P26 研究室に残された手記8
彼らは遠い世界から来た。
それは海であり、海はまた彼方の宇宙と人の見る夢とまた同義であった。
何処までも続く赤い海の向こうから彼は私たちを見ていた。
彼らには敵意は無い。
彼らに悪意は無い。
彼らに明確な意識は無く、そしてまた意識が崇高なものであるという感覚も無い。
世の中に存在する神が意識を持つのは、その神を作り出したのが人間だからであろう。
人類こそが意識を高尚なものであると定めた。
それは人類が高位の存在であるがためだ、故に当然のように人の作った神も意識を持っていた。
存在の目的が一種の継承であり、後世に存在を残すことであるとするならば。
彼らは永久に存在することにおいてまさしく存在の頂点であると言える。
ただそれは永久に朽ちぬ石像と同義であり。
彼らはただ永久に存在している。
意識なんて持っていたら狂ってしまうのだ。
本来彼らに意識などは無い。
永遠の時間は言わば線のような物だが、時にその線に点が浮かび上がることがある。
一瞬で消えてしまうその点。
彼らのうちの一体がゆっくりとこちらに手を伸ばした。
点を掴もうとした。
遠い海からこちらを見ていた彼はざぶざぶと人の夢の中に分け入り、ゆっくりとその指先で私たちの体をまるで果物の皮をむくように開き、そしてそこにある脳を見つけて、彼は興味を持った。
赤く熟れたその球体に彼は興味を持ってしまった。
我々は見つかってしまった。
彼は意識を模倣し始めた。
しかし意識を手にした彼は完全な永久ではなくなってしまった。
意識は揺らぎとなって彼の存在の永久を乱した。
存在しなくなる可能性を生んだ。
意識を模倣した彼はそこで恐怖を感じる。
永久ではなくなり、自らが存在しなくなる可能性を獲得したばかりの意識で恐怖したのだ。
彼は試行を始めた。
彼が存在しなくなる可能性を探しそれをあらかじめ排除するため世界を幾度となく繰り返した。
そうして発生した消失の未来を一つずつ摘み取って行き彼の意識は一つの安寧を得ようとした。
それでもまた、繰り返し、繰り返し、気が遠くなるほどの世界を繰り返しても、意識を得たことによって生み出された揺らぎが彼らが消失する世界を生み出し続ける。
可能性は永久にゼロにはならず、彼はそしてついに恐怖に押しつぶされていった。
意識なんて手にしたばかりに。
とてつもない恐怖に押しつぶされた彼は我々に問うのだ。
「あなたたちはこわくないのですか」
と、震える声で、小さな声で問うのだ。
そして女は答えてしまった。
「この子がいますから」
女は大切そうにその膨らんだ腹を撫でた。
朝、使用人の叫ぶ声で私は夢から覚めた。
妻は腹から下が無くなっていた。
あの子はいなくなっていた。