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現世堂の奇書鑑定  作者: 長埜 恵
第5章 言葉を隠したツバメ
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5 兄の部屋

 そこからどうやって家に帰ったのかは、覚えていない。檜山サンからの拒絶が、否定が、あまりにも耐え難くて。

 次にはっきりと意識が戻った時、俺は兄の部屋の中に横たわっていた。


「……」


 自身の温度と同化した床から、ツンと鼻をつく臭いがする。完全に清掃されたはずなのに、まだここには兄の腐臭が染み付いていた。なるほど、魂は美しい世界へと誘われても、器たる肉体は土に還る為に朽ちなければならないものらしい。

 人が死ねば、その体は酵素や微生物によって丁寧に分解されていく。生きた時間からすると比較にならないほど、急速に。


 それは、あたかもこの世界での出番は終わったのだと、神より判じられたかのような。


 ぽたりと汗が床に落ちる。窓越しに蝉が喚いている。がらんとした部屋には、スチール製のベッドだけが剥き出しで残っていた。

 兄の鞄も、服も、画材も、全て捨てられた。遺族の狂乱では無い、ただ腐臭が染み込んで取れなくなって捨てるより他無かったからである。今にして思えば、その匂いも単なる思い込みだったのかもしれないが。

 真新しい床に爪を立てる。もはや生きた兄の痕跡がどこからも失われた、この部屋に。


(……今あのベッドで首を吊れば、俺も兄さんの元へ行けるだろうか)


 ベッドから目を離さぬまま、そんな想像をする。首に縄が食い込み、自分の耳元で血液の音と呼吸音が増大していく。しかし、永遠とも思えるほどの苦しい時間を味わうのはほんの数秒。やがて血液の供給が無くなった脳は、スイッチを切るように意識を手放す。

 天使が訪れるとすれば、きっとこの時。

 光が降り注ぎ、愛らしくふくよかな天使達が俺の元へと舞い降りてくる。互いをくすぐったり、つついたり、俺を見て含み笑いを漏らしながら。甘い希望に満ちたその光の中へと、俺を誘うのだ。


「……」


 だけど、その中に兄はいない。当然だ。兄は限りある肉体という器を脱ぎ捨て、理想の地へと行ってしまったのだから。

 もう二度と、兄さんが俺を導くことはない。


(……)


 ふと、俺の腕の中にアンデルセン童話があるのに気がついた。……さっきまで、何も持っていなかったはずなのに。不思議に思うも、本を体から離し、寝転がったまま表紙を眺めてみる。

 描かれているのは、代表作である人魚姫のワンシーン。美しい人魚が海の向こうにある国と人に恋焦がれ、切なげに頬を染めていた。髪の一本一本は絹糸のように丁寧に描きこまれており、長い睫毛には波飛沫の雫が乗っている。

 けれど彼女の見つめる先は深い青色で描かれており、どこかこれから彼女の身に起きる悲しみを想起させた。


(……あれ? この鳥……)


 表紙の右上の方。深い青色に向かって飛ぶ、一羽の鳥に目が止まった。とても小さいが、形や色合いから察するにツバメだろうか。

 すぐに思い出したのは、親指姫に恋したかの鳥のこと。愛の為に言葉を失う彼女と、愛の為に言葉を隠したツバメ。この二者が同じ場所で描かれることの意味に答えを出したかったけれど、とても今の俺にはできなかった。

 ……あの人になら、分かるのだろうか。


「……」


 心臓が痛い。涙が頬を伝っていく。……檜山サンにに会いたい。言葉を聞きたい。俺の求める答えを提示して、安心させてほしい。だけど願いは言葉にならず、涙になって失われていくだけだった。

 ――やがて陽は傾き、窓から血のような赤が差し込み始め。指の先まで闇に染まっても、俺は微動だにしようとしなかった。

 やっと身を起こしたのは、カーテンの隙間から差し込んだ朝日によって体が照らされ始めた頃。

 口の中はカラカラで、頭はガンガンと痛む。アンデルセン童話をぬいぐるみのごとく抱え、大きく息を吐く。俺は、あることを思い出していた。


(……俺の小説。そういえば、現世堂に置いてきてしまった)


 檜山サンが綴じてくれた自分の小説。……もう一度、あの本が見たかった。彼が、俺のことだけを想って製本してくれた本。愛情の発現たるかの存在を見さえすれば、拒絶や否定など全て嘘だったと信じられる気がしたのだ。

 愛を疑ってはならない。ましてや否定するなんて。何故なら愛していると言ってくれた人に「それは嘘だ」と言うことほど、残酷なことは無いからだ。

 檜山サンは、確かに俺に「愛している」と言ってくれた。だから俺は、檜山サンが俺に示してくれた愛を今一度確かめる必要があった。

 近くにあったペットボトルの蓋を開ける。誰が持ってきたのだろうと疑問を抱いたが、思いきって中の水を一気飲みした。

 カラになった容器を、音を立てないよう気をつけて置く。すると、その隣に刃渡り15センチの包丁が落ちていることに気づいた。

 ……これも、誰かが持ってきたのだろうか。皮製のカバーがついたそれを手に取ってみると、ずしりとした重たさが現実感を突きつけてきた。

 そういえば、人魚姫も王子を殺すためのナイフを彼女の姉妹からもらっていた。そのナイフで王子を殺すことだけが、彼女が助かる道だったからだ。

 それでも結局、愛しい人を殺せずに彼女は海に身を投げたのだけど。

 ――人魚姫は、泡となった。ならば人間である俺は、どうなるのだろう。

 ナイフを鞄の中にしまい込む。そして俺は、ゆっくりと立ち上がった。

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