんなにあなたのことを愛しているじゃない!)
『でも……!』
心の中のナディアが泣きじゃくる。
『お母さまは私のせいでいなくなったの!』
原作ストーリーの中で、ナディアのことは『レイモンドを虐めぬいた令嬢』としてしか描かれていない。
ナディアが非契約者であったことをプレイヤーは誰も知らないはずだ。
非契約者としての僻みや、契約者の頂点に立つはずのレイモンドへの嫉妬が、ナディアの心に大きな影を落としていたのではないだろうか。
『望まれない子ども』としての罪を感じていたナディアにとって、契約者としての力を持ち、父や国に望まれて生きているように見えたレイモンドはどれだけ眩しく、忌々しかったことだろう。
『私は、契約者に生まれたかった!』
心の中のナディアが叫ぶ。
『お母さまを悲しませない私になりたかった!』
『あたし』は自分自身の身体を、両手でギュッと抱きしめた。
すると、兄がその上からさらに力を込めて抱きしめてくれる。
「大丈夫だよ、ナディー。
きみに契約者の素質があってもなくても、何も変わらない」
その言葉は、まさにナディアに必要な言葉だった。
「私は君を愛しているよ」
私はナディアそのものになって、大声を上げて泣いた。
契約者の素質をもって生まれたかった。
母を喜ばせたかった。
愛される自分になりたかった。
そんなナディアの気持ちが『あたし』を喚んだのかもしれない。
身体を震わせて泣きながら、あたしはそれを理解した。
『あたし』と『私』の記憶が食い違っているのではなく、ナディアが望む記憶に上書きされたのだ。
あたしのイメージや思い込みを媒介にして。
転生前のあたしは非契約者が存在することを知らなかった。
原作ストーリーで語られているのは契約者のことだけだ。
舞台に上がった人たちのことしか描かれていない。
だから当然のようにこう考えていた。
レイモンドの生きた国は、契約者の生きる国だ。
ハイヤム王国の人間なら誰にでも妖精は見える。
そんな考えのまま『あたし』と『私』が統合されたことで、奇跡が起きたのかもしれない。
(きっかけはレイモンドの魔力暴走を受けたことだけれど、これはナディア自身の悲願でもあったんだわ)
やっと収まってきた衝動を自分の中に抑え込む。
そのころには父も気持ちの整理が進んだのだろう。
傍にやってきて、大きな腕を広げ、私と兄の両方をその腕で抱きしめた。
「そうだな、フリードの言うとおりだ。
君を君のまま、愛しているよ、ナディア」
親子3人が抱き合って、鼻をすすっていると、子どもが唸る声が聞こえ、レイモンドが身じろいだ。
5歳の子どもが大泣きに泣いていたのだ、うるさくて目も覚めるだろう。
私は気恥ずかしさもあって、父と兄の腕から抜け出した。
横たわるレイモンドの顔を覗き込み、髪を撫でる。
「おはよう、レイモンド」
紅い瞳を縁取るまつ毛を揺らしながら、レイモンドはゆっくりと目をあけた。