第1章 3、二百年後
「あの屋敷、昔に大量殺人があったらしいぜ」
「噂だろ、それ。だいたい、昔なんとかーっていうのは、たいてい嘘なんだぜ」
「だったら、肝試し行こうじゃねぇか」
「いいぜ、行ってやろうじゃん」
少年たち三人組みがそんな話をしている傍を、アニカは外套の胸元を引き寄せながら通り過ぎた。
冬に入って間もないこの季節に肝試しとは、子どもの考えることはよくわからない。
「でも、大量殺人があったのは本当だってオヤジが言ってた。もう二百年以上も昔に、この屋敷の主人が罪を犯して、一家皆殺しの命令が下ったんだってさ」
「一家が死んだだけで大量殺人って、大げさじゃね? あ、使用人とかも含めてか」
「もちろん一家も使用人もだけど、それだけじゃなくてさ。命令されて屋敷に突撃した兵士も全員、殺されたって話」
「……誰に?」
「さぁ。とにかく、ここでは多くの人が死んで、それからは誰も足を踏み入れない廃墟になったんだと」
「やっぱり嘘くせぇよ」
はは、と笑う少年たちの会話が聞こえなくなったころ足を止める。吐き出す白い息の向こうに、子どもたちが話題にしていた廃墟があった。
かろうじてそこにあることがわかる、ぼろぼろに崩れた塀の向こう。壁のほとんどが脆く壊れ、骨組が露わとなった滑稽な屋敷は、朽ちるがままに放置されている。
それでもアニカには懐かしく、鼻の奥がじんと痛んだ。
正直なところ、まだ自分に懐かしいと思う心が残っていたなど驚きだった。
(……二百年、か)
その時間の長さに眩暈を起こしかけたが、軽く髪を掻き上げることで誤魔化した。けれど、ふいに手首にきっちりはまった金の腕輪が目に入って、眉をひそめる。
アニカの両の手首には、あの日からずっと、金の腕輪がはめられている。細かな装飾が施された、手首に薄い板を巻きつけたような大きな腕輪だった。
(なにが、助けてやる、よ)
久しぶりにロイを思い出して、アニカはひきつった笑みを浮かべた。
あの男のせいで、アニカは死ねない身体になってしまった。死ねない身体、というのは控え目な表現だ。正確には、化け物になってしまった、と言った方がいい。
アニカはもう、二百年ものあいだ、街から街へふらふらと旅を続けている。食べなくても死なないので、食事はもうずっと取ってない。一か所に留まると歳を取らないために不審に思われるのと、何もすることがないので、ただ旅を続けている。
(恨んでは、いないんだけどね)
もっとも、命は永遠ではない。
この腕輪を引き継いだとき、それは知識としてアニカのなかに足跡を残した。
いくら身体が強靭になろうとも、命の終末はやがてくる。それまで、アニカはただ一人、寂しく何百年のときを過ごすしかないのだ。
――『呪いの腕輪』
それはかつて歴史のなかに消えて行った、とある呪術師の一族がつけていた腕輪のことだ。
生まれてから死ぬまで彼らは一つの腕輪をつけ、いつ何時も外さないという。
そんな彼らが領土争いのなか消えていった際、腕輪だけが侵略国に奪取された。高値で取り引きされ、やがて腕輪に『不老長寿』の力があると知られて、益々高値で取り引きされるようになる。
しかし、実際はそんなよいものではない。
侵略され無念のなか死していった人々の命が、呪いとなって所有者に降りかかるだけの代物だ。
これをつけると、身体がひとのそれとは違ったものになる。
肉体そのものが人と違う細胞に変異してしまうのだ。
結果不老長寿となり、いつ果てるともわからない年月を過ごさなければならなくなる。
アニカは腕輪を継承して二百年のときを生きてきた。
あとどれだけ生きなければならないのだろう。
いつか果てるはずの命を、今はただ怠惰に過ごしている。
腕輪の呪いから逃れる方法もある。
腕輪を託し、呪いを引き継いでくれる人を見つけるのだ。
しかし、腕輪がこの身を離れたらその瞬間、身体は変化に耐えきれずに死ぬことになる。
ロイはそれを知っていて、あえてアニカに腕輪を譲ったのだ。ロイはずっと待っていた。
呪いを引き継ぎ、己に死を与えてくれる人を――。
(ロイは、もういない……どこにも)
アニカはすっと目を細めた。
(つけられてる)
背後を、誰かがついてくる気配がする。
盗賊だろうか、とも思ったが、それにしては身のこなしが随分と大人しい。気配もうまく断っているようだから、アニカが普通の人間ならば気づきはしなかっただろう。
何者だろう、と思いながらも、そっと壁を曲がった瞬間、アニカはひと目を避けて地面を蹴った。とん、と真上の屋根に飛び移り、すぐさまさらに隣の屋根に飛び移る。
屋根は隣から隣へ鱗のように繋がっており、人より数倍も跳躍力に優れたアニカにとって、移動するのは容易かった。
目立たないよう腰をかがめながら屋根を移動していたアニカは、ふと、連なる屋根の先に立つ人影に気づいて足を止めた。
人影は、本当に人影だった。すらりと細長い体躯をしていることはわかるが、まるで姿を誤魔化すように頭からすっぽり白い布を被っている。
じり、と足元の砂利を踏みしめた。
人影の異彩を放つ姿も怪しいが、人影は近づきたくないある種の緊張を放っている。
只者ではない、と勘が訴えていた。
「……誰」
低く呟いた。