第二世界-愛の凱歌-
「こんなところで寝てしまってはお風邪を引いてしまいます。お昼寝の時間にはまだ早いですが屋敷の方へと戻りましょうか。」
聞き慣れた声だった。玖月家に昔から仕えている爺の声。幼い頃から一緒だったため声で分かる。
「昼寝?何を言っているの爺……いえ爺?あなた随分と若々しいけれどもエステにでも行ったのかしら。」
爺は少し目を丸くしたが、すぐに朗らかな笑みを浮かべて一礼した。
「ありがとうございます綾音様。ですがこの爺、玖月家に仕える身。エステなど通う時間あれば、玖月家に尽くす所存です。」
若々しく見えるのは気の所為だというのだろうか。確かにそんな日があるのかもしれない。そんな、大して気にもとめず私は椅子から下りようとした時だった。
おかしい。身体が小さい。自分の身体を見回す。明らかに手足の長さがおかしい。身長だって明らかに縮んでいる。自分の身に何が起きたのか意味が分からなかった。
混乱する私を、爺は優しい笑みを浮かべて抱きかかえた。
「怖い夢でも見たのでしょうか。ご安心下さい。ここにはお嬢様の敵はいません。ありもしない悪夢に怯える必要はないのです。さぁ帰りましょう。」
爺に連れられ敷地内を移動する。懐かしい光景だった。それは幼き頃に見た情景。もう二度と見ることが叶わないと思っていた憧憬。私は十年近く昔に戻っていた。まだ学校にすら通っていない、幼児だった。
そうか、きっと今までのは悪い夢だったんだ。幼き自分が見せた悪い夢。きっと私はこれから大人になっていって、学校では友達に囲まれて、優しい家庭と暖かな団欒をする。そんな当たり前の未来が待っているんだ。
非現実的な出来事はあまりにも荒唐無稽で信じることなんて到底できず、私は全てが泡沫の夢だと思った。当然のことだろう。どうして時間逆行して過去に戻ったなどと、この時は思うことができるだろうか。
事実、夢の出来事とは少し違う出来事が立て続けに起きた。社会情勢とか大人の世界のこともあるけれども、幼い私にとって一番大きなことは交友関係だった。夢の中の私は、玖月家という血筋のせいか、その関係に縛りを課せられ、同級生が楽しげに遊んでいるのを遠くで見ることしか出来なかった。
だが今は違う。きっかけは些細なことだった。
いつものことだった。私は幼稚園で孤立していた。
父は幼い頃から他者と交流することも重要だと言って私を幼稚園に預けたようだが、それでも玖月の威光は陰ることはない。
保育士は自分に大してよそよそしく過保護気味で、その態度は他の子供たちにも影響を受ける。ちょっかいを出そうとする園児もいたが保育士にすぐに捕まり叱られる。いつものことだった。誰も私に関わろうとせず、一人大人しく部屋の隅で迎えを待つ日々。
いつもどおり他の子供たちとは別に、車で送迎されていた。
「ねぇ爺……私って一生こういう生活なのかな。」
愚痴るように呟くと爺は困ったような顔を浮かべ言葉を詰まらせる。仕方のないことだった。爺はとても優しく紳士的であるが雇用主は父である零士。娘の愚痴、不満は父の意向によるものが原因であるため、どうしようもない。
そんなときだった。突然の衝撃。シートベルトが身体に食い込み骨がきしむ。激痛。
何が起きたのか分からなかったが、車が急停止しているのだけは分かった。
私は見た。車のボンネットに何かが乗っかっている。それは奇妙な物体だった。大きな卵のようだったが、粘液のようなものに包まれていて図鑑やテレビでは見たことのないものだった。卵は少しずつ変化していく。人型へと変貌し、手足が生える。その姿はまるでファンタジーで見たような怪物、グレムリンを彷彿させた。
グレムリンと目が合う。グレムリンは飛びかかるが車のフロントガラスに直撃する。ガラスにヒビが入った。グレムリンは何がなんだかわからない様子だったが、ようやく目の前に障害物があることを理解してガラスを叩き始めた。
ガンッガンッガンガンガン!!
私は恐怖に震え何もできなかった。見たことのない怪物が純粋な悪意を持って襲おうとしている。そんな私を、意識が目覚めたのか爺はシートベルトを解き抱きかかえ後部座席へと移動させた。
「お嬢様、何があっても車から出ないで下さい。この怪物は知能が低いが運動神経は高い模様。今の我々が外に出れば為す術もなくやられます。」
爺の分析は正しかった。騒ぎを聞きつけ野次馬がやってきているが、グレムリンは彼らに目もくれず一心不乱にフロントガラスを叩きつける。警察が来るまで爺は死力を尽くして、綾音を守るつもりだったのだ。
やがて無慈悲にガラスは割られる。グレムリンの奇声とともに爺に襲いかかる。爺は叫んでいた。優しかった爺。そんな普段自分が知っている姿からは想像もつかないような怒号。私は涙を流しながら、後部座席の隅で祈るしか無かった。
「こ、こちら現着!◯対あり!!一般市民が襲われています!!発砲の許可を!!」
警察がやってきた。若い警察官が慌てた様子で無線機を使い連絡をしている。もう一人の警察官は警棒を容赦なくグレムリンに叩きつけた。
「何者だこいつは!?動物……それにしては岩みたいに硬い……ええい離れろ!!」
警察官は警棒を使い何度も叩きつけるがグレムリンに傷一つ付けられなかった。だが煩わしく感じたのか、その目玉をギョロりと動かし標的を警察官へと変える。
飛びかかったグレムリンに対し警察官は必死に抵抗するが何一つ有効打はなくグレムリンの手は容赦なく警察官の目玉をくり抜き、口を引き裂き、解体する。ピクピクと動かなくなるまで。
野次馬たちはようやく事態の異常性に気がついたのか悲鳴が上がる。
返り血を浴びたグレムリンは周囲を見渡す。車のフロント部分ではない。サイド部分。怯えた様子で震えている少女の姿を捉えた。
思いっきり車のドアへとタックルする。バコンと音がした。ドアは歪んでいきロックは外れる。ゆっくりと車のドアは開かれていき、グレムリンの姿が見えてくる。私の恐怖は臨界点に達しようとしていた。
「お巡りさん何をしてるんだ!女の子が襲われているのに、どうして助けに行かないんだ!?」
誰かの声が聞こえた。誰でも良かった。どうかこの絶望的な状況を救ってくれないかと。目を瞑って私は祈り続けた。祈り続けるしか無かった。
「ああ、もう!だったら俺がやる!警棒借りるよ!!」
「ま、待って坊主!やめろ!!」
ガシャン!
陶器が割れるような音がした。そして怪物が車にタックルする音が止んだ。
「え……わ……れ……た?何なんだこの生き物……いや……生き物だったのか……?は!こ、こちら桜!◯被の鎮圧に成功!た、ただ119を!先輩と……一般市民、大人一名、子供二名の救護をお願いします!!」
サイレンが鳴り響く。瞼を開くとそこには自分と同じ年頃の少年が立っていた。不思議そうな顔で警棒を握りしめていて、バラバラになったグレムリンだったであろう破片屑を唖然とした様子で見つめていた。
私は大声で泣きわめいた。緊張の糸が切れて、恐怖と不安の感情が溢れ出て、声を上げて泣いた。彼はそんな私の頭をそっと撫でて、優しく抱きしめた。彼の身体はとても暖かくて、そして春風のように心地よく穏やかな安らぎを感じた。
「もう大丈夫だよ。怖いものはいなくなったから。」
それが私の、雨宮蒼音との初めての出会いだった───。





