6 抱えたもの
厚い前髪の向こうから、帆沼さんの視線を感じる。緊張のあまり心臓は口から飛び出そうで、指の先は冷たくて。
でも、命綱みたいに彼の手は離せなかった。
「……なんだそれ」
突き放した声に、体がびくりと震える。
「なんで? なんで分かってくれない? そういうふりをしているだけ? 俺の気を引きたいからって……」
「ち、違います! オレは本心で……!」
「慎太郎、分かってるのか? 俺たちは一つになるんだぞ? ここでバラバラになるなんて論外だ」
「でもオレ、帆沼さんとは別の人間です! 同じ所もあるけど、違う所もあって……!」
「ダメだ」
帆沼さんの手がオレの胸あたりを押す。ベッドに倒されたオレが起き上がる前に、彼はのしかかってきた。
「慎太郎」
両手は帆沼さんに封じられ、体重をかけられている。うつむいた前髪の下からは、痛々しい傷跡が見えた。
……でも、その反対側の目は。
「……やめろ。やめてくれ」
何故か、今にも涙をこぼしそうに歪んでいた。
「そんなことを言うな。……なんで、お前までそんなことを……!」
「……帆沼さん」
「慎太郎にまで拒否されたら……俺……!」
ピアスのついた唇が震えている。縫いとめられた手が熱い。存外睫毛の長い左目が、オレを捉えている。
次の瞬間、オレは首を絞められていた。
「ぐっ……!」
「慎太郎、慎太郎! 言えよ! ほら! 俺と一つになりたいって! なぁ! 今すぐに!」
「ッあ……!」
「早く! 早く言えって!!」
「……ッ!」
振り解こうとするも、できない。腕に力が入らない。打たれた薬がまだ効いているのだろうか。それどころか、だんだん視界もぼやけていって……。
「……」
けれど、突然喉に酸素が通い始めた。すんでの所で、オレは帆沼さんから解放されたのだ。
「……慎太郎。慎太郎、ごめん」
首を絞める代わりに、帆沼さんはオレに倒れ込んできた。胸の上に乗っかるアッシュグレーの髪の向こうで、細い肩が震えている。
「……聞きたく……ない。お前が……俺と、一つになりたくない、なんて」
「……帆沼さん」
「慎太郎の言葉は……裏が、見えない。だから……信じてしまう……」
――裏?
彼の言った言葉の意味が分からなくて、尋ねようとした。けれど帆沼さんは一度ぎゅっと手を握ると、体を離した。
「……ごめん。これ以上いると、お前を殺してしまうかもしれない」
「……」
「落ち着いたら、また来る、から」
そう言ってオレの頬を撫でると立ち上がり、よろよろと入り口まで向かう。今なら隙をついて逃げられるかもしれないと思ったけど、そんな気力は残っていなかった。
けれど、これだけは言わねばならない。オレは、掠れた声を張り上げた。
「あの、帆沼さん……! 今日はお話ししてくれてありがとうございました! オレ、嬉しかったです!」
「……」
「よかったら、また聞かせてください!」
帆沼さんは、ドアを向いたまま少し困ったように首をかしげた。だけど結局返事はせず、鉄の扉は軋んで開き、閉まった。
「……帆沼さん」
知れたことはたくさんあった。考えたいことは、もっとたくさん。だけどオレという人間は、それについて思いを馳せるより、生命の欲求に忠実な生き物であるらしい。
お腹が鳴る。視線の先には、帆沼さんが残していった二人分のうどん。
「……勿体無いんで食べときますね! いただきます!」
居場所の分からない監視カメラに向かって弁明しながら、お箸を構えて手を合わせる。ふやけたせいで量が増していた気がしたけど、汁まで飲んでなお足りなかった。そっか、帆沼さんは少食なんだな。そりゃあれだけ細いわけだ。
ので、一応監視カメラに副菜の申請をしておいた。通ったかどうかは分からないけど、言わないよりいいだろう。
器を重ねて、入り口付近に置いておく。その近くに水の入ったコップも二つあったので、ついでに飲んでおいた。
そうしたらすることも無くなってしまったので、オレはまたよじよじとベッドの上に帰ってきた。天井を見つめながら、微妙な空腹感と共にぼんやりと考える。
……やっぱり、VICTIMSを書いたのは帆沼さんだったのだ。檜山さんのためにやったとのことだったけど、正直そこはまだよく分からない。で、他の人を巻き込んだ理由は……殺人教唆同然だけど、なんとなくあの人なりに考えがあったことは分かった。
――オレの言葉の裏が見えない、か。どういう意味だったんだろう。
考えても考えても、答えには行きつかない。また帆沼さんに聞いてみようと思っているとまぶたが重くなってきて、いつしかオレは目を閉じていた。
「……ごめんね、ごめんね。痛いよね」
暗闇の中で声がする。懐かしい声に起きあがろうとしたが、自分の体は鉄の拘束具で封じられており叶わなかった。
「ごめんね、我慢してね。だけど、これで神様のご加護を得られるから……」
――やめて。痛いのは嫌だ。熱いのは嫌だ。
これから起こる事態を知っている自分は、闇に向かってそう叫ぼうとした。けれど口には何か詰められており、くぐもった声が漏れただけで終わる。
「教祖様がね、あなたの心臓からは悪い音がするって言うの。でも、こうすることであなたの体に少しだけ神様の力を宿せる。良い体になるのよ」
「我慢してくれ。本当は父さんたちもこういうことはしたくない。でも、お前の体を良くするためには仕方ないんだ」
じゅうじゅうと音を立てる真っ赤な鉄が、もう目と鼻の先にある。必死で叫んで身を捩ったが、首と頭まで固定されているのでは到底逃げられない。
「目は焼かないようにね」
「うまく避けるよ」
「逃げないで」
「怖がるな」
「愛してるわ」
「愛してるから」
――愛しているから?
愛しているから、僕を焼くのか?
恐怖に泣く僕を縛りつけて、真っ赤な鉄を顔に、首に、胸に、腹に、押しつけるのが?
皮膚が爛れても。叫び過ぎて喉から血が出ても。肉と脂の焼ける匂いに咽せても。何度も失神して、覚醒を繰り返しても。
――凄まじい恐怖に、髪が真っ白になって、二度と戻らなくても。
「正樹」
「愛してるよ」
こんなものが。
こんなものが、愛なわけが。
「……」
少し毛羽立った畳の上で、檜山正樹は目を覚ました。辺りは既に暗くなっており、自分の手もとっぷりと夜の色に染まっている。
変な体勢で寝ていたせいか、またも体の節々が痛かった。自分はまったく学ばないな、と痺れた右手をぷらぷらと振ってため息をつく。
「……馬鹿らしい」
久しぶりに、酷い悪夢を見た。……まるで昨日のことのように思い返される熱の痕跡を、痛みの記憶を、檜山はなぞる。
――愛なものか。あんなものが、愛のはずがない。
愛とは。僕の見た愛とは、もっと……。
「……ッ!」
瞬間、吐き気が込み上げてきた。急いでトイレに向かおうとしたが、間に合わなくてその場にぶちまける。一度吐いてしまえばどうでもよくなって、胃の中のものが空になるまで吐き続けた。
――ああ、早く、彼を救わなければ。
胃液の滴る唇を袖で拭い、眼鏡をかけ直す。奥歯を噛み締め、震える足で立ち上がる。
――自分が、壊れきる前に。
一歩踏み出す。目眩に倒れそうになった所を、壁を殴って平衡感覚を保つ。
そして何かに誘い出されるように、檜山は夜の中に消えていった。




