P35 ヴァルトアインザームカイトの向こう側
私は一枚の絵に出合い、それに一種の恋をした。
出会いは私の人生の全てを変え、私の見る世界そのものを変えた。
その美術展は近所の美術館で行われた定期的な企画展。
とある収集家のコレクションを展示するという趣旨の物で、ネームバリューがある展示でもなく大きな期待をしていた訳でもなく、ただなんとなく、いつも行っているから程度の心持ちで足を運んだ。
日常の一環。
大学も休みだし、近所だし、そんな程度のもの。
実際美術館は、それはいつものことだけど、人はまばらで静まり返っている。
だけどだからこそ。
この静寂の中での美術鑑賞にこの施設の強い価値を見出していた。
「大学生、1枚で」
「700円です」
「これで」
「……はい、会場は展示室A、展示室B、展示室Cに分かれています。半券を見せれば入場できますので、ごゆっくりご覧ください」
軽い会釈。
空調の効いた館内はより別世界を感じさせる。
空気まで整ったようなリッチな感覚、そこに居る自分の価値まで高まるようなそんな感覚を得る。
多少下世話と言うか、芸術鑑賞をする自分に価値があるとする空想上の金持ちオバサンたちと自分を同一視してしまい何らかの嫌悪に陥る。
肝心の展示と言うとまぁ、こんな感じかという雰囲気。
そこまで統一感があるコレクションと言うモノでもなく。
古今東西、様々な画家や彫刻家の作品が展示されていた。
好きなものはあるけれど、イマイチに感じる物もある、まぁまぁその程度と言った感じ。
可もなく不可もなく。
良。
価値を知る人が見ればまた違うのだろうけれど、私にはそんな鑑定眼は備わっていない。
私はただの、そう、ただの美術が好きな人間。
私の感想にはさしたる価値は無い。
己の好きか嫌いかはあるけれど、それは内なる物差しで殴りつけるようなもの。
人に言うべきモノでもない。
そんな感覚。
そんな生き方。
A室、B室と巡り最後のC室。
そしてそこには巨大なC展示室をほぼ全面使用した1枚の絵画があった。
その絵は瞳だった。
澄んだものではない、どこか濁った、虚ろな眼差し。
その視線は見ているというには弱々しく、貫く力は到底ない、覆うような、視線と言う薄布でこの部屋を包むような。
そんな気持ち。
それは不快感を伴うモノでは無く、むしろ心地よく、限りなく無に近く優しい感覚をもたらした。
空気が視線を湛えており、空気に視線が溶け込んでいる。
水中のような、宇宙のような、空間を視線が満たしている。
音は静かで。
心地よく。
誰もおらず。
永遠に近い。
私は少し恍惚とした顔をしていたかもしれない。
慌てて体裁を繕い鑑賞モードに切り替える。
こんな巨大な絵、話題にならない事を不思議に思った。
見る人によっては不気味な物だからだろうか。
確かに縁起の良い絵には見えないが、それをしてこの絵を不出来な物とするのはあまりにも世間は見る目がないだろう。
巨大すぎてどうやって搬入したのかすら想像もつかない、油彩のように見えるがどこかで分解できるのだろうか。
一向に謎は尽きない。
あまりに巨大な本体に気が付かなかったが、絵にはキャプションが付いていた。
書かれていた内容には少々ピンとこない。
表記にある女性の像、展示会場を見渡すもそれらしき物は見当たらない。
抽象的な表現は、おそらくは作者の中にある世界の話なのかもしれない。
作者はどこの人だろう、ハーフかもしれないが日本人のようにも見える。
ヴァルトアイン、ドイツ語っぽい雰囲気に聞こえる。
シュヴァルツバルトが黒い森だから。
森? アインは数字だった気がする、たしか1。
ドイツ語専攻ではない単なる聞きかじりのオタク知識では限界を感じた。
提示された情報には目にまつわる要素がまるでなく、あるいはこの作品単品では解らない背景があるのかもしれない。
帰りに図録でも買ってみようか。
解説を読めば何かわかることもあるだろう。
展示室の最後にアンケート用紙が置かれていた。
普段アンケートなど書くことはあまりない。
面倒と言うか、恥ずかしいというか、自分の評価の価値をあまり感じていないというか、いややっぱり面倒なんだと思う。
ただ、今日は何か残したい気持ちになる。
本当に簡易で良い。
何か。
何か気持ちを形にしておきたい。
たださっき感じた感情、それは今手繰り寄せようとしてもまるで文章にはならず、それをつらつらとアンケートにしたためるのはあまりに赤裸々で恥ずかしく、憚られるものに感じられた。
私は用紙に「瞳の絵が好きになりました」とだけ記入し、足早に展示会場を後にした。
それから数分後の話だ。
物販でぶらぶらしていると、一人の老人が少し息をあげながら声をかけてきた。
どうにも小走りでやってきたようで、口から漏れだす挨拶が挨拶になっていない。
「いやあの、ちょっと、おちついてください」
「ああ、いや、スミマセン、すみませんね、ちょっと年甲斐もなく、アンケートを、見まして、いや年甲斐もないのは、走った私で、はぁ、はぁ」
「ええと」
「私は、北國千寿。今回のコレクションの所有者で、彫刻家で、ここの館長もしています。いや、ちょっと君、ええと……」
「あー……九重です」
「ああ、九重さんと話したいなと思いまして」
コレクションの収集主、パンフレットなどに名前はあったのかもだけど意識して覚えてはいなかった。
そしてまた美術館の館長とは、そういったこともあるのか。
自身が彫刻家であることを含めても肩書が渋滞している。
さっと展示パンフを見返すとそこに名前、そしてご丁寧に顔写真まで掲載されていた。
「ああ、あ、それ、私です」
笑顔の老人。
少し可愛げがあり扱いに困る。
別にこちらに悪意があるようにも思えない、時間もあるし私は彼の誘いに応じた。
「あ、カフェ行きましょ、ちょっと、おごりますんでね、パフェおいしいよ」
私を無理に追いかけたことでこの老人が亡くなったりしたらそれこそ事に思う。
私は彼が転倒しないよう必要以上に気遣いながらカフェまで移動した。
「先ほどはすみませんでした、本当年甲斐もなく走ってしまって」
「ああいえ、あ、このパフェおいしいです。それでお話とは」
「そうですね、私のコレクションの中でも最大の作品、ヴァルトアインザムカイトの向こう側についてです」
どきん、少し気持ちが高鳴る。
やっぱりそうか。
と思う。
なんでやっぱりと思った。
あの絵が普通とは違うから?
「君はあの絵をどう思いました」
「どう……いや、アンケートに好きとは書きましたが、特にそれ以上のことは」
「そうですか? 失礼とは思うのですが展示会場であなたをお見受けしたとき、到底そうは見えませんでしたが」
「……居たんですか?」
「周囲に気づかないほど見入っていたんですかね」
「まぁ、ハハ、まぁ、そう、ですね、かもしれません」
初対面の相手という事もあるのかもしれない、親と子以上に年齢が離れていることもあるのかもしれない、私が超のつくコミュ障だからかもしれない、老人の得体が知れないこともある、恐らくその全て。
私は非常にたどたどしく、どもりながら、慎重に手札を隠しながら会話を進めた。
「解りますよ、ごめんなさい、まだ警戒しているでしょう。相手は急に話しかけてきた怪しいおじさんですからね、じゃあ少し興味をそそられるような話をしましょうか、実は言うとあの作品はね、まだ完成していないんです」
「……? 加筆中という事ですか……?」
「そうじゃないです。作者のマリは既にこの世にはいない、あの絵はもう独り者です。アートのコンセプト的な話と言いますか、あの作品は見る者と見られる者の関係を得て初めて完成するんです」
「なるほど」
思いのほか前衛的なコンセプトに基づいた作品らしい。
作者の名前に覚えは無かったが面識があるような口ぶりでもあり、思いのほか近年の作品らしい。
「正確に言えば、完成させている人はいるんですよ。多少オカルティックな話に映るかもしれないけれど、あの絵は見透かすんです、あの絵を見た時に感じた感覚、想い、後ろ暗い願望、それらを好み、見通し、見染める。瞳と結ばれ、見る者と見られる者の関係になった時初めてあの作品は完成するんです。見る者……貴方にとっての作品の完成、完成させた人だけが見れる光景がある」
ちょっと遠くを見て話すおじさんの話を聞いて、割合で言うとヤバい話かな半分、惹かれる話だな半分、と言ったところ。
その手の美術カルト自体は嫌いではないが、それが自分の目の前にいざお出しされると少し警戒するところではある。
そしてその話が本当であれば、あの絵には既に私の気持ちが見透かされている。
先ほどまで手に取るようにあったその気持ちであるが、明文化するにはひどく朧げな物に感じられる。
ただその感覚は分類するなら甘美で、なんならジャンルとしてはちょっと官能的なそれで、不確かな輪郭ながらもそれを口に出すのははばかられるような気がした。
口を濁すと老人は笑う。
「ごめんなさい、熱が入り過ぎて余計に怖かったですよね、私もあの作品を完成させたいと願う一人なんですよ」
言いながら老人は席を立った。
「今日は呼び止めてしまいすみません、また来るといいです。そのうち来たくなる、たぶんあの絵にはそういう魔法があるんです」
その日はそれで終わった。
不気味な爺さんだ。
自宅で購入した図録を見返す。
確かにそこにはその瞳があったが、果たしてこんなに小さかっただろうか。
弱々しかっただろうか。
あの空間で出会った絵はもっと力を持っていた。
そんな感じがする。
絵の背景が解るかと思ってもいたが、そういった記述も乏しく、作者についての紹介が僅かに載るばかりだった。
マリア・ミューラー、そう書けば間違いなくドイツ人。
ジーニアス10とやらに選ばれるほどのドイツの偉い研究者らしくどちらかと言えば画業は趣味に近いらしい。
天才的な頭脳を持ちながらにあんな絵を作る、ダヴィンチかなにかか。
才は平等には分配されない、なんとなく心が凹む音がした。
その後も時々図録を見ていたが、自分の感覚が間違っていたのか、それとも図録が図録でしかないだけなのか。
瞳の前に立った感動、感覚が日を追うごとに薄まっていくことを感じる。
日に日に焦がれるような気持ちが募り、案の定一週間後の週末には再び美術館を訪れていた。
瞳は変わらずそこにあり、そしてそれは図録が図録でしかないことを表していた。
満足。
展示室には件の異常老人はいなかったが、代わりに一人の女性がいた。
年齢はおよそ同じくらいだろうか。
黒い長髪が特徴的で少し硬い印象を受けた。
女性は瞳を見つめ、全く動かない。
一方の瞳は変わらず私のことを見ており、私はしばしその感覚と魅力に陶酔していた。
やはり書籍書面ではあの魔力を感じることはできない。
瞳の視線にトリップしていると本当に不意に女性が声をかけてきた。
「あ、あの、もしかして千寿さんがおっしゃってた方でしょうか」
本当にあまりにも不意でだいぶ変な声を出した。
あの爺さんには個人情報などの概念は無いのか。
思わず顔に出たのか女性は途端に狼狽する。
「あー、えと、ごめんなさい、気を悪くなさらないで、いえ、千寿さんは悪くないんです。私が詰め寄って聞き出してしまったので」
「えと、あー、どなたです」
「聖屋モエカと申します、北國千寿は祖父で、今は大学の関係で同居させていただいてます」
「ああ、そういうことですか。九重ユウです」
「よろしくお願いします、その……九重さんも、絵を完成させようとしているんでしょうか」
「あーその話か、私は……そこまでは、まだかな、あの人のいう事もまだ半信半疑だし、聖屋さんはそうなの?」
「はい、そのため毎日ここに通って瞳と会っているのですが、中々どうして解らないもので」
毎日とは驚きだ。
いや少し悪い意味も含めた驚きだ。
意外と彼の言葉を追いかけている人はいるのかもしれない。
それとも親族だからだろうか。
「あ、あの私、この後3時から大学へ行く予定なんですが、その前にちょっとで良いのでお話しできません? そこカフェで、あ、お代は私が持ちますので、パフェがおいしいんです」
「はぁ、まぁ解りました」
この一族は奢るのが好きなのか、あるいは懐が豊かなのか。
おそらく両方だろう。
パフェに罪はなく、来るパフェは拒まず。
「九重さんは千寿さんの事やばいカルトか何かだと思ってます?」
ド直球な質問、パフェが飛び出すかと思った。
正直結構思ってはいるのだけれど、それを親族の前で言うのもどうかとも思う。
もっとも彼女もなんとなく察している感じで、問い尋ねる表情は柔らかい。
「うーん、失礼とは思うんですけど、まーまぁ、多少は。ああ、ただそういう話自体は嫌いじゃないんですよ、特殊なコンセプトのアート作品ってのも好きですし、カルト芸術も興味あるし」
「あんまり、つくろわないでも大丈夫ですよ、私も千寿さんは結構ヤバい人だと思ってるんで」
「あ、そうなの?」
「ええ、あの人アーティストとしてなんて呼ばれているか知っています? 死の彫刻家ですよ。人の死体の彫刻ばっかり作ってる」
「おう」
「ただあの人が言ってることが本当で、絵が特別なものであることも解るんです」
「うん、それは判るよ、そうじゃなければ私はこんな話気にも留めていないから。どっちかと言えばあの絵の方が信じられて千寿さんのトンデモを逆に補強しているというか、証人になっているというか」
彼女は静かに頷く。
「解ります、私あの絵の強いまなざしというか、強烈な存在感が好きで」
ほう、私とは抱く気持ちが全く違う。
当然それを否定する気も無いし、人が何を感じ取るかは自由だろう。
「面白いかも、私は全然違う感じ方だった」
「そうなんです?」
「うん、優しいって言うか心地いいって言うか、海で泳いでる感じ? あ、聖屋さんの感じ方を否定する気はないよ?」
「いいですね! 九重さんは絵を描く人ですか?」
何を言うにも突然な子である。
ちなみに私は、絵を描く人である。
通ってるのも美術大学だしね。
とはいえ自分が絵で食っていけるような感覚は無く、そもそもに強い熱意が足りていない気がする。
子どもの頃から絵が好きで、毎日のように絵を描き、それしか才がなく、それ以上の才もなく、惰性で今に至る。
「え、なんで?」
「あ、いや~なんとなくです。たぶん絵を描く人って感覚に対して自由と言うか、普通の人は眼は見るものでそれに対して泳いでる感覚なんて口に出す人あんまりいないと思うというか、描くからこそできる考え、思考があるというか」
「まぁ、解るかも、しれないけどそこまで自分を客観視できないかな、凄いね、うん、私は絵は描く人です」
「やっぱり」
にんまりと笑う。
初対面は頑なな印象に見えた表情もこう見るとすごくかわいい。
「ただなんというか、初めて見た時の絵の感覚がやっぱり最高だったというか、きょう二回目なんだけど、ちょっと初回の時と違ったというか」
「わかります。私も通いすぎたせいで何が何だか解んなくなってきてしまって」
「あの時の感覚を言葉にできたらね、もう少し何か違うものが見える気がするんだけど、思考は霧散しちゃうというか、常に色々なことを考えていて、目から仕入れた情報に対して頭の中で言語化された思考が渦巻いていると思うんだけど、そういうのって一時的なもので、頭の中で考えていたことも、願望も、感情も、その場で言語化して文章化しないとやがて形骸化して、いずれその時の感覚すらも失ってしまう。そんな感じ」
「すごい、すごいです、そうなんですよ。たぶん絵の完成にはそれが足りていない」
「そうなの?」
「わかんないです、でもそういうのも必要なんだと思うんです。後は何かカルト的なエッセンスそっちは千寿さんですね」
あのじいさん、マジモンのその系統なのか。
「ああ、もし私が小説の主人公ならば、きっと地の文にその時の気持ちが書き綴られているだろうにね」
「いいですね、その捉え方、ああ~なんというか、私変なことを言うかもしれないんですが、やっぱり私あなたと友達になりたいです」
「なんか……ほんと凄いね、そういって友達になろうとする人」
「だ、駄目ですか?」
「駄目じゃないけど」
「じゃあ」
「わかりました」
「それで……その、勝負しませんか、どちらが先に絵を完成させるか」
この後知ったんだけど彼女は私は同じ大学の同期生だった。
彼女と私は友人になり。
すぐに親友になり。
そして共にあの絵の完成を目指した。
季節はどんどんと移ろっていく、一人より二人の方が早い気がする。
一緒の時間を過ごし、一緒に絵を研究した。
絵に関する知識を求めて千寿さんの家にも行った。
思った以上に彼はオカルティストで、その知識は多岐に及んでいた。
もとよりそっち寄りの素質持ちだったモエもだけれど。
私も結果としてカルト的な傾倒を強めていくことになった、まぁ、もとより興味のある方面、楽しさも感じられた。
展示会は終了したが、あの絵は常設展示となった。
私は取得した年間パスで足しげく絵のもとを訪れた。
彼女と共に定期的にあの絵に会いに行き、完成を目指した。
その完成が何であるかもわからないまま。
毎日はとても充実していた。
そう思っていた。
あの日までは。
そんなある日。
モエが消えたのだ。
行方不明。
始めは一緒に居過ぎたせいで数日姿が見えないことに過剰反応しただけだと思った。
しかしメールも、SNSも返信が無い。
電話もつながらない。
風邪でも引いたのかそのうちひょっこり顔を見せると自分に言い聞かせた。
不安が確信に変わっている間に一週間が経った。
彼女は消えてしまった。
友人への心配も次第にほかの気持ちに塗りつぶされる。
彼女に先を越されたかもしれない。
という焦り。
思い至ると火がついて、居ても立ってもいられなくなる。
千寿を訪ね、何か情報を聞き出せないか。
自宅へ行き、インターホン越しに見る彼の表情は何とも読み取りにくい物だった。
「千寿さん……あの、モエの事」
「ああ、九重さんか、モエカなら先に行ったよ」
「やっぱり! 先に行ったってどういう!」
「あいつは上手くやったよ」
やっぱりそうだ。
モエは絵を完成させ、そして、どこかへ行ってしまった。
どこへ?
「安心しなさい、絵を完成させるのは一人だけではない、絵はその人にとっての完成でしかない、あの作品はまだ完成していない、安心しなさい」
「私はどうすれば」
「来ると思っていた、郵便入れに鍵とIDカードそれとマイクロSDが入れてある。鍵とカードで裏口から展示室まで入れる、水曜日の警備員シフトに細工をしておいた、夜中ならだれもいないだろう。後は君が思うようにして見るといい」
確かにそこには鍵があった。
「SDは?」
「あとで見てみなさい」
千寿はおそらく最初から分かっていたのだろうか。
おそらくだけど、あの絵には何らかの魅了の術がある。
それもオカルティックな、後ろ暗い何かが。
催眠術の類だろうか、私たちは魅了され その術にかかったものを引き寄せ、そして。
モエは消えた。
それが意味するのはおそらくそういったことだと思う。
SDカードにはモエの最後らしき映像が記録されていた。
映像と言っても大半は展示場の関係ない方向を撮影しており、ただぼんやりと声だけが記録されている。
彼女の苦しそうな声とうわごと「私が先に、完成させました」という言葉。
それを最後に静かになる展示場。
絵の完成とは一種の生贄的な儀式なのではないか。
危険なことは理解できるが、頭はもう抗えない。
水曜日まで自室にこもり、爪を噛み、突き動かすような衝動を耐えながら、布団の中で過ごした。
自分を生贄として差し出す。
おそらくそういった儀式的要素により絵は完成する。
水曜日、夜までの時間が苦しい。
早く生贄になりたい!
あたりが暗くなってきて私は美術館へと向かった。
多分もう家に帰ることは無い気がする。
初めての美術館バックヤード。
おおむねの配置から目指す方向は判るとは思ったのだけれど、実際の空間は思いのほか広く複雑だった。
幸いしっかりと警備員はおらず、手元のカードはほぼすべての部屋を開けることが出来た。
一部の美術倉庫のみカードが対応していなかったが、セキュリティの都合そういった物になっていたのかもしれない。
扉を一枚開けるごとに、祭壇へ一歩ずつ上がっていくような気持ちになる。
展示室の裏口、関係者しか入れない場所から展示室へと至る。
展示室は天井の一部から間接光が入るようになっており、月明かりでごくうっすらと照らされていた。
その光景はより神秘的で、瞳のもつ力を一層高めているように感じる。
部屋の中が一種の気に満ちていた。
何もない空間に何かが詰まっているような。
オカルトな儀式とは真逆な神聖な感覚。
私は瞳の前に立つ。
そしてゆっくりと衣服を脱いで、薬を飲む。
自分を儀式の生贄として完成させていく。
こんな状態なのに恐怖が少しも湧いてこず作品の完成がただ楽しみでならない。
そう思うように私自身が思わされているだけなのか、それとも既に私がおかしいのか。
一種のトランス状態のようでもあるが思考は続き、そして加速しているようにすら思えた。
静寂に対して自分の心音だけがただ煩いほどに鳴り響いていて、ああ、なんでこんなに邪魔なのかとすら思うのだ。
ああ、胸の音よ止まって、ただ私にこの静寂を味合わせて。
願い。
そして突然、静かになる。
耳が聞こえなくなったと思ったが、そうではない。
もう心臓が動いていなかった。
昔から自分に無頓着だと言われることが多かった。
今になってちょっとなるほどと思う。
あの瞳は確かに私の心、その奥にある黒い願いを見透かした。
薄暗い願望、言語化できなかったその感覚をものの見事に表現してみせた。
初めてあの絵に対面した時を遥かに超える強い感覚が私を襲う。
眼差しが体を内と外から包み満たしていく。
外側からの暖かな眼差しと、内に広がる暖かい感覚が私を挟み込む。
やがてそれは穏やかな熱を帯びて、体をゆっくりとほどいていくような甘い感覚が満たしていった。
体は、いや魂が? 水に溶け込むように輪郭を失っていき。
穏やかに熱せられたそれがふんわりと溶けていき部屋中の大気と一体になる。
自分が極限まで希釈されていく。
私の意識は波間に漂う繭玉のようにほどけ、そして二度とは戻らない。
二度と同じ形にはならない。
作品はそして完成した。
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