きつねの境目(三十と一夜の短篇第62回)
温泉町の裏に包丁も研げそうな急流があるというので、妻と一緒に見に行くことにした。実は妻はきつねである。わたしはそのことに気づいていて、なんとか正体を暴こうと思い、新聞広告で見た丸金博士考案のきつね薬を頭からかけたが正体をあらわさなかったので、わたしはこの温泉旅行にかこつけて、妻に化けたきつねを急流に叩き込もうと思った。
妻は急流を見に行くことを嫌がったが、わたしはねばって、妻を外に連れ出した。もう日は暮れかけていて、青い光が背中を流れていく。月はまだ頼りなく姿ばかりで光がない。朝の始まりとも昼の終わりとも分からぬ時間のなか、わたしは川を締める瀬の音を頼りに温泉町を歩き、ついに目当ての急流を見つけた。
さほど広くはないが、吊り橋の下で水は白く泡立ち、岩は長年の流れにすり減って、大きな平らのまな板のようになっている。
「まあ、ずいぶんな流れ様ではありませんか」
きつねはもっともらしいことを言っている。
「どうだい、お前、これに飛び込んだら、人間は死ぬと思うかね?」
妻はまあ物騒と気味悪顔をしたが、こうした演技にはもう慣れている。
「じゃあ、人間ときつねが一緒に落ちたらどうなるね?」
「そうですねえ。きつねはうまく泳ぎ切るんじゃないでしょうか。山の動物ですからねえ」
ちょっと自慢げに言ったのが運の尽きだった。何かを自慢するとき気が緩むのは人もきつねも変わらないらしい。菫色の浴衣の後ろからきつねの尻尾が出る。わたしはしめたと思った。
「やあ、この畜生め。正体あらわしたな! おれの妻に化けやがって!」
わたしはきつねを突き飛ばした。吊り橋の縄欄干からずるっと滑り落ちたきつねはそのまま灰色の光のなかで暴れまわる水に飲まれ、菫色の浴衣はあっという間に川下へと流れ去った。
きつねを斃したことで満足したわたしは旅館に帰り、ひと風呂浴び、東京の本物の妻に電話した。だが、妻は電話に出ない。
部屋に戻り、チェリーを吹かしていると、旅館の女中が顔を青くして、警官がやってきたとわたしに伝えてきた。
はて、いったい何であろうと思う。玄関先で待っていたのは白い夏服のサーベル持ちの駐在勤めと私服の刑事だった。
「××さんですね」
「そうですが」
警官と刑事はちょっと気まずそうにしてから伝えた。
「奥様が亡くなりました。川で。ご遺体が上がりました」
「そんなバカな。妻は東京にいます」
現場に連れていかれると、温泉町から川沿いに下った大岩の上に白衣を着た医者のような男と警官が数人立っていて、蓆がかけられた死体のまわりに集まっていた。そばではごうごうと急流が音を立て、ガラスランプがいくつか灯っている。
わたしを待っていたらしく、蓆が除けられた。
そこにはキツネのかわりにずぶ濡れになったわたしの妻が目をつむり、髪を乱した様で仰向けになっていた。
「いや。これは妻ではありません」わたしはすっかり狼狽してこたえる。「きつねですよ。きつねなんです」
「隣町の警察署まで同行していただけますか?」
「どうして?」
「あなたが奥さんを吊り橋から突き落したのを見た人がいる。大人しく来なさい」
どうしたことかこれまで大人しそうに見えていた警察が急にわたしを犯罪者扱いする。
「待ってください。これはきつねの仕業です。妻の死体に化けて、わたしを罠にかけようとしているのです」
ところが駐在がわたしの腕をしっかりとつかんだ。思わず、それを振り払おうとするなり、わたしは大岩の上でたたらを踏み、そのまま急流に背中から落ちてしまった。
水のなかを縦横にがむしゃらに水を掻いている必死のわたしの耳に笑い声がきこえてきた。
「ゲラゲラゲラ」
「ケラケラケラ」
「ホホホホホホ」
気がつくとわたしは温泉町の外れの土手の半ばに座っていた。
手がべったりと何かに濡れた。
においを嗅ぐとキツネの小便だった。
まんまとやられた。
「おい、××。お迎えだぞ」
目が覚める。見ると、見慣れた看守の鋭いがどこか憐憫の帯びた目が鉄の扉の覗き窓から見えていた。
ああ、そうか。
わたしは今日、妻殺しで絞首刑になるのだ。
わたしは妻を保険金目当てに殺して、裁判では精神薄弱者のふりをしてきつねの仕業だと繰り返し、罪を逃れようとしたが、結局死刑を言い渡され、そのときのショックで心を損ない、自分でついた嘘を信じ込んでしまっていたのだ。
わたしはキレイなカラシ色の獄着姿で暗い廊下を歩いた。
処刑室まで行き、絞首台に立たされる。
白衣を着た医者らしい男と落とし板のレバーを引く役の看守、それに私服の男がふたり、わたしがぶらさがるのを待っている。
目隠しをし、縄を首にかけられる。
だが、その瞬間、わたしは目が覚めるのではないか? 医者や看守たちがケラケラケラと笑い、首の縄がきつねの襟巻になり、浴衣姿のわたしは土手の半ばできつねの小便を、――ポキン。