番外編 退院後の帆沼と檜山
「檜山サン」
「……」
「檜山サン、檜山サン」
「…………」
檜山正樹の後ろを、まるでヒヨコのように帆沼呉一がついてくる。風が金木犀の匂いを運ぶ季節のこと。退院した彼は何故かひっきりなしに檜山にまとわりつき、一途な愛を表明していた。
「檜山サン、今日は殊更素敵ですね。もしかして、俺のことを意識してくれているからですか?」
「……」
「あ、やっぱそうなんだ。ほら、今日って付き合って三ヶ月目じゃないですか」
「……」
「だから、その記念にかっこいいのかなと思って」
「……」
「檜山サン、檜山サン」
――が、当の檜山は思いっきり無視である。ガン無視もガン無視。帆沼が親しげに檜山のふわふわしたまとめ髪を引っ張ってこようとも、秋風の悪戯かしらといった顔で流していた。
むべなるかな、傷害事件が起きたあの日を境にして、二人の会話は全く成り立たなくなってしまっていたのである。
檜山が何を話しかけても、帆沼がまともに答えた試しはない。何故なら彼が会話しているのは、自分で作り上げた妄想上の檜山だからだ。つまり、檜山はガワだけあればいいのである。なんとも都合のいいことだ。
それがまた、対檜山にのみこうだというのだからタチが悪い。お陰で彼は退院が許され、こうして足繁く現世堂へと通いつめる結果となっていた。
(かといって、切り捨てるわけにも……)
檜山が考えていると、背後で小さく帆沼の悲鳴が聞こえる。振り返ると、彼は右下にあった段ボールに躓き、今にも倒れようとする所だった。
「危ない!」
咄嗟に腕を滑り込ませ、彼を抱える形で転倒を防ぐ。帆沼はパチパチとまばたきをしていたが、真正面に檜山の顔を認めるなり笑み崩れた。
「檜山サン」
首の後ろに手を回され、ぎゅっと抱きしめられる。愛のこもった抱擁に、檜山はどうせ聞こえないんだろうなと思いながら深いため息をついた。
――今、彼の右目には眼帯がつけられている。あの日、自分との揉み合いの末にナイフが刺さり、視力が完全に失われたせいだ。
たとえ片方の視力を失っても、慣れてくればかなり元通りの生活を送れるようにはなる。しかし帆沼はまだ退院したばかりで、死角が増えた視界や遠近感のズレに慣れていないようだった。
彼の怪我の原因は自分にあるのだし、一応事件は円満に解決した。加えて彼が親類と疎遠だというのなら、しばらく自分が彼の面倒を見るべきじゃないか。
そう、思ってはいたのだが。
「……無事だったなら離してくれ、帆沼君」
「はい、俺は平気です。檜山サンが守ってくれましたから」
「だから離せって言ってるだろ」
「ええ、今はお客さんもいませんから、もう少しこうしていましょう」
――見ての通りの聞く耳持たずである。まあ分かっていたことではあるので、檜山は帆沼の気の済むまでぶら下げておくことに決めた。
(……僕は精神科医でも、心理カウンセラーでもない。よって、彼のこの状態を改善できる手段を持っていない)
立ち上がろうとしたら、帆沼の重みで首が絞まった。少し位置を直し、もう一度ヨイショと立ち上がる。
「わー」
一方帆沼は離れようとせず、楽しそうに檜山の首に巻きついていた。恐らく彼の妄想の中では、自分たちはふざけ合っていることになっているのだろう。
(……そうだな。しばらく、様子を見てみよう)
帆沼の頭を撫でて、もう一度ため息をつく。
(もしかしたら、彼も少しずつ癒えていくかもしれない)
が、それからたったの三日後。
立ち込めたソースの匂いで目を覚ました檜山は、目の前の光景に腰を抜かさんばかりに驚いた。
「ああ、おはようございます」
――何故か。
何故か、帆沼呉一がエプロンをつけて台所に立っていたのだ。
「えっ!!!? はぁぁ!!!?」
「朝ごはんできましたよ。案外、檜山サンって朝弱いんスね」
「いや、なんで君がここに!? え!?」
「焼きそば、嫌いじゃなかったですよね」
朝から焼きそばか。ちょっと重たいな。
いや違う、そうじゃない。落ち着け自分。
「なんで……!? どうやって僕の家に!?」
「マヨネーズつけます?」
「あ、お願い。……じゃなくて!!」
「青のりは?」
「お願い。……じゃなくて!!!!」
埒があかない。檜山は布団から飛び出し、普段の玄関である勝手口へと向かう。
一目見て、仰天した。鍵は、無残にもドアノブごと破壊されていたのだ。
「これ、は……!」
「どうしたんです、檜山サン。焼きそば、冷めますよ」
「……!」
帆沼は、ケロッとした顔でこちらを覗き込んでいる。あまりにも罪悪感の無いその姿に、檜山はゾッと背筋が冷えた。
「き、君……自分が何をしているか、分かってないのか!?」
「?」
「これは立派な不法侵入だぞ! 犯罪だ! それを、君は……!」
檜山の激昂に、帆沼の残った目が悲しげに揺れる。思いもよらぬ反応に思わず口をつぐむと、帆沼が一歩足を踏み出した。
――そういえば、彼は台所にいたのだ。またあの日のように包丁を持ち出してくるのかと檜山が身構えた、次の瞬間。
「……檜山サン」
帆沼のほっそりした背の高い体が、ぽすっと檜山の胸に収まる。硬直する檜山の耳に、不安そうな声が届いた。
「檜山サン、どうしたんですか。怖い顔して」
帆沼は震えていた。その震えを止めようとするように、檜山の服を掴んでいた。
「……俺のことを愛してるなら、そんな顔しないで」
その言葉に、檜山のこめかみがズキリと痛む。
――愛というものに名を借りた、歪んだ欲望の押し付け。吐き気がするほど憎んだその行為が、今目の前に存在している事実。
体が冷えていく。足に力が入らなくなっていく。視界の隅に焼けた鉄を持った父と母がいて、口々に叫んでいる。
あたかも親が子に告げるにふさわしい、聞こえのいい愛の言葉を。
「……檜山サン?」
呼ばれてハッとする。見下ろすと、黙ってしまった自分を心配そうに見つめる帆沼と目が合った。その唇には、小さなピアスがついている。
――自分がつけた傷が塞がらないようにと、つけられたピアス。傷も二人の絆だからと彼は言っていた。
正直に言うと、その思考はうっすら好ましかったのだ。けれどそれは、同時に凄まじいまでの嫌悪感も伴っていた。
(帆沼君は、僕と似ている。似た愛し方をしている)
思い出しかけた存在を、急いで脳内からかき消す。それから、そろそろと彼の体に手を回した。
(……もし僕が帆沼君と愛し合うことができたら、それが最善なんだろうか)
そのまま抱きしめようとしたけれど、胸が潰れるような感情が邪魔をした。思い直し、深呼吸をして腕を下ろす。
(いや)
代わりに、さらさらとした彼の髪に手を置く。
(病んだ人間同士が傷を舐め合った所で、先は無い)
目を閉じる。寄り添っているその人の体は温かく、用意された朝食の匂いが鼻腔をくすぐる。
それでも自分の見るこの世界は何もかもがちぐはぐで、矛盾していて。自らを脅かす強烈な頭痛に、檜山はじっと耐えていた。




