白昼夢に咲く花の名は
プロローグ
儚く揺れる炎が照らした記憶を、僕はただ、ぼんやりと眺めていた。
静寂と薄闇に包まれた部屋の中で、書斎机の一角だけが鮮明に浮かび上がっている。その様子はまるで、僕の心を忠実に具現化しているようだ。切なくも面映い。
妙な感傷に浸りながら、苦笑いに併せて僕は蝋燭を吹き消した。同時に、二人の思い出を描いた写真が闇の中へ呑まれていく。
夏までの距離を計るには、ここからは果てなく遠い。過去と未来のどちらに進めば『夏』へ辿り着けるのかさえも、今となってはもう分からなくなっていた。
「夏までには… 」
繰り返し呟いてきた言葉を零すと頬杖を解き、僕はゆっくりと立ち上がった。窓を開け放ち、師走の風を目一杯に受け入れた。
窓際に飾られた『二月の妖精』は、まだ小さな蕾をつけている。澄んだ空を見上げた僕の目に、淡い天使の羽が舞っていた。
1
夏までには帰るよ―――そう約束をしてから、何度の季節が廻ったであろう。帰る場所を失った僕は、そのクリスマスにも同じ景色を纏っていた。
華々しいイルミネーションを拵えた街は浮き足立ち、賑やかな色合いで老若男女の心を染めている。一方で記録的な寒波は猛威を揮い、このイベントに掛ける情熱がヒートアップし過ぎないよう通年よりも監視の眼差しを鋭くさせていた。
ホワイト・クリスマスなんて、僕が覚えている限りでは幼い頃に二、三度経験して以来である。
それほど特別な聖夜であるにも拘わらず、僕は昨晩の後悔しか頭になかった。因果はしっかりとしている。それだけに諦めるしか仕方のないことだが、遣る瀬のない憤りは病床の自分を深く突き刺していた。
今年最後の仕事を終えたばかりだというのに、身体を動かすことすらままならない。唾を飲み込むたびにキリリと痛む咽喉の痛みは睡眠を奪い、節という節は絶えず悲鳴を上げていた。
(まるで、あのときみたいだな――― )
似たような症状を持つ風邪を、僕は数年前の同じ時期にも拗らせていた。低い天井を眺めながら、虚ろな瞳を細めていく。
昨日、薄がりの夕刻に帰宅をした僕は、この日のために買っておいたウィスキーボトルを持って足早に自室へと引き上げた。
書斎机の上に置かれた荷物を片隅に寄せ、その中央へキャンドルスタンドを立て掛ける。グラスへウィスキーを注ぎ、七〇年代のR&Bを揃えたレコード盤に針を落とした。
ジジ…と鳴るアナクロニズムに耳を傾けると、僕は一瞬にして、その未知の世界へと魅了されていく。
引き出しから厚紙の小箱を取り出したところで部屋の灯りを消した。ライターの明かりを頼りに机へ戻った僕は、その炎をキャンドルへ移し、柔らかな椅子の中へ身体を沈めた。
厚紙の小箱の、その蓋に手を掛ける。
奥底で脈打つ鼓動を感じながら、鼻から大きく息を吸い込んだ。過去と対峙するには充分な間を置いたはずである。自分自身に言い聞かせ、僕は蓋に添えた右手を慎重に持ち上げた。
「……結衣」
癒えたとばかり思っていた傷口が、再び、ゆっくりと開いていく。
彼女と過ごした時間、彼女を愛していった軌跡を順に取り出し、机の上へ並べていった。何度かの手紙の遣り取りや二人で買ったお揃いのアクセサリー、彼女がお気に入りだったアロマフレグランス―――二人が並んで写された、唯一の写真。
僕は堪え切れず、写真を持つ手をグラスに伸ばした。
結衣との出逢いは数年も前に遡る。
この閉鎖された広大な空間に、僕は自分を脱ぎ捨てられる場所を見つけていた。真夜中の電話が燈した未来への道標―――これから先、その小さな画面に映し出された広い世界を彷徨うことになるとは、当時の僕は夢にも思っていなかった。
方々へ張り巡らされた糸の中から一本を辿る。するとそこは、名古屋からは遠く離れた北の大地だった。
その日、いつもよりも晩い時間に帰宅した僕は、着替えもそこそこにインスタントコーヒーを淹れた。カップを片手に自室へ篭もるとオーディオプレーヤーの電源を入れる。地元インディーズバンドのデモCDが再生される中、ジャケットをベッドの上へ放り、読みかけの推理小説を手に取った。
お気に入りの音楽を聴きながら、お気に入りの小説を、いつものソファーで読み耽る―――僕にとっては至福のひとときだ。
誰にも邪魔をされたくなかった僕は、もちろん玄関に施錠をすることも忘れていなかった。それにも拘わらず―――脱いだばかりのジャケットから聴き馴染んだメロディーが響く。
舌打ちを漏らしながら、その内ポケットへ片手を潜らせた。
【一件の新着メッセージが届いています】
WEBサイトへのリンクが貼り付けられたメールをスクロールさせていく。それは友人に勧められて数週間前に登録したばかりの、SNS運営局からの通知メールであることが分った。
【始めまして、結衣です。よければ仲良くしてください】
SNS――ソーシャルネットワークサービス――を利用していれば頻繁に見られる一文だ。メッセージタイトルだけ確認するとメールボックスを閉じ、携帯電話の電源を落とした。
(これで誰にも邪魔をされることはないだろう)
そんなことを思いながら僕は、ようやく自分の時間へ浸っていった。
最後の曲を奏で終えたレコードは、その針を静かに持ち上げた。
―――静かだ。
グラスを机の上へ戻すと、僕は頬杖を突いてタバコを咥えた。キャンドルを手元に寄せて火を点ける。
まだ早すぎたのであろうか。
頭の中で一寸の後悔は過ったが、一度解きかけた記憶の紐は、僕の意思とは無関係に解けていった。
至福の時間を充分に愉しんだ僕は、凝り固まった背筋を大きく伸ばした。閉じた本を棚へ戻し、時計に目を向ける。午前二時を少しだけ過ぎていた。
(そう言えば… )
携帯電話の電源を入れ、受信メールを再び開く。リンク先のSNSへ赴くと僕は、赤文字で強調された未読メッセージに目を通す。
【突然、ごめんなさい。まだ始めたばかりで慣れていませんが…できれば、メッセージの遣り取りをして頂けませんか?
お待ちしています】
【始めまして。返信が遅れてしまい、ごめんなさい。メッセージの遣り取りは構いませんが、どうして僕だったんですか? 】
愚問であろうか―――恐らくは彼女の中に理由などは存在していないはずだ。
結衣のプロフィールページを見る限り共通点を見つけられなかった僕は、そんなことを思いながらもそのメッセージを送った。
ネット回線を介していれば、誰でも良かったはずだ。もしかしたら同じメッセージを、同時に複数人へ送っていたのかもしれない。その中の一通が、たまたま僕の手元へ届いたのであろう。
そう思って疑わなかった僕に、彼女はすぐに返信を寄越した。
【あなたの名前が、大好きだった人と同じだったんです。
それだけじゃなくて…好きな音楽とか、好きな本とか、あとは趣味も。出身地も年齢も違うから本人じゃないと思うけど、どうしても気になっちゃって】
【僕が嘘を吐いているとしたら? 年齢や出身地を偽っていたり、もしかしたらハンドルネームを使っているかもしれないじゃないですか】
【あぁ、そっか。それは考えてなかったな。ウソ、なんですか? 】
【とりあえず、年齢と出身地に嘘を書いていないことだけは教えておくよ】
【良かった。イロイロとお話を聞かせてください】
快調なリズムで繰り返されるメッセージの往復に、僕は幾分かの心地よさを感じていた。
彼女の言葉を信じるなら―――そのプロフィールに書かれている内容に一切の偽りはないらしい。北海道出身・在住で二十歳のフリーター。板野 結衣という名前も本名で、スタイリストになるのが夢なのだそうだ。こういったサイトが初心者であるというのも、どうやら本当のようである。
一方で僕はと言うと、彼女に負けず劣らずサイト初心者であった。公開されているプロフィールが、すべて馬鹿正直に真実だけで綴られているのもそのためである。
メールを受信するたびにサイトへアクセスするのを煩わしく感じながらも、同時に、通知メールが届くことを愉しみにしている自分がいた。
サイト内のメッセージ機能を使って日中夜に渡り繰り返していた遣り取りは、ある日を境に互いの携帯電話へ移された。どちらからともなくアドレスを交換し、メール中心へと変わっていったのだ。
それに併せるかのように、彼女の言葉には小さな変化が見られるようになっていた。
それまでには使われなかった絵文字やデコメールが届くようになったのは機能上の都合かもしれないが、敬語を使わず言葉を崩すようになったのは、結衣の心が打ち解け始めた証であろう。
仕事を終えると、いつものように彼女のメールを開いた。入社して三年目の、二月のことだ。
【今日も寒いね。こっちは深い雪に埋もれてて、どこへも出掛けられないよ】
泣き顔を浮かべる絵文字に笑みを向けていると、僕の肩を木村先輩が叩いた。
「おつかれ。今夜、時間あるか? 」
「えっ、あ、はぁ… 」
携帯電話をポケットへ押し込むと、僕は曖昧な返事をした。
「最近のお前、ちょっと付き合いが悪いぞ。たまには付き合えよ、な」
もう一度、僕の肩へ手を乗せた木村先輩は、先にオフィスを後にした。
―――付き合いが悪いぞ。
脳裏に木霊する先輩の言葉には、僕自身、ちゃんと自覚をしていた。そうなった時期も、結衣とメールをするようになってからであることは確かだ。
窓の外へ目を向ける。
(現実を蔑ろにして僕は、虚像を求めすぎていたのかもしれない)
夜景の前面でスクリーンに写る自分の顔が、不意に、どこか訝しい表情をしているように見えた。僕はいつも、こんな顔をしていたのであろうか。眉間には皺を寄せ、口の端を小さく歪めている。まるで来る者をすべて拒んでいるかのような、どこか厳しい表情を浮かべていた。
大きく吸い込んだところで息を止め、両掌で自分の顔を強く打った。
「よし、行くか」
通勤カバンを手に取り、僕は木村先輩が待っているであろう正面玄関へと急いだ。
2
電話に出ると麻美は、驚いたような声を上げていた。普段であれば何とも感じない声質だが、今の僕には妙に耳を障る。
「あぁ、ちょっと風邪を引いてな」
咳の合間を縫いながらもどうにかそれを伝え、ベッドから身体を起こす。
「大丈夫、心配するほどのことじゃないよ。ただ…悪いけど、明日の約束はナシにしてくれないか? 今度、ちゃんと埋め合わせをするからさ」
「うん」
どこか寂しそうな口調で頷く麻美に、僕は「ごめんな」と繰り返し呟いた。
―――で、コイツが秋保 麻美だ。
あの日、久し振りに僕を駆り出した木村先輩が連れて行った先は合コンだった。僕以外のメンバーは、すでに顔見知りであるようだ。
「こっちは会社の後輩で、春川 和哉だ。これから仲良くしてやってくれ」
「あの… 」
眉を顰める僕に、女性陣の視線が一斉に注目をする。
まるで獲物を物色するかのような、どこか計算高い眼差しが集まっていた。無論、それが僕の偏見であることは充分に承知しているつもりだ。
(大手有力企業と呼称される会社に勤めてしまったが故の代償であろう)
彼女たちにとって僕は、その社員証明書を入れる器に過ぎない。アイデンティティーの云々よりも、多少の見栄えと、自分の恋人として誇れる職歴や安定した収入のほうが彼女たちにとっては魅力的であるはずだ。
一昔前に持てはやされた『三高』―――高学歴、高収入、高身長―――の比ではないにしたって、その風潮はいまだに根強く息づいている気がしてならない。
「春川です」
雑音に紛れ込んだ僕のつまらなそうな声に、木村先輩の鋭い視線が突き刺さった。場がシラける寸でのところで、同期の藤田がフォローに回った。
「ごめん。コイツ、顔に似合わずシャイだからさ。初対面の美人を前に、緊張してんだよ」
おどけた口調で取り繕う藤田を中心に盛り上がりを取り戻していく合コンを、僕は上の空で眺め続けていた。
【ごめん、返信が遅れた。強引な先輩に連れられて、ちょっと飲みに出掛けていたものだから】
嘘ではないはずなのに、どこか言い訳がましい文面だ。
終電を逃した僕はタクシーの窓を開け放ち、火照った身体をどうにか醒ませていた。
僕の放つ酒臭さと凍てつくような冷気は、あと数十分もの間、タクシーの運転手を襲うであろう。時折、彼の迷惑そうな顔がバックミラーに写り込み、そこから目を背けるようにして僕は携帯電話のディスプレーばかりを覗いていた。
「お節介なのは分かるけど…お前もそろそろ、恋人の一人くらいは作っておけよ。ずっと独りなんだろ? 」
トイレに立つ僕を追った木村先輩は、幾らか優しい表情で口を開いた。
「今日の面子は、そう酷い顔揃えでもないはずだぞ。いつも携帯とにらめっこしてないでさ、たまには生身の人間との…… 」
「すみません、こういうのに慣れてなくて」
木村先輩の言葉を制し、僕は先に席へと戻っていった。
【女の子も、一緒? 】
ハッと我に返る。
恐らくはこれまでのメールで、一番短い文章だ。絵文字も顔文字も使われず、ただその一文だけが車中に照らされていた。
(嘘を吐く必要、ないよな)
僕らの関係は―――僕と結衣とを繋ぐ関わりは、たとえウィークタイの域を越しているとしたって、ただのメール友達に過ぎない。
相手の顔も知らなければ声だって知らない間柄なのだ。
そう思う一方で、僕の指は真実を打ち込むことを頑なに拒んでいた。
【いいや、先輩と二人だけだよ】
―――たまには生身の人間との交流も大切にしろよ。
僕が遮った木村先輩の言葉は、今頃になって僕の耳に響いていた。
厳格な父親に育てられた影響か、僕が『当たり前』と感じることは、世間的には『カタイ』考え方であるらしい。
行儀や作法、マナーなどはもちろんのこと、女性への接し方も、まるでバブル全盛期以前の人間が現代へタイムスリップしたかのようだ。それでいて流行ばかりを中途半端に取り入れようと躍起になっているだけに、一層のことタチが悪い。
そう嘆かれながら生きてきた道を、今更に否定をできないのも事実だ。
僕が将来を保障された会社を選んだことも、合コンたる集まりを避けて通ってきたのもそれが要因であるし、一方で、これまで恋人に恵まれることがなかったことも因果の一つである。
箸の持ち方がどうとか、買い食いや立ち飲みがどうとか言われながらも耐えられるほどのルックスを、僕は生憎、持ち合わせてはいなかったのだ。
一向に馴染めないまま幕を下ろした人生初の合コンが行われた翌朝、電車に揺られている僕に一人の女性が声を掛けた。
「春川さん? 」
窮屈なスペースの狭間を潜り、見覚えのある女性が近付いてくる。
「やっぱり、春川さんですよね。覚えてますか? 」
ニコリと微笑む麻美は、昨夜の派手な服装とは一変し、シックな―――と言うよりも地味な色合いの服に身を包んでいた。
「昨日は、どうも… 」
つり革を握る手を持ち替え、彼女との間に会話をできる程度の隙間を空ける。
「春川さん、合コン苦手でしょ。実は私もなんです。先輩に無理やり連れられていかれたんですけど、昨日が三度目。
あっ、相手は三回とも、昨日と同じ人たちなんですけどね」
肩に掛けたカバンを抱え直し、彼女はクスリと笑った。
「何でだろう、昨日は安心しちゃいました。
前の二回は私が一番馴染めてなかったのに、昨日は春川さんがいたから…少しだけ先輩面ができちゃいました。ありがとうございます」
お礼を言われるほどの筋合いではないのだが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
車内アナウンスが次の停車駅を伝え終えるのを待ち、麻美は抱え直したばかりのカバンを腕に下ろした。
「軽い女とか思わないで欲しいんですけど、もし良かったら連絡ください」
そう言うとカバンから手帳を取り出し、連絡先を書き込んだページを破いて渡した。そしてすぐに、慌てて電車から降りていった。
満員電車に取り残された僕に「待ってます」の一言だけを残して。
冬が過ぎ、春を迎えて夏が来る頃には、僕と麻美はそれらしい雰囲気を醸し出すようになっていた。彼女の好意が僕へ注がれていることには気が付いている。しかし結衣とのメールは相変わらず続いていた。
(やましいことは何もない。結衣は僕にとってメール友達に過ぎないのだ)
顔も知らなければ声だって知らない、そう自分自身に言い聞かせ、納得させようとしていた。
ネットやメールといった回線という距離を隔てた片想いよりも、互いの肉声を知り、生身を感じられる距離にいる麻美と恋に落ちたほうが、一体、どれだけラクであろうか。
煮え切らない想いを抱えたまま僕は、月日ばかりが過ぎていく。
「最近、ログインしてないみたいだけど…もう飽きたのか」
藤田の問い掛けに、僕は眉を傾げた。
「ほら、お前を誘ったSNSだよ。一時はあんなに頻繁に開いていたのに。
あれさ、ログインをしない期間が半年間続くと、登録を自動的に抹消されちゃうから―――そろそろヤバいんじゃないかと思ってさ。
まぁ、デートに忙しいんなら無理にとは言わないけど」
冷やかすように笑いながら、藤田は仕事へと戻っていった。
結衣と直接メールするようになって以来、確かに僕はそのサイトを一度も開いていない。
(結衣は、どうなんだろう? )
不意に疑問が浮かぶと、僕の手はすぐに携帯電話へ伸びていた。
そこは彼女と知り合った切っ掛けになった場所ではあるが、今となってはそれだけの場所である。わざわざサイトを利用せずとも、結衣との遣り取りは続いているのだ。
―――もう、僕には必要ないかな。
そんなことを思いながらも携帯電話を開いたところで、僕はハッとした。
僕にとってはSNSも、メールさえも、結衣との遣り取りをするためのツールへと化していたのだ。そのほかにも目的があったはずの些細なことでさえ、彼女と繋がるための手段にしようとしていたのかもしれない。
訝しい顔を浮かべると瞼を強く瞑り、僕は手の中で、それを静かに閉じた。
夏も本番に差し掛かるとSNS運営局からのメールが届いた。藤田から聞かされていたとおり、あと二週間以内にログインをしなければ登録を抹消するという知らせだ。
「どうしたの、さっきから難しい顔してるよ」
デートと呼ぶには違和感があるが、そのメールを受けた僕は、麻美と映画を観にいった帰りの道中であった。流行のラブロマンスは悲劇のエンディングで幕を閉じ、妙な後味の悪さを残している。
それでも麻美は満足をした様子で、売店でパンフレットまで買っていた。
(初めての映画は、やっぱりアクションとかが良かったかな)
寸分の後悔を抱きながらバスに乗ったところで、そのメールは届いたのだ。
気が付くと彼女の顔からは、それまで見せていた満悦の色が褪せていた。安い笑みをどうにか貼り付け、無理に愉しく振舞っているのが見て取れる。
―――少なくとも彼女にとっては、今日は待ちに待ったデートの日なのだ。
「悪い、何でもないよ。それより、メシでも食ってくか? 」
「うん」
その仮面を脱ぐことなく、嬉しそうな声で麻美は頷いた。
街を一つ分、すっぽりと収めたようなショッピングモールの四階には、かなりの数の飲食店が立ち並んでいた。和食や洋食、中華にイタリアン、さらには北欧家庭料理の専門店まで―――その中から一つを選ぶと、彼女はサンプルケースに向かい合い、メニューを順に目で追っていく。
眉間に皺を寄せ、僕は首を傾げてみせた。
メニューを選んでいるようにはどうしても思われない。彼女の瞳には柔和で穏やかな表情が浮かべられていた。
「昔ね、ここで働いてたことがあるんだ。学生の頃に、アルバイトでね。
それと、もう一つ思い出があって―――その当時に付き合っていた彼と、よく二人で食べに来ていたお店なの」
「そっか」
懐旧の彼方へ向けていた遠い視線を戻すと、一寸の間を置いた麻美はフッと乾いた息を吐いた。今にも崩れそうな笑みをそのままに、彼女の足がその店から遠ざかっていく。
「少しは妬いてくれた? 」
「どうしたんだよ、一体…わけ分かんねぇよ」
困惑する僕を背に彼女の歩みは止まらない。慌てて後を追い掛けると僕は、彼女の名前を小さく呼んだ。
「そんなはず、ないよね。ずっと―――今日だって、いつも携帯ばかりを気にしているし、私といても上の空のままだしね。
あっ、怒ってるわけじゃないよ。ただ、ふとそんなことを感じただけ」
僕が歩みを止めると、その気配に気が付いた麻美も静かに立ち止まった。そして振り返ることなく、言葉を足した。
「ごめんね、今日は帰る。映画、ありがとね」
遠ざかっていく彼女の背中を、今度は呼び止めることができずにいた。
3
【恋人って、いますか? 】
まるで時間が止まってしまったかのようだ。そのメールを最後に結衣からの連絡は途絶えた。いいや、正しくは僕の側から連絡を絶ったのだ。
彼女にとって相当の勇気が要ったメールであったには違いないが、タイミングは最悪だった。
あの日、突と独りきりになった僕はモール内を徘徊していた。彼女の言うとおりだ。確かに僕は、たとえ麻美と一緒にいるときであっても、どこか上の空で携帯電話ばかりを気にしていたように思う。
(もうよそう。これ以上、結衣にのめり込んだところで、誰も幸せにはならない)
心に固く結び、想いを閉じると決めたばかりだというのに―――言いようのない虚無感に襲われた僕は、そのメールを返信することができなかった。
陳腐なラブロマンスを演じていたのは、僕のほうだったのかもしれない。今の僕に比べれば、あの映画の結末のほうがまだマシだ。
当てもなく歩いていた足が二階中央エレベーターの前で止められると、僕は大きく深呼吸をした。
(明日になったら、ちゃんと彼女に謝ろう。そして… )
ハッキリと口にすることなく続けてきた結衣との関係に終止符を打ち、新たな交際を始めるためのシミュレーションを頭の中で構築していく。
生身の人間との交流、僕にはそれを上手くイメージすることができなかった。
いつもと同じ時間の、同じ車輌。それにも拘わらず、見える景色は大きく一変していた。
肩をすぼめ、深く溜め息を吐く。彼女が一人、この車輌に乗り合わせていないだけで、僕の居場所はここから消えてしまったかのようだ。電車に乗る時間や車輌を変えたのであろうか、或いは会社を休んだのであろうか―――昨日の麻美の様子を思うと、思わず僕は不安に囚われていた。
疲れきったサラリーマンたちの息に染められぬよう、努めて意気を高める。しかし付け焼刃のモチベーションは脆く、僕が出社するよりも前にすっかりと萎え果てていた。
会社を前に溜め息を漏らしていると、珍しく遅い木村先輩が声を掛けた。
「どうしたんだよ、朝っぱらから元気ないぞ」
「あっ、おはようございます」
彼はポンポンと肩を叩くと、何も訊かずに正面玄関を潜っていった。背中を押して欲しいときにはお節介なくらいに踏み込んでくるが、触れて欲しくはない悩みには、良い意味で無関心でいてくれるのが木村先輩だ。
そういった鼻を利かせるのが得意なはずの彼の背中が、会社の中へと消えていく。
正直なところ、僕は自分自身の気持ちをよく分かっていなかった。ことのすべてを誰かに相談をしたいと思う一方で、それを話すには、まだ時が満ちていないように思えていた。
(先輩が何も訊かないってことは、まだ相談をする段階じゃないってことだよな)
自分自身にそう言い聞かせると、僕も急いでオフィスへと向かった。
その日の木村先輩は、終始、どこか不自然な様子でいた。その違いをハッキリと指摘することはできないが―――強いて言うなら、冷静さに欠けていて落ち着きがない。
普段であれば決して犯すことのないミスを重ね、昼を過ぎた頃には上司の説教を食らっていた。僕が知る限り、彼が怒声を浴びせられている姿を見るのはこれが始めてだ。
(先輩のほうこそ、一体、どうしたんだろう? )
眉を顰めてはみるが、一通のメールが彼を気遣うだけの余裕を僕から奪っていった。
ほとんど貸し切り状態のバーは、今の僕にはとても有り難かった。
以前は足繁く通っていた店だが、あまり外飲みをしなくなったこともあり、ここ最近では本当に久し振りに見る景色だ。相変わらず閑散とした佇まいは、昨今の不況による影響ではない。
琥珀色に輝くカクテルを口に含むと、小皿に乗せられてナッツを一齧りした。
脳の奥で心地よい音が響き、芳ばしい匂いは鼻を掠めた。それを合図に、忘れかけていた記憶が甦る。モノクロのそれはセピアに、そして徐々に鮮明な色を帯びていった。
このバーが入っている雑居ビルの五階には、小さなライブハウスがある。アマチュアやインディーズのバンドが犇き、毎週日曜日と火曜日には轟音を照らしていた。僕がお気に入りと決め込んだインディーズバンドも、そのライブハウスの出身だ。
このバーへ初めて涼香を誘ったのは、大学生活をちょうど一年だけ残した冬のことだった。
神崎 涼香―――彼女に薦められた本を読み漁り、彼女が好きだった音楽に没頭し、彼女の趣が向けられる映画やドラマは欠かさずチェックしていた。
僕は涼香に、秘めた想いを寄せていた。
「私ね、卒業後には上京しようと思ってるんだ」
ナッツを咀嚼していた顎がピタリと止まる。聞き間違いであろうか。一寸の希望を胸に、僕は彼女の顔を覗き込んだ。
「付いていくことに決めたの、彼女に」
「彼女って… 」
直前まで五階にあるライブ会場にいたため、もちろん見当はついている。僕がそのインディーズバンドを応援するようになったのも、彼女の影響によるものが大きかった。
もともと知っていたバンドのヴォーカリストが、たまたま涼香の親友だった―――ただの偶然ではあるが、それだけで充分だった。僕がそれまで以上の応援をするのに、ほかの理由は必要なかった。
「前にも話したかな…あの子は覚えていないだろうけど、私ね、彼女には大きな恩があるんだ。
小学生の頃から一緒に過ごしてきて、彼女には何度も助けられて。今の私がいるのは彼女のお蔭よ。だから、ずっと付いていくって決めたの。私にとって彼女は、とても大切な存在だから」
涼香の瞳は決意に彩られている。真っ直ぐに未来を見つめ、それが揺るぎないものであると確信すると彼女は、小さく頷いてみせた。
ヴォーカリストの彼女は、幼い頃から妙に大人びた性格だったという。その名残は今の彼女からも見て取れたが、それでも当時の比ではないそうだ。
クラスから孤立することも多く、同級生へ心を開くことも決して多くはなかった。
「彼女を救ったのが、歌だった。そして私は、その歌に救われたの」
幼少の多感期に残された傷は、心の奥へ深く刻まれている。それは決して治癒されることなく、痛々しい姿を留めたままだった。
グラスを空けると涼香は、薄い吐息を漏らした。
「私もね、孤立することの多い子供時代を送っていたんだ。いじめられっ子だったの、私。
ずっと塞ぎ込んでいて、それと同時に、同じ傷を舐め合える仲間を探していた。私は独り―――けど、独りぼっちは私だけじゃないんだって、どこかで納得できる環境を求めていた。
彼女と出逢ってね、私はホッとすることができた。安心をした。彼女も独りなんだって、そう思うと嬉しかった」
遣る瀬のない感情が込み上げる。
たとえ独りがどれだけ集まろうと、その孤独や寂しさは埋められないだろう。独りの集団は、やはり『独りきり』しか生まないのだ。
僕がそう考えることを見透かしていたかのようなタイミングで、彼女は話を進めた。
「けど、彼女の考えは違った。
彼女は歌うことで、輪を広げていった。それまで彼女を孤立させるよう押し計らってきた代表格の女の子まで取り込んで、彼女の周りには人だかりができるようになっていた。私はまた、独りぼっちになっちゃったの。
ある日にね、ちょっとした事件が起きたんだ。小学五年生のときだったかな―――ハッキリとは覚えていないけど、その代表格の女の子と彼女が揉めちゃって。
女の子は、彼女からステージを奪ったの。彼女の歌を聴くと、その人まで仲間はずれにされちゃうよって、みんなにそう吹き込んで」
虚ろな瞳が僕を突く。堪えきれず僕は、涼香から視線を逸らせた。
「一人、また一人と、彼女の前からは友達が減っていった。結局、放課後のステージに残されたのは、彼女と、ほかに行く当てのなかった私だけ。
また独りぼっちが二人、そこには残されたんだって、私はそんなふうに思った。けど、彼女は歌ってくれたの。いつもと変わらない、すごくキレイな声で。
彼女は独りぼっちを二つ作るんじゃなくて、二人を一つ作ろうとした。そう気が付くと、私はハッとした。なんだか、それまでの自分が惨めに思えた。互いの傷なんて舐め合っていても、何も解決しないんだって気付いたの」
眉間に皺を寄せ、掌に抱えていたカクテルを強く握り締める。酔いとは別の、クラクラとする感覚が僕を襲った。
言葉が浮かばない―――固く結ばれた口を歪め、僕は瞳を閉ざした。
「そのステージを終えると、感極まって泣き出しちゃったんだ、彼女。滅多に感情を曝け出さない子だったんだけど、その日は号泣をしていた。
多分、私にだけじゃなくて、初めて見せる顔だったんだと思う。
私も、彼女と一緒に泣いた。ワンワンと声を上げて、二人で泣いたの。そう、そのときの私たちは、紛れもなく『二人』だったんだ」
彼女をもう独りにはさせない―――そう誓ったはずの涼香の死を聞かされたのは、その翌日のことだった。家まで送るという僕の申し出を断り、自宅へ帰る途中で脇見運転車に撥ねられたのだそうだ。
まるで淡雪のように、涼香は凍てつく冬の空へと溶けていった。
残酷な出逢いだったのかもしれない。もしも彼女と出逢わなければ、こんなにも苦しさを味わうことはなかっただろう。
(結ばれることのない想いなら、せめて片思いをさせていて欲しかったな)
琥珀色のカクテルを、僕は一気に飲み干した。
4
気が付くと季節は、秋へと転じていた。
麻美とは連絡がつかず、結衣とのメールも断ったまま時間ばかりが過ぎていく。このまま僕は、彼女たちとの交流が途切れてしまうのであろうか。
「ほっ…北海道? 悪い冗談なら止めてくださいよ」
彼は顔色を変えず、首を左右に振った。
「なんで―――どうして、突然… 」
「ダサい理由だよ。とにかく、もう辞表は出してきた。来週末の辞令で正式に発表されるだろうけど、その前に、お前には知らせておこうと思ってな」
困頓とする静けさの中で、茜に輝く夕陽が僕を襲う。一向に焦点の合わない瞳を伏せ、僕は蒼白の思考回路から言葉を探そうとしていた。
彼を引き止める言葉、彼を送り出す言葉、労い励ます言葉に嘲り中傷する言葉―――そのどれでも良いから、とにかく何かを伝えたかった。
どうして、突然―――そうじゃなかったのかもしれない。
前兆なら余るほどに見続けていたはずなのに、僕がそれに気付かないフリをしてきただけのことだ。その現実を目前に突き付けられたからといって、驚愕するほうが道理から外れている。
「まぁ、北海道へ来ることがあれば連絡しな、待っているからさ。それと…お前はここで頑張れよ」
フッと笑みを浮かべると木村先輩は、僕を残して会議室を後にした。
安定した収入と将来を保障された会社。学生時代の就職活動でここを選んだ社員のほとんどは、それが大きな理由だったに違いない。求人倍率だってそれなりに高いうえ、就職氷河期と呼ばれる時代が訪れて数年が経過している。
それでも彼は、この職場から北の大地へと飛び立ったのだ。
「…北の大地、かぁ」
結衣が生まれ育った空の下に彼はいる。
それはつまり、僕がそこへ行く目的が一つできたということだ。どんな理由があったのかは知らないが、木村先輩がそこへ赴いたのも何かの巡り会わせかもしれない。
鼻で大きく深呼吸をし、僕はその広大な空へ思いを馳せた。
「マジかよ… 」
辞令を眺める僕の隣で、藤田の溜め息がそっと響く。
先輩の辞職について彼は聞かされていなかったようだ。しかし一方で、僕には知らされなかった『退職理由』を藤田は知っているように見えた。
眉を顰め、彼の表情を探る。
「なぁ、藤田。お前――― 」
もしも彼の退職理由を藤田が知っていたとして、それは僕が無神経に訊いて良いことなのであろうか。一寸の葛藤に苛まれ、僕は続く言葉を噤んでいた。
その様子を不審に感じた藤田が、ゆっくりと首を傾げる。
「いや、悪い。何でもないよ」
僕は言いながら、掲示された辞令に視線を戻した。
ゆっくり、ゆっくりと回っていた運命の歯車は、先輩の辞職を期に加速度を増した。
僕を覆う風が、すべての北へ向けて流れていく。僕の背中を強く押すように、その風に抗うことがまるで無謀であるかのように―――。
【今、北海道に来ています】
僕の思いを集約した一文を綴り、送信ボタンを押した。ほんの数秒足らず、それだけで僕の言葉は、彼女のもとへ届いているに違いない。それにも拘わらず、彼女からの返信には数時間を要した。
【釧路の幣舞橋で待っているね。夕方六時に、冬の像の前で】
ヌサマイバシ―――以前に、どこかで聞いた覚えがあった。
全長124メートルに亘る橋で、釧路十景・北海道三大名橋に数えられている。橋梁には春夏秋冬をモチーフに四人の彫刻家によって立てられた『四季の像』と呼ばれるブロンズ像があり、橋のシンボルとなっていた。ちょうど今の時期と重なる晩秋の夕刻時には、太平洋を背に沈みゆく夕陽が一面の天地を紅に染め、エキゾチシズムに酔い痴れられる絶景を生み出すそうだ。
(一体、どこで…誰から聞いたんだろう)
思い返すまでもなく明らかな自問を投げ掛ける。
そんな知識を僕に与え、こうして、ふと思い出せるだけの興味を持たせられた人間は、結衣の外には皆目の見当が付かない。恐らくは遣り取りを繰り返していたメールの、他愛のない一文で僕は知ったのであろう。
天を仰ぎ、重く濁った息を吐く。約束の時間まで僕は、記憶を頼りに始めて訪れる街を廻り返すことにした。
「春と秋との待ち合わせ場所に『冬』を選ぶだなんて…麻美らしいな」
冬のシルエットを前に、両手を背中に回していた彼女は僕の声へと振り返った。逆光の中、麻美が静かに微笑む気配を感じる。
「帰るぞ。ここにいたって、どうせ何も解決しねぇだろ」
一歩分だけ僕が近づくと、彼女は再び、海へと続く釧路川に視線を戻した。麻美の小さな背中に歩みを寄せる。
「名古屋に帰ったって、何も解決しないでしょ」
その声に鋭さは感じられない。それでも何故か、麻美の言葉は僕の胸を深く突き刺していた。
―――木村先輩に、何か相談していたらしいぞ。麻美ちゃん。
藤田からそれを聞かされたのは、まだ数日ほど前のことである。木村先輩の退職理由がどうしても気になっていた僕は、退勤する彼を捕まえ、それとなく探りを入れようとしていた。
「気付いていたんだろ、麻美ちゃんの気持ちに。残酷だよ、お前」
「残酷って、何がだよ」
思惑とは反れた話の行く先は、僕がもっとも苦手とする分野の一つだった。眉尻を下げ、どうにか軌道修正を図る。
「まさか、それが先輩の辞職理由だとでも言うつもりかよ。そんなわけないだろ、俺が知りたいのは… 」
「それが理由だよ」
(―――はぁっ? )
声にはならなかった僕の疑心を耳にした藤田は、顔の上に鋭い眼差しを浮かべた。
「去年の冬、合コンに連れてってもらっただろ。あの面子―――麻美ちゃんも含めて―――うちの会社のお得意先なんだよ。
木村先輩が営業と手を組んで、それで開拓した会社の人間だったんだ」
眉間に皺を寄せる。一瞬、受け入れられるはずのない言葉が脳裏を過った。いくらなんでも、今の時代にそれはないよな―――自分自身を言い包め、その言葉を打ち消そうと試みた。
しかし僕が避けていたそれを、藤田は躊躇うことなくハッキリと口にした。
「人身御供、そう言ってしまえば大袈裟かもしれないけど…まぁ、そんなところさ。
先輩は将来的に独立を考えていた。そのために必要な人脈やコネを確かなパイプラインにするため、同期や後輩を使って定期的に飲み会やら合コン、接待を重ねていたんだ。
この会社とも、自ら開拓したお得意とも繋がりながら、新しい組織を自分で作る。それが先輩の夢だったからな」
木村先輩が開拓した得意先の中でも、あの合コンは特別な意味を持っていた。繰り返しメンバーを招集していたのもそのためである。まだ起業して日が浅く、それでも実績の高さで有望視されている会社だった。
特長とも言うべきは、その経営陣の若さだ。
「…麻美も」
「あぁ、その重役の中の一人だ」
僕は途方に暮れ、嗚咽にも似た感覚が襲っていた。
麻美と別れると、僕は安いビジネスホテルを探して釧路の夜景を徘徊した。彼女を連れてすぐに戻るつもりでいただけに、何の用意もしてきていない。
まるで獲物を物色するかのような、どこか計算高い眼差し―――麻美や、若き重役女性たちと始めて会った合コンで感じたその視線は、単に僕の自惚れであったようだ。
(クソっ、何が『大手有力企業と呼称される会社に勤めてしまったが故の代償』だ)
自分自身への苛立ちが募り、惨めなほどに情けない。深い溜め息を漏らした僕は、酷く軟弱な瞳を人ごみの中へ埋めた。
「デカイ箱の中の米粒と、今はまだ小さな箱に収められたメロン―――どっちに大きな価値があると思う? 」
あの日、藤田が寄越した疑問符が街のネオンに反射する。
答えるまでもなく明白な問いだ。しかしこんなことでもなければ、僕はそれに気付くことができなかっただろう。いつまでも社員証明書を盾に、驕り昂ぶっていたに違いない。
手頃なホテルが見つからないまま途方に暮れていると、ジャケットの中で着信音が響いた。
(誰だろう、こんな時間に… )
ディスプレイを覗き込んだ僕はその場に佇み、歩道の中央を塞き止めていた。
「誰でもよかったわけじゃないさ。俺が見込んでいたからこそ、あの場にお前を呼んだ」
それが言い訳ではない証拠に、「利用しようとしていたのは確かだ」と前置きをしてから彼は続けた。
「大方は藤田の言うとおりだ。しかし、無作為にメンバーの招集をかけていたわけじゃない。
もしもその気があればの話だが―――新しく会社を立ち上げたときに、俺が『欲しい』と思える人物だけにしか声を掛けていない。
たとえ引き抜くことができなくても、あの会社で、いつかは大きく化けそうなヤツらだけを誘っていたんだ。
お前には伝える暇もなかったが、そのことはちゃんと、あの場にいた全員にも伝えてあった」
男が一人暮らしをしているとは思えないほど清潔感に溢れた部屋のソファーへ沈み込み、僕は木村先輩と向かい合っていた。
心の準備などできていなかった。あまりに大きな衝撃を与えた彼は、無表情のまま、淡々とした口調を貫いている。それがどこか不気味で、僕は自由に身動きを取ることができずにいた。
「済まなかったな」
「えっ? 」
「俺の判断ミスだ。もっと早くに伝えておくべきだった―――いや、或いはお前を巻き込むべきじゃなかったのかもしれん。許してくれ」
頭を下げる木村先輩に返す言葉を、すぐに見つけることが僕にはできなかった。
5
木村先輩のマンションで一晩を過ごし、翌朝早くに函館から北海道を発った。僕の隣では見ず知らずの男性が、イヤフォンを耳に詰めながら新聞を大きく広げている。
電車の心地よい揺れが引き寄せる睡魔に、僕は精一杯に抗っていた。
あと三度の乗り換えを繰り返し、およそ半日が経てば、そこは住み慣れた街―――名古屋だ。たった一日の滞在ではあったが、僕は後ろ髪を引かれる思いでいっぱいだった。
そこでやり残してきたことが、すでに止め処なく溢れ出している。
(できるだけ早く…暮までには長期休暇を取って、また行かないとな)
車窓を流れる景色に目を向けながら、僕はスクリーンに映る自身へと誓った。
―――お前、好きな女がいるんだろ。
古いレコード盤に針を乗せ、木村先輩は静かに呟いた。スピーカーからは僕の知らない、けれど妙に懐かしさを感じられる洋楽が響く。一九七〇年代に流行したR&Bらしい。
テーブルの上へ置かれたジャケットに目を落とし、下唇を強く噛んだ。
好きな女、それに思い当たる人物は確かにいる。しかし僕自身でさえ、その真偽をまだ見つけられていない。
答えに窮している僕に、彼はハーブティーを注いだカップを差し出した。
「秋保から相談を受けていてな。あいつと一緒にいるとき、いつも携帯を気にしていたらしいじゃないか」
私といても上の空のままだしね―――麻美の顔がフラッシュバックして離れない。
「……だからって、それが好きな女からとは限らないじゃないですか」
「俺が教えてやったんだよ、アイツに。春川は分かりやすいからな」
「―――えっ? 」
「休暇も取らず、携帯を眺めては浮かれた顔を浮かべている様子から察するに、遠距離恋愛をしているか、或いはバーチャルな恋をしているかのどちらかだろう。
誘いに対してもツレなくなり、それに併せて、藤田から紹介されたSNSのログイン時間が極端に長くなっていた。そうかと思うと、しばらくしてお前はサイトを開かなくなった。
つまり、サイトで知り合った女と直接のアドレスを交換して、そちらで遣り取りを進めるようになった―――そんなところじゃないのか」
木村先輩の鋭い観察眼は、ほとんど正解に近い答えを導いていた。感服に尽き、頭が上がらない。それを確かめるように覗くと、先輩は言葉を続けた。
「だからって訳じゃないんだが、あの日、お前を誘った理由の一つはそれだ。春川には、真っ当な恋愛をして欲しかった。たとえ、俺のお節介だと言われても」
生身の人間との交流も大切にしろよ。それは彼が、すべてを悟ったうえで発しようとした言葉だったようだ。
東京駅から新幹線へ乗り換える。すると見覚えのある男性の姿が目に止まり、僕は指定席車輌から自由席車輌へと移った。
「香坂…か」
「もしかして、春川? 」
彼の背中へ追いつき、憶測は確信へと換わった。懐かしい顔だ。緩めた心に、一寸の痛みが感じられる。危うく再熱しようとする感傷を胸の奥へと追い遣ると、僕は満面の笑みを向け、再会を喜ぶ握手を彼に求めた。
「本当に久し振りだな、解散ライブ以来だろ? 元気にしていたか」
僕の問い掛けに彼も、あの頃と変わらない笑みで応えてみせる。
香坂との繋がりを辿れば、消化などしきれるはずのない過去へ戻されていく。僕が応援をしていたインディーズバンド、彼もまた、その熱烈なファンの一人だった。
二つ並んだ空席に座り、タバコを咥える。
「あのヴォーカルと一緒に、本当に東京へ行っちゃうんだモンな。いくら熱狂的な追っ掛けだったとは言え、香坂には驚かされたよ。
まだ、連絡を取り合っているのか? 」
「あぁ、実はそのことで名古屋へと向かっているんだ」
「そのことって? 」
疑問符を浮かべながらライターを擦る僕の指は、次の彼の一言でピタリと止められた。屈託のない香坂の笑顔は、およそ数年振りになるこの偶然の再会へ向けられたものの比ではない。
「あのバンド、再結成するんだ」
「…ま、マジかよ? だって―――確かあのヴォーカル、もうメジャーデビューしていただろ」
「正確に言えば、もう一押しすれば再結成するかもしれないんだ。
悩んでてさ、アイツ。このままプロのソロミュージシャンとして活動を続けていくのと、バンドを再結成してアマチュアに戻るのと、どちらが幸せなのか…って。それなりにシガラミも多いみたいだからな、音楽業界は。
そこで、だ。俺がかつてのバンドメンバーを集め、説得をして、いつでも活動を再開できる状況を作ってやろうかと思ってな」
ニッと口角を持ち上げた彼に、呆れた息を吹きかける。よくやるよ―――そう言わんばかりの僕の表情に目を向けた香坂は、それまでの活き活きとした明るい瞳を鎮め、淡い笑みを面上に残したまま続けた。
「それに約束しちまったからな、アイツが大切にしていた神崎と。親友をもう、独りぼっちにはさせないって。
たくましいバンド仲間が再び集まれば、神崎だって、きっと安心できるだろ。その報告ついでに、花でも供えてこようかと思ってさ」
僕は口を噤み、タバコの苦い煙を目一杯に吸い込んだ。
一人のファンとしてではなく、そのヴォーカリストに香坂は本気で惚れていたようだ。
今更になって再認識しながら僕は、彼と一緒に、涼香が眠る墓へと訪れた。夜は深まり、僕らを覆う闇を除けば静寂だけが支配をしている。
もしもここでなければ―――涼香が眠るこの霊園でなければ―――とても平静でいられる雰囲気ではない。ひやりと冷たい空気は、この季節のせいばかりではないように思えた。
「わざわざ北海道まで会いに行ったんだけど、ついに連れて帰ることができなくてさ」
近況報告がてらに僕は、麻美や結衣のこと、木村先輩のことを香坂へ話していた。心地よい相槌を耳に響かせながら脚を屈め、彼女の墓前に花を手向ける。
「良いのかよ。そんなこと、神崎の前で話しちゃって。妬かれたってしらねぇぞ」
「良いさ…俺は結局、涼香に想いを告げることすらできていないんだからな」
優しい風が頬を撫でる。思わず苦笑いが零れ、哀愁が胸の中を満たしていった。
そう、僕らは付き合っていたわけではないのだ。一方的に想いを寄せ、けれど僕の心は、それだけで安らぎを得ていた。
今にして思えば、不思議な感覚だ。僕の想いに涼香は気が付いていただろうし、涼香が気付いていることを僕は知っていた。それでも互いに言葉にはせず、僕らは二人の時間を重ねていた。
まるでそこに、悠久が存在していたかのように。
「それで? 」
「えっ? 」
合掌を解いた彼は小さく訊ねた。
「また迎えに行くつもりなのか、その秋保さんって人。お前の気持ちが定まらないままじゃ、かえって迷惑なんじゃねぇの?
これは俺の勝手な想像だけど……お前が神崎へ向けていた想いと、春川に対する彼女の気持ちが似ているように思えてならないんだ。だとすれば、中途半端な気持ちを抱えた神崎にお前は迎えに来て欲しいか」
(耳が痛い言葉だ…… )
昨夜の木村先輩との遣り取りに顔を歪め、自身の心に判断を仰ぐ。僕と麻美との関係は、確かに涼香との距離感に似ているのかもしれない。しかし一方で、涼香と過ごした安らぐ時間の重ね方は似ても寄り付かなかった。
どちらかと言えば、結衣とのメールを繰り返していた日々のほうがそれに近かったように思う。
ゆっくりと立ち上がり、両手をポケットの中へ突っ込んだ。彼の言うことに間違いはない。だからこそ僕は、彼女を東京へ送り出した―――送り出そうと決めたのだ。
「帰るか、そろそろ」
幾分か表情を晴らせた僕に、彼は頷いて応えた。
「事務所を立ち上げることにしたんだ。とは言っても、夢からは大きくかけ離れた小さな会社だけどな」
僅かな資本金を元手に北海道へ渡った木村先輩は、それまでに培った技術職の経歴を棄て、ほとんどノウハウを持たない児童心理カウンセリングの道へと進んだ。
近隣の児童福祉施設や診療所と提携を組み、今は深い知識の習得に奔走しているそうだ。
「アスペルガー症候群とかADHD、自閉症みたいな発達障害を抱える子供を持つ親のための、相談窓口のような場所さ。実際に診断や診察をするわけじゃなく、専門機関を紹介するのが主な仕事かな」
「どうして今のタイミングだったんですか。それも名古屋じゃなく、北海道で」
本棚へ目を移すと、そこには確かに、精神医療の専門書や福祉関連の書籍が並べられている。そのどれもが分厚く、タイトルを見ただけで僕には理解できない内容であることが分った。
「ちょっと、いざこざがあったんだ。
さっきも言ったように、お前のことで秋保から相談を受けていた。興味を持ってもらうためにはどうしたらいいのか、って。
イロイロとアドバイスをしたよ。お前の趣味や特技、得手不得手まで―――俺の知っていることはすべてアイツに伝え、助言もさせてもらった」
麻美と初めて映画を観にいったあの日、彼女は以前に交際をしていた男性と時折食事に出掛けていたというアルバイト先へ僕を連れて行った。その日の夕方まで、彼女の言動の真意を理解できないでいたことを思い出す。
(あれも、先輩の入れ知恵だったのかな)
トレーに乗せた空のカップを片付けた木村先輩はレコードの電源を落とし、代わりに最新型のオーディオを点けた。それまでの曲調とは打って変わり、アップテンポのビートが部屋の中に響く。
「俺からの最後のアドバイスは、アイツには過酷過ぎたのかもしれないな」
「えっ? 」
「諦めろ、それが俺の最後のアドバイスだ。春川の気持ちが揺らがないなら、そろそろ諦めろ、と。新しい男も紹介してやるつもりでいた。
だがアイツは最後まで、それだけは受け入れなかったんだ。片思いのままでも構わないから、ずっとお前を想い続けるってな」
麻美の心情が、僕には理解できそうな気がしていた。涼香との日々を思い返しながらなんとなく頷く一方で、僕は眉間に皺を寄せていた。
―――それが理由だよ。
木村先輩の辞職理由を話す藤田の顔が、睨みつけるようにして僕を締め付ける。
「それで、アイツと仲違いを? 僕のせいですか」
彼はフッと笑うと、首を振って応えた。
「いや、お前のお蔭だよ。春川が決意させてくれたんだ、あのまま進んでいく道が俺には向いてないって。大切な仲間を利用してまで得る成功に、何の意味もないんだって気付かせてくれたんだ。
むしろ俺は、感謝をしているくらいさ」
あの夏、僕の知らない水面下で小さな気泡を立てていた漣が、夏跡の上へそっと降り積もっていく。
穏やかな初夏の陽射しに向けていた瞳を細め、それでも僕は自分を責めずにはいられなかった。
6
ようやく纏まった休みが取れたのは、十二月も終わりに迫った頃のことだった。
旅の支度は整えたものの、僕はお決まりのソファーから身体を動かすことができない。色褪せたクリスマスカラーは新年の装いに包まれ、壁に掛けられたカレンダーがその役目を閉じようとしている。
(香坂のヤツ、メンバーにはちゃんと会いに行けたのかな? )
ボンヤリとする頭でどうでも良いことを考えながら、数日前から攻撃の手を休めない頭痛に僕は必死に抗っていた。
「やっぱ、早めに医者へ通っておくべきだったな」
静かな部屋の中へ独り言を漏らすと、玄関のチャイムが大きく響いた。居留守を決め込もうかとも考えたが、間を置かない二度目のチャイムが耳に衝いて仕方がない。
舌打ちを漏らしながら身体を玄関へと引き摺った。
「はい、どちら…さ……ま」
唾を飲み込む。咽喉がキリリと痛む感覚さえ煩わしいほど、僕は呆然と彼女の顔を見上げていた。
「ただいま」
「あっ、麻美―――どうして」
「帰ってきちゃった。もう戻らないつもりでいたのに、悔しいな」
どこか遠慮がちに微笑んだ彼女は、肩から掛けた大きなカバンの中へ視線を入れた。そこから何かを取り出すと、それを僕へ差し出す。
「はい、木村くんから預かってきたよ。春川さんに返しておいてくれって… 」
「えっ? これ、俺のじゃ――― 」
彼女が手にしていたのは、木村先輩の部屋で聴いていたR&Bのヒットソング集だ。
「ううん、何でもないよ。サンキュな」
恐らくはこのレコードが、僕のマンションまで彼女の背中を押してくれたのであろう。
チャント二人デ話ヲシロヨ―――麻美から木村先輩のメッセージを受け取った僕は、部屋へ招こうとする手を彼女の前で止めた。慌てて口を覆い、彼女を待たせてジャケットを羽織に部屋へ戻る。
僕の様子を気にする麻美の視線を背中で感じながら。
公園のベンチに腰を下ろし、頭上に広がる澄んだ空を見上げる。
できるだけ風通しの良い場所を選んでいた僕は、気が付けばそこにいた。肌を刺す寒さに一寸の後悔を抱く。
(これ以上、悪化しないでくれよ)
不幸の中の幸いとでも言うべきか、篭もるタイプの風邪であったことに感謝をする。隣に座る麻美に悟られないよう注意を払いながら、僕は努めて、彼女のほうへ顔を向けないように気を配っていた。
「木村くんに怒られちゃった」
同じように彼女も、僕の視線の先を柔和な瞳で追った。
「私は春川さんが好き。ずっと好きだった。けど、全然振り向いてくれないんだもん」
―――思い出の場所へ案内したのは、春川さんの気持ちを確かめたかったからなの。私に、少しでもチャンスが残されているかどうかを知りたかった。あのとき、嫉妬して欲しかったんだよね、私は。
僕は不意に、冬の像を囲む釧路の背景へ放った彼女の言葉を思い出した。麻美の華奢な背中が夕陽に飲み込まれ、僕の目には彼女のシルエットだけが映されている。
ほんの数歩分だけ先にいる彼女までの距離が、果てしなく遠いものに感じられていた。
「好きな人、いるんでしょ? 」
彼女の問いに、僕は正直に頷いてみせた。ゆっくりと、大きく首を動かす僕に、もう迷いはなかったように思う。
「だったら、私を諦めさせてよ。たとえ叶わない恋でも良いなんて、もう思わせないで」
「あぁ、そうだな」
繋がりかたを知らなかったんだ。僕の中途半端な優しさが、これまで彼女を悩ませ続けていたのかもしれない。
そんなことを思いながら僕は、自身の体調のせいで心配をさせないよう最後と決めた優しさを演じ続けていた。
会社を辞めた麻美は、単身、北海道へと渡った。
思わせ振りな態度を取り続ける僕と彼女の心との最後の大一番、その戦いに麻美は敗北を帰したのだ。僕の無関心さに見切りをつけると、彼女は一通のメールを寄越した。
【昨日はごめんなさい。折角、楽しみにしていたのに…自分の手で壊しちゃった。
仕掛けのない空に、私はまるでトリックでもあるかのような変化を期待していたのかもしれない。でも、私の空はいつも同じ色をしていた。同じ高さで、同じ匂いを漂わせていた。
気が付いちゃったんだ、そのことに。
さようならじゃない場所へ飛び立ちます。だから、いつまでも友達でいてください】
そう残したきり、彼女からの連絡は途絶えた。
一頻りの成り行きを話した僕は、椅子の背凭れに身体を預けた。無理が祟ったのか、風邪はさらに悪化をしているようだ。声は潰れ、咳やクシャミで上手く喋れない。
「アイツが北海道にいることを突き止めた先輩は、そこで開業することを決めたらしい。それでも、ずっとコンタクトは取らず、少しだけ距離を置いた場所から麻美を見守っていた。
自分のせいで混乱を招いたと思っていたようだから、せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのかな」
僕が北海道を訪れ、木村先輩は始めて麻美の家を訪れたのだという。
咳き込む僕を、藤田は心配そうに覗いた。マスクを顎までずらし、アイスコーヒーで咽喉を潤わす。そうしながら僕は、話を先へ進めた。
「麻美の初恋が埋もれた場所だったんだ、釧路は。
俺を連れていった思い出のカフェレストラン―――そこへ一緒に行っていた昔の恋人ってのが、釧路の出身だったらしい。
そいつはもう結婚をし、妻子持ちだってことを知りながら、麻美は昔の恋人に会いに行ったんだ」
途中で小さく口を挟んだ藤田の「大丈夫か? 」という言葉が、その話題に向けられたものか、或いは僕の体調を気遣ったものなのか、僕は一瞬、正確に判断をすることができなかった。
宙に浮くような感覚が、妙に心地よい。
「俺の気持ちを確かめるため、なんて言っていたけど…本当は、麻美自身の気持ちを確認するためにあの店へ行ったのかもしれない。
過去と現在を対峙させて、自分の気持ちがどちらへ揺れ動くのか確かめたかったんじゃないのかな」
思い出の彼と僕―――二人を天秤に掛け、僕は負けたのだ。彼女の心が敗北したのではなく、僕が彼に勝てなかったのであろう。
朦朧とする思考の中で、それだけは確かであるような気がしてならなかった。
男同士での年越しは、それぞれの恋の話題に花を咲かせていた。
藤田の過去を聞くのは始めてであるが、同時に、涼香や結衣の話題を僕が持ち出したのもこれが始めてだった。除夜の鐘の音を合図にテレビの電源を落とす。
「今年は会いに行こうと思うんだ、結衣に。だから、もう一度だけ招待してくれないか? 」
「招待って? 」
手酌をしながら、彼は首を傾げた。
「あのSNSのサイトへ、だよ。もちろん、結衣が今もいるかどうかは分からない。サイトなんて使うより、携帯へメールを送るほうが確実だと思う。
けど、二人が出逢った場所から、もう一度始めたいんだ。ちゃんとしたリスタートを切りたいんだ」
―――運命が繋がっているとすれば、また必ず結衣とは出逢えるはずだ。
一寸の迷いもなく信じ切った瞳を浮かべていた僕に、藤田は真っ直ぐに頷いて応えた。
7
彼女の部屋に染み付いたアロマフレグランスの香りに酔い痴れる。窓辺の鉢植えには、凛としたスノードロップが咲き誇っていた。
「別名は『二月の妖精』。花言葉はね、『恋の最初の眼差し』なんだって。私が一番好きな花よ」
初めて見聞きするその容姿や声色は、僕が想像していたよりもずっと美しかった。メールの遣り取りで心地よいと感じていたテンポをそのままに、僕らは今、互いの言葉を耳に重ねている。
僕が求めていた安らぎに安堵、癒しや優しさ。彼女から湧き立つ雰囲気には、それらのすべてが備えられているようだ。
愛おしそうに花弁を撫でる彼女の視線に見惚れながら、僕はそっと微笑んでみせた。
一体、幾つの偶然を重ねれば、それを運命と呼べるのだろう―――少なくとも僕らの間には、信じ難いほどの偶然が敷き詰められてきたはずだ。
「ねぇ、結衣。もう一度、春川 和哉と付き合ってみる気はないか? 前に大好きだったっていう春川とは別人だけど、絶対に後悔はさせないからさ」
【あなたの名前が、大好きだった人と同じだったんです】
偶然なんて、初めから存在していなかったのかもしれない。運命が手繰り寄せた出逢い、その必然に踏み込む勇気を、僕がようやく持てただけのことなのだろう。
「夏までには、必ず帰るよ。だから、それまで考えておいて欲しい」
首を縦に振る彼女の奥では、大雪が静かに降り積もっていた。
エピローグ
慌ててやってきた麻美は部屋へ上がるなり、僕の額へ掌を押し当てた。
「すごい熱じゃない! どうしたのよ、本当に」
この冬の寒空に、結衣との思い出に浸って窓を開け放ったまま眠ってしまった―――そんなことなど言えるはずもなく、僕は頭を振るだけに止めた。
「とりあえず何か温かいものでも作るから、横になって休んでいて。キッチン、借りるわよ」
そう言うと彼女は、肩脇のエコバッグに手を伸ばす。
「なぁ、麻美――― 」
「ん? 」
食材を買い込んできたらしい。膨れ上がったバッグの口からは、何種類かの野菜が見えていた。
「サンキュ、な」
「うん」
断ち切られた僕の赤い糸は、今も風に舞って宙を漂っている。麻美はその端を、上手く掴み取ることができるであろうか。
結衣の旅路の案内を涼香に託し、昨夜から降り続けている雪の粒に目を向けた。
「独りぼっちには、させないからな」
キッチンへと消えていく麻美の背中に囁くと、僕は布団に包まり目を閉じた。