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現世堂の奇書鑑定  作者: 長埜 恵
第4章 ラ・マンチャの男は幸福なりや
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12 約束

 ……その言葉に、オレは頷きかけた。だって檜山さんは危険をおかして助けに来てくれたのだし、そもそも自分は彼が大好きなのだ。一つでも何か向けてくれるなら、余す所なく受け取りたくて仕方ない。

 だから、連れて行ってくださいと。そう言いかけたのだけど。


『――慎太郎の言葉は、裏が見えない』


 ふと蘇った帆沼さんの言葉に、喉まで迫り上がった声が詰まる。戸惑ううちに、頭の中では彼の言動があぶくのように次々と弾けていた。


 ――『だから、信じてしまう』

 ――『俺は、慎太郎みたいな子ばっかりの世界に行ってみたいのかもしれない』


 ――『言葉の裏を見なくていいから、楽なんだ』


(……ああ、)


 空想の中で、オレは帆沼さんを振り返っていた。想像の彼は、耳を塞いでうずくまり、必死で何かを叫んでいる。


(この人は、本当にただのバケモノなんだろうか)


 記憶の泡が弾けるごとに、脳が冷えていく。オレは、自分が見た帆沼さんの行動を一つずつ掬い上げていた。

 全てを都合良く受け取るはずの彼が、意見の合わないオレに動揺して首を絞めてきたこと。漫画を読ませて一つになることへの恐怖を薄れさせるはずが、逆にオレに論破されて肩を落としていたこと。極めつけに、地下室から出られないと知っておきながら、不安げに「どこにも行かない?」と尋ねてきたこと。

 檜山さんに言われたことが嘘だとは思わない。むしろ事実だからこそ、それら帆沼さんの行動に違和感があった。


「……」


 帆沼さんの認知は歪んでいる。それは間違いない。オレは何度も怖い思いをしたし、裏切られた気持ちにもなった。

 でも一方で、帆沼さん自身はどう思っていたんだろう。

 檜山さんと愛し合ってると信じ込んで。でも檜山さんは結構譲らない性格だし、逆に真正面から否定されて混乱したり傷ついたことはなかっただろうか。

 多くの人は、一度思い切り拒絶されたらそこで諦められる。でも終わらせ方がわからない人は、どうしていいかすらもわからなくて、都合よく合理化し縋りついてしまうんじゃないか。

 ……だけどもし、そんな人が、初めて言葉を交わし合える人と出会えたとするなら。


「……檜山さん」


 ――その人間が今ここで帆沼さんを裏切れば、彼にとって取り返しのつかないことになるんじゃないかと。

 オレは、そう思った。


「すいません……。オレ、やっぱりすぐには行けないです」


 彼の目から、スウと温度が消えたのに怯む。けれど、踏ん張って続けた。


「でも、必ず戻ってきます。だから、一度帆沼さんの元へ行ってきて構いませんか?」

「……何を言ってる? まさか、まだ例のくだらない約束に縛られてるのか?」

「えっと」


 それだけじゃない。そうなのかもだけど、多分違う。


「……分かってます。確かに、帆沼さんはオレを殺そうとしている。加えて、いろんな人を犯罪者にして、弟を巻き込んだ人です。簡単に話し合いができる人じゃないってことも理解しています」

「それなら、なぜ」

「……オレが、裏切りたくないんです」


 冷たい檜山さんの目を、見つめ続ける。……嫌われたかな、それはやだな。オレは泣きそうになりながらも、檜山さんの服の裾を掴んで必死で訴えた。


「馬鹿なこと言ってるのは分かってます。でもオレ、帆沼さんを説得したいんです。以前帆沼さんは、オレの言葉の裏が見えないって言ってました。多分それって、オレの言葉ならそのまんま受け取れるって意味だと思うんです。だったら、オレからの言葉なら帆沼さんに伝わるかもしれない。無理かもだけど、自首するよう説得できるかもしれない」

「……危険過ぎる。君は、もう間も無く手術台に乗せられるんだぞ」

「そこはオレも死にたくないから、めちゃくちゃ抵抗します。その上で、オレは帆沼さんと対話したいです」

「……」

「……多分あの人は、今まで誰にも理解されてこなかった人だ。誰にも話を聞いてもらえなかった人だ」


 ――だから、ずっと一人で叫んでるんだ。想像の中で耳を塞いで叫ぶ帆沼さんを見ながら、オレは言った。


「だから、オレの声が届くなら話をして解決したい。でもここでオレが約束を破っていなくなったら、二度とそれができなくなる気がするんです」

「……」

「それに、もうすぐ警察が来てくれるんですよね? 時間さえ稼げば、今までほど危険は少ないと思います」


 けれどその推測に、檜山さんは首を横に振った。


「……確かに、警察はここを包囲している。けれど人質による足止めを食らっていて、いつ突破できるかは不明だ」

「そ、そうなんですか?」

「ああ。ここに来る直前、僕と莉子さんら警察は誰であれこれ以上の被害者は出さないと決めた。だから莉子さんは上で説得による解決を粘ってるし、僕は隠し通路を使ってここに来た。帆沼君が行動を起こす前に……君を救出する為に」


 ここで檜山さんは、ガッと手でオレの口を塞いだ。その勢いでトイレの壁に押し付けられ、背中の痛みに小さく呻く。


「……だから、僕も君を失うとわかって行かせるわけにはいかない」


 ――振り解けないほど、彼の腕には力がこめられている。檜山さんの目は、今や怒りに満ちていた。


「さっきも言った通り、帆沼呉一は狂人だ。自分の目的の為ならどんな非道も正当化するような男だ」

「……ッ」

「そして君は、異常環境下で一時的にストックホルム症候群を発症している可能性がある。まともな精神状態じゃない。故に、僕は君に対し強行措置を取る必要がある」


 バチッと何かが激しく弾ける音がする。見ると、檜山さんは大きなスタンガンを手にしていた。


「少し痛いと思うけど我慢して」


 眩いばかりの電気が、薄暗い個室を照らす。


「……すまない。だけどこれも、君の為なんだ」


 檜山さんの目は、冷たいままだ。オレは今から襲いくるだろう痛みに目をつぶり、自分の服を捲り上げた。

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