9 僕はバケモノ(2)
檜山の胸の中、慎太郎が上目遣い気味で口を開く。
「……オレね。ほんとに、ひやまさんがいてくれればいいの」
「うん、そっか」
「……ほんとだよ?」
「そんな心配しなくても分かってるよ。……でも、そうだね。とりあえず、明日だけは学校に行ってみようか」
「や、やだ」
ふるふると慎太郎は首を横に振る。少しクセのある髪が、自分の顎をくすぐった。
「だけど、明日行かなかったら、明後日もっと行きにくくなるよ?」
「……いいもん」
「君の友達だって、僕の顔見てびっくりしただけじゃないかな。だから、話せば分かってくれるかも」
「……」
「それに、慎太郎君だって言い返してくれたんだろ? ありがとうね。友達も、今頃『酷いことを言ったかな』って反省してるかもしれない」
「……でも、もっかいおんなじこと言ってきたら?」
「それはまたその時に考えよう。さ、そろそろ寝なきゃ」
「……うん」
細い腕が自分の背に回る。眠たくなってきた子供特有の心地良い体温が、檜山を抱きしめる。
そのまま、しばらくそうしていただろうか。ふいに、小学生らしい高い声がくぐもったのだ。
「ひやまさん」
最初は、寝言だろうと思ったのだ。だから返事をしないでいると、彼は自分が寝ていると判断したのだろう。幸せそうに、身をすり寄せてきた。
「だいすき。せかいでいちばん、だいすき」
――その瞬間、心臓が凍りついたのである。
僅かにあった眠気も吹き飛んで、息なんてまともにできたもんじゃなくて。心臓ばかりがバクバクとして、煩くてたまらない。
自分の体が震えないよう懸命に抑えながら、恐る恐る慎太郎の顔を覗く。だが、彼は既に寝息を立てていた。
(……僕は、今、何を考えた?)
冷や汗が流れる。強烈な痛みがこめかみを刺す。無防備な寝顔を晒す腕の中の慎太郎の存在だけが、優しくて温かい。
――ああ、やめろ。何を考えた? これほど純粋に自分を慕ってくれている子を。実の家族より慈しんだ子を。
(守りたいとか、傷つかせたくないとか。そんないかにも美しい言い訳を並べ立てて。 ……本当にそれだけか? 彼に抱いた感情は、それだけだったのか?)
(違うだろ。僕は、この子を他の誰からも隔絶しようとした。僕の元から離れないように。僕以外の全てを見ないように)
(――全ての自由を奪って、自分を愛してくれるこの子を自分だけのものにしたかった)
必死になって導き出した結論は、しかし檜山を徹底的に絶望に陥れるものだった。嘲笑うように狂おしいまでの衝動が檜山を襲うが、ひたすら奥歯を噛み締めて耐える。……どんなに美しい言葉を並べ立てたとても、結局それは子供の脆い立場につけ込んだおぞましい独占欲の権化に過ぎない。そのこともまた、檜山はよく理解していた。
「……君に必要なのは、友達であって僕なんかじゃないよ」
届かないと知っていながら、檜山は言う。
「君のような真っ当な子が、僕に人生を割いちゃいけない。僕の為に、君の一欠片でも失うことがあってはならない」
声が震える。封じ込めようとした悲鳴は全身を巡って涙に変わり、頬を伝った。
「……ごめん、慎太郎君。僕は、バケモノだ」
――脳裏に、自分に優しく微笑みかける両親の顔が蘇る。しかし、それはすぐに歪んだ別の何かに変わった。
カルト教団の教義に溺れた両親は、その日から全く別のものへと成り果ててしまった。生活の全てを教団に支配され、心酔して。そしてとうとう、我が子である自分を残酷な儀式の生贄に捧げたのである。
その姿はまさしく破滅的で、自己陶酔的で、利己的。本来慈しむべきであるはずの我が子を自らの都合で踏み躙り、「本当はこんなことをしたくない」「だがこうしないと自分たちもあなたも救われない」「私達を助けると思って」「あなたは素晴らしい子よ」「愛してる」と。泣きながら、彼らは聞くに耐えないほど美しい愛の言葉を吐き出していたのだ。それらは幼かった檜山にとって、到底理解しがたくおぞましいものだった。
あんなものは自分の親じゃない。バケモノだ。優しかった両親を中から食い破り、外に出てきてしまったのだ。
そう思っていた。だから両親が死んだ時も、悲しかった一方でそのバケモノもまた死んだのだとホッとしたのである。
けれど、もう手遅れだった。バケモノは自分の中にも根を張り、今まさに食い破って外に出てこようとしている。
そして今度は、慎太郎を害そうとしているのだ。
(……ああ、ここまでだ。もう、この子とはいられない)
痛むこめかみを押さえて声を殺し、ぼろぼろと檜山は泣いていた。
(離れなければ。いなくならなければ。
バケモノじゃなく、人間でありたいのなら。この子が慕ってくれた“ひやまさん”として、生きたいと願うなら)
ぽとりと一粒、涙が慎太郎の頬に落ちる。
……安らかな寝息が満ちる、部屋の中。檜山は最後にもう一度だけ愛しい子の頭を撫でると、静かに身を起こした。




