1 またも、事件
その日、オレが帰宅した現世堂は、きつい花の香りに満ちていた。
「何度も言わせないでくださる?」
そろそろと勝手口の戸を開ける。いつもは堂々と店の入り口から帰るのだが、お客さんがいる日はこうして裏へと回るのが常だった。
「この原稿は本物ですの。それを証明すると約束してくださらないのなら、おいそれと見せることなどできませんわ」
「ですから、それは承服しかねると申し上げているでしょう。紛い物を認知するなど、小生の沽券に関わります」
キツイ口調の女性を前に、檜山さんはいつもの通り穏やかに返している。けれど、そっと様子を盗み見たオレはギョッとした。
(な、何あの服)
黒を基調とした丈の長いスカートに、艶やかで派手なレースの刺繍。歳の頃四十は過ぎていようかという彼女が纏っていたのは、まるで御伽噺の魔女が着るようなゴシックドレスであったのだ。
少なくとも、この典型的な日本の古本屋にはちょっと場違いである。いや、人の趣味にどうこう言うつもりはないんだけど。
「……何度言われても同じです、麩美様。いくら積まれようとも、小生は自分に責任の持てぬ判断を下すつもりはございません。別の古書店をお探しください」
「それは困りますわ。現世堂での鑑定が母の遺言でしたのに」
「その遺言も文書として残されたものではないのでしょう? ならば、こちらがハイと頷ける論拠にはなり得ません。お引き取りください」
……なんだか、いつもと違って檜山さんの態度が手厳しい。まあ相手がだいぶ無理難題を引っ掛けているようだから、それも然りだろうか。
でも、それはそれで珍しい檜山さんが見られて嬉しいオレである。仕事をしてる彼はかっこいいのだ。
今日は檜山さんの好きなアジの開きにしようかなぁと思いながら、オレはいつ彼に呼ばれてもいいように柱の影で縮こまっていた。
「……わかりました」
だけど、とうとうお客さんが折れた。
「あなたの仰る通りにします。だから、どうかこの原稿を鑑定してください」
「ええ、そういうことでしたらお受けいたしましょう」
「ですが、これは本当に本物なのです。それだけはゆめゆめ心に留めておいてくださいまし」
そうして、ガサガサと紙の擦れる音がする。とさりと紙の束が机に置かれた。
「――芥川龍之介の、未発表の遺稿」
彼女から飛び出した言葉に、オレは自分の耳を疑わざるを得なかった。
「私は、芥川龍之介が愛した情婦の子孫ですの」
掠れた女性の声に、檜山さんの沈黙に緊張が走った気がした。
遺稿――とは、その名の通り、作者の死により世に出されることが無いまま残された作品のことである。かの文豪、芥川龍之介の場合は、『歯車』『夢』などが挙げられるが……。
「真っ赤な偽物だったよ」
その晩。ちゃぶ台にぐったりと顎を乗せ、檜山さんは愚痴を吐いていた。
「まず紙質。贋作を作るにしてもあれは雑過ぎる。保存状態が良いってレベルじゃないだろ、彼が亡くなったのは百年前だというのに、どうやればあれほど綺麗な状態で現存させられるんだ。それに字。だいぶ似せてはいるけど、それだけだ。見る人が見たらすぐに分かる。大体ね、芥川龍之介はある時を境にそういう女性関係のゴタゴタは潔癖と呼んでいいほどに神経を使うようになってるんだ。たとえ愛人がいたとしても、その人に遺書も残さず遺稿を渡すとは考えにく」
「はい、アジの開きです」
「わぁい」
檜山さんの口はアジの開きで閉じる。この一ヶ月、檜山さんに料理を作り続けて学んだオレである。
というか、食事のリクエストを聞くたびに「アジの開き」と返ってくるのだ。オレも好きだが、流石に毎日は困る。お肉も食べたい。
「……美味しい」
魚を口に運んだ檜山さんの雰囲気が、一気にほわんとする。
「慎太郎君は料理上手だねぇ。一日の疲れが吹き飛ぶよ」
「そ、そんな! なら一生作りますよ!」
「そこまで拘束するつもりは無いけど」
笑ってかわされる。本気だったのに。
「……でも、まさかあそこまで粘られるとは思わなかったな」
そして夕食も終わり、温かい緑茶を飲みながら檜山さんはため息をついた。それにはオレも同感だったので、うんうんと頷いて返す。
「麩美さん……でしたっけ。結局閉店ギリギリまでいましたもんね。いくら檜山さんが偽物だって説明しても聞かずに」
「そうそう」
「あの人、オレが帰ってくる前からいらっしゃいましたよね。合計何時間ぐらいいたんですか?」
「あー……九時間?」
「くっ……!?」
じゃあ営業時間丸々潰されてるじゃんか!
え? じゃあお昼は?
「ほとんど飲まず食わずでぶっ通し」
「そりゃ疲れるわけですよ! とりあえずお茶おかわり入れますね!」
「ありがとう」
すぐに飲める温度のお茶をどぼどぼ入れて、檜山さんに渡す。秒で飲んだ。そりゃそうだ。
「っていうか、そんなヤバい状態なら早く言ってくださいよ。言ってくれたら、オレもっとご飯作るのに」
「お腹って、空き過ぎると逆にどこまで自分が食べられる状態か分からなくならない?」
「大丈夫ですって。いっぱい残ってもオレが全部食べますから」
「すごい説得力」
とりあえず、この日はそれで終わりだったのである。せいぜい残った問題としては、麩美さんから押し付けられた偽原稿を檜山さんが持て余していたぐらいで。
しかし、オレ達は二日後、思いもよらぬ形で麩美さんの名前を聞くことになる。
「――麩美虎子さんをご存知ですね?」
突然訪れた刑事の丹波さんは、オレ達を見下ろし信じ難い言葉を並べ立てた。
「実は、彼女にある殺人容疑がかけられています。しかし彼女に尋ねました所、事件当日はほぼ一日ここで過ごされていたということです」
「え……」
「つきましては、二日前の麩美さんがここにいたという証拠のご提示に、ご協力お願いします」
……こうして容疑者のアリバイ立証人となった檜山さんは、またも事件に巻き込まれたのである。