魔王
(一生このまま秘湯に浸かり続ける、なんて、無理だよなあ)
蝶豆のお茶のような澄んだ青から、檸檬蜂蜜のお茶のような微睡んだ橙、そして、黒豆のお茶のような凝縮した黒色へと変化した空を見上げては、秘湯から上がろうとした奏斗は首を傾げた。
お湯が、ないのだ。
先程までなみなみとあったりんごの香りがほのかにする癒しの湯が、ない。
古いお湯から新しいお湯への交換時間が来たのだなきっと。
呑気に考えていた奏斗が立ち上がり、温泉用の衣から外出用の衣へと召喚魔法で変えようとした時だった。
「こんなに容易く背後を取られるとは。それでも我を倒した勇者か?」
「………おまえは魔王。何故おまえが。今は城の結界部屋に封印されているはずなのに」
聞き覚えのある声音、闘気、殺気を感じ取っては、奏斗は秘湯の傍らに置いていた剣へと視線を向けた。
勇者の背後に立っていた魔王もまた勇者の剣へと視線を向けては、嘲笑を浴びせた。
「安心しろ。今はおぬしを殺害しようと思ってはおらん。偶々、おぬしが我の用事先に居ただけの話。ついでに挨拶もしただけよ」
「殺害するだけの力がないからね。今の僕と同じように」
「っふ。そういう事だ」
「………だけど僕は勇者だ。おまえを見過ごすわけにはいかない」
「勇者ではなく、秘湯屋なのだろう。では、我を見過ごしても問題はあるまい。ただし。ああ。憐れだな。すぐに秘湯屋も廃業する事になるだろうがな」
「どういうっ」
魔王の気配が揺らいだと同時に飛び込んでは剣を掴んだ奏斗が振り返った先には、魔王の姿はなかった。
「………まさか、」
奏斗は空になった秘湯を見下ろしては、一筋の冷や汗を流れ落としたのであった。
(2024.11.28)